メインストーリー
Sekiroのメインストーリーは分かりやすいという確かに「九郎と隻狼という主従を軸にした物語」ということは、ことさら解説するまでもなく分かる
自分の為すべき事が分からなかった九郎が、隻狼の「為すべき事を為すのです」という言葉に導かれ、やがて「為すべき事を見つけ」、それを果たす、といういわば九郎の成長物語であり、仕えるべき主を失っていた隻狼が己の意志により従うべき主を見いだす克服の物語でもある
ここまでは理解しやすい。だがここから一歩足を踏み入れると、途端に難解な概念に行き当たるのである
不死とは何なのか、蟲とは何なのか、竜胤とは何なのか、桜竜の涙で竜胤を断つとはどういう理屈なのか、不死斬りとは何なのか、そもそもの発端として桜竜とは何者なのか
それまでの戦国末期をベースとした人間たちの物語は姿を消し、神代の時代に遡るような神話や怪異譚が姿を現すのである
要するにSekiroのストーリー構造は、人間界レベルの話と神界レベルの話が重なっているのである
この多重構造は、「日本神話」において「神代」と「人代」の連続性を保つために導入された高天原と葦原中国という多層世界観を彷彿とさせるものであり、この二つの重なった世界という概念は、「仙郷」と「葦名」としてSekiroにも導入されているのである
九郎と隻狼の主従の成長物語はSekiroの物語の一面ではあるけれども、すべてでは無いのである。Sekiroには別の面があり、それが神話的側面なのである
神話的側面
ではSekiroを神話的側面から解釈した場合、いかなる物語となるのか結論から述べると、「呪いを解く物語」である
では呪いとは何か?
「不死」である
「呪い=不死」という観念はダークソウルからお馴染みである。不死者というのは、ダークソウルにおいては「火が陰った」ことにより生ずる呪われた者であり、その呪いを解くためには火継ぎをする必要があったのだ
火を継ぐ者ENDにおいて、プレイヤーは火を継ぐことで世界の秩序を取り戻し「不死という呪いを消滅させる」のである
同様に竜胤もまた不死であり、それは変若の御子に言わせれば「竜胤の呪い」なのである
この竜胤という呪いを消滅させること、それが「不死断ちEND」なのである
呪い
ではこの呪いはどこから生じたのか停滞(淀み)である
火が陰るという停滞により世界の秩序が乱れ、世界は生と死の差異が曖昧な状況に陥るのである。ダークソウルでは世界全体が淀んでしまったため、世界に不死者が溢れたのである
この停滞(淀み)が個人レベル(個神レベル)で起きたのが、「竜胤」である
世界が淀んで不死者が現われるように、神の内なる淀みから不死者(竜胤の御子)が現われたのである
この「淀み=不死」を修正する手段が、火継ぎであり、不死断ちなのである。
「火を継ぐことで呪いを消滅させる」
「竜胤を断つことで呪いを消滅させる」
方法は真逆であるが、その目的は同じである
ここには、「不死という呪いを消滅させる」、というSekiroとダークソウルに共通した物語構造が見受けられるのである
不死断ち
ではなぜ、不死断ちが呪いを消滅させることに通じるのかダークソウル(以下DS)で「淀み」が「火の異常」を引き起こし呪いを生じさせたように、Sekiroにおいては「淀み」が「水の異常」を引き起こし呪いを生じさせたのである
そしてDSで「火を継ぐ」ことにより呪いを消滅させたように、Sekiroにおいては「水を継ぐ」ことにより呪いを消滅させるのである
火の異常を修正するのに、燃え盛る火(ソウルからなる)が必要であったように、水の異常を修正するのに、清浄なる水(桜竜の涙)が必要なのである
つまるところ「竜胤の御子」とは、「竜の血(水)に生じた淀み」なのであり、それが「飛沫」として葦名の地に降ってきた「落とし子」なのである
ゆえに血の淀みは、清浄なる涙によって浄化されるのである(涙とは血液から血球を除去した液体。つまりほぼ同じ成分)
なぜならば、神道において罪や穢れは水浴によって祓われるからである
※禊(Wikipedia)
※禊祓(禊祓と三貴子の誕生 Wikipedia)イザナギの右眼から月読命が生まれる
※祓詞(Wikipedia)
※大祓詞(Wikisource)の瀬織津姫の段あたり(祓戸大神)
蟲憑き
また「淀みが不死を生ずる」と理解することで、なぜ蟲憑きが不死になるのかかという謎も理解できる「虫」というのは「人の淀みの根源」(連盟の長、ヴァルトール)だからである
虫が人の淀みを生じさせ、淀みが不死を生じさせる。ゆえに蟲憑きは不死となるのである(それが実際に完全な不死かどうかは議論のあるところである)
闇の王
さてダークソウルにはもう一つ、「闇の王END」がある火継ぎを拒否したプレイヤーは、淀みの世界において「闇の王」となるが、この闇(淀み)の世界とは、Sekiroにおいては「黄泉」のことである
死者が行くべき黄泉は、「生者がいない」という意味で「不死者たちの世界」なのであり、不死者たちは淀みによって生ずるのだから、黄泉とはつまり「よどみの世界」のことなのである
Sekiroにおいて「淀みの世界=不死の世界=黄泉」を求めたのは弦一郎である
彼は黄泉の力を背景に「新しい王」になろうとした。つまり「闇の王END」である
Sekiroの九郎と弦一郎は、DSにおける二つのエンディング、「火を継ぐ者」と「闇の王」を体現する存在なのである
※「開門」に竜胤の御子の血が必要なのは、その淀みから不死を生じさせるためである
淀みの正体
また、「黄泉」とは「闇の世界」であり、つまり「深淵」であるDS2のデュナシャンドラは「闇から生まれた落とし子」(ディナシャンドラのソウル)と言われ、その闇とは「深淵(の主マヌス)」だからだ
深淵の主マヌスは、人間性を暴走させ、深淵の主になったという(深淵の主マヌスのソウル)
マヌスが深淵の主となったのは、暴走するほど莫大で強大な人間性を宿したからである。つまり深淵とは膨大な人間性が溜まった場所なのである。(ゆえに深淵に沸く「深淵沸き」は人間性を落とす)
以上のことから、「淀み」や「闇」の正体が分かる
不死を生ずる「淀み」とは、「人間性の淀み」である
深淵のように膨大な量の人間性の溜まる場所は流れが遅くなり、やがて「淀む」のである。そしてその淀みは闇となり、火を陰らせ、不死を生ずるのである
一方、淀みは闇として「落とし子」も生み出す。それがデュナシャンドラであり竜胤の御子なのである
つまるところ竜の血の淀みが竜胤の御子という「人型」をとるのは、淀みの本性が人間性だからである
人間性
ではなぜ、桜竜に人間性の淀みがあったのか桜竜が人間たちから吸い取った「生の力」のなかに人間性が含まれていたからである。それは神聖なる竜のうちに溜めこまれ、やがて淀んで闇となり、猛毒と化したのである(ソウルシリーズでは神族は闇属性に弱い)
人間性の淀みという毒は桜竜の肉体を蝕んでいき、それは毒であるがゆえに、毒虫の象徴たる「ムカデ」の形を成し、桜竜の肉体から切り離される形で、仙峯上人へと授けられたのである(この偽りの下賜劇を実行し、帰郷計画を企んだのは神域の巫女であろう)
また蟲は「人の淀みの根源」(連盟の長、ヴァルトール)であるがゆえに、憑いた者に人間性の淀みを生じさせ、憑いたものを不死とするのである
一方で桜竜の中に溜まった闇は、竜胤の御子という「落とし子」となって右眼から零れ落ちたのである
※「拝涙」とは、桜竜の右眼に溜まった毒(闇)を抜くための儀式である。また、闇は左腕にも溜まり、それは蟲として仙峯上人に授けられた。この闇による二つの後遺症が「竜胤の呪い」として隻狼にまで受け継がれたのである
蟲と竜胤の御子とは、両者とも人間性の淀みから生じた同根存在なのである。であるがために、蟲憑きたちの作りだした変若の御子と竜胤の御子とは、その能力がほぼ等しいのである
※丈の咳は淀みが原因である。その淀みは桜竜を蝕んだ蟲を生み出す淀みである。ゆえに丈は死んだというよりも、蟲を切り離すことができないまま、蟲に身体(右眼と左腕)を蝕まれた状態、あるいは「蟲」となって生きているのかもしれない。どこかにいるであろう巨大で醜い蟲のかたわらには、巴が寄り添っているのかもしれない
桜竜
さて、そもそもの発端である「竜胤(桜竜)」はどこから「放たれた」のかまず、桜竜というのは竜神である。竜神というのは、神道では水神である
加えて「故郷を放たれ、この日本に流れ着いた」というのだから、日本国内の湖や川ではない
また仙郷という特殊な時空にいてさえ「あるべきではない場所に、あるべきではないものがある」といわれることから、竜の故郷とは、よっぽど人間世界とは隔絶した場所である
そして何より、桜竜は雷が苦手である
まとめると、日本国外、水に関係する場所、人間社会と隔絶した場所、さらに雷の無い場所となるが、地球上にひとつだけこれに当てはまる場所が存在する
それが、「深海」である
蛇足
Sekiroの世界やストーリーの多層構造は以前にも触れたことがあるが、今回は過去作との類比をメインに考察してみたものであるすでに淀みの対象が世界から個(大宇宙から小宇宙)へと変更されているし、他の様々な事情から、世界観がひとつにまとまることはないだろう。また過去作の記憶もかなり薄れており間違っている部分もあるかと思う(よってこの考察に固執するつもりはない)
とはいえ、それでもやはり類似した構造が見いだせるのである(例えば不死が淀みによって生じる呪いであるところなど)
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