2019年5月6日月曜日

Sekiro 考察27 能

もしかしたら元ネタのひとつであるかもしれない能との関連
正直にいうと、両者を比較して考察できるほど能に詳しくないので表面的な類似しか指摘できない

詳細は「the能ドットコム」の演目事典などから(英語版もあり)

猩々はアクション的に能のや歌舞伎の「猩々」が元ネタであろう。エマは内容とあまり関係が無いが「絵馬」。田村は坂上田村麿つながりで「田村」。九郎(義経)を庇護する天狗という構造は「鞍馬天狗」から

能の上演形式に「修羅物」というのがあり、修羅道に落ちた武者たちの姿を描く。「清経」では修羅道や西方浄土が触れられている

は「」からであろう。これも修羅能である(修羅能はSekiroに取り入れられているものが多いのかもしれない)

貴族のは「敦盛」(笛の名手)

霊水は「枕慈童(まくらじどう)」や「養老」に登場。不老不死の水や活力の湧く

は「嵐山」。嵐山には桜の神である翁と嫗が登場(白木と黒木の翁?)

宮の貴族の状態は、老いを描いた「卒都婆小町

日の本の外からやって来た妖怪として、玉藻の前九尾の狐が登場する「殺生石

龍神は「竹生島」。龍神は天女にもなる


夢幻能


※「the能ドットコム」の用語事典「夢幻能」参考のこと

能には夢幻能という形式がある

ワキ(僧や武士などが多い)が、旅の途中で謂れがありそうな(たいていは草木)や人(前シテ)と遭遇する。その後、土地の人にその由緒(たいてい悲劇)を聞かされる。その夜、のなかに由緒に関わる後シテ(神や精や霊)が現われ、悲劇を追想して物語る、といったような形式だ

前シテの多くは、(里や都の女)や老人(翁や嫗)、童子であり、その本性(後シテ)はや草木の精霊亡霊である

遭遇した物が草木である場合、由縁を語る前シテ(女や老人)は草木の精霊であることが多い(「藤」や「杜若」、「高砂」がそうである)

この構成ソウルシリーズにも見られるものである(「ダークソウルの能楽構造」という考察を書こうと思っていた)

例えばDS3の覇王ウォルニール(盃に触れるとボスエリアへ)や、無名の王(鐘を鳴らすことでボスエリアへ入れる)などは、由縁のある物品触媒として、ボスとの邂逅を果たす装置とも考えられ、ここには能楽における夢幻能共通する思想が見受けられるのである(篝火の転送システムは、そのもっとも普遍的な形である)

ブラッドボーンはさらに顕著であり、という死者を象徴する触媒によって様々なマップへと移動するが、これは死者たちの過去(夢幻)追想するための装置とも考えられ、獣狩りの夜とはそうした夢幻の集合体なのである(とくに聖杯ダンジョンにおいて顕著である)

同様のシステムはSekiroにも見受けられ、それが仏像と鈴による過去の再体験機能である。過去作よりもさらに明瞭に、記憶(つまり過去)と説明されるが、これは鈴の持ち主の過去を追体験することであり、ワキや観客が夢幻能のなかでシテの悲劇的物語を追体験するのとほぼ同様である

だが、現在において語られるという意味で、夢幻は完全に過去というわけではない。それは追想であり、その思い出は語られたその時々に創作されるがゆえに、現在そのものであり、また現実でもある(よって過去は「今この瞬間」に改変される)

さて、夢幻能の構図を当てはめるのならば、神域にいる「巫女」の正体も明らかになってくる

杜若」の杜若の精であるように、「」の藤の精であるように、巫女とは桜竜の精である

また例えば「葛城」では、女は自分が葛城の神であると明かし、蔦葛によって縛られて苦しめられていると語る。そしてその苦しみを取り除くために山伏たちに祈祷をしてくれと頼むのだが、「拝涙」の後、巫女が「静かに眠っている」のは、桜竜の苦しみを隻狼が終わらせたからかもしれない

杜若」では、現われた杜若の精は、仏の冥助により悟りを開いたとして舞いを舞い、朝になると満足して消えてゆく

桜竜との戦闘は、隻狼にとっては戦いであったが、桜竜にとっては「舞い」だったのかもしれない。拝涙という慈悲を象徴する儀式を経て、桜竜の御魂は鎮められたのであろう


蛇足

ソウルシリーズやブラッドボーン、Sekiroにおいて度々話題になる時間軸や因果関係の難解さは、それが「その時々においてプレイヤーに物語られた物語」であると理解するとわかりやすい(のかもしれない)

キャラクターが過去へ時間遡行しているのではなく、その時々においてプレイヤーがキャラクターの物語を新しく語っているのである。そのたびに過去は新しく創造され、プレイヤーの語りによってキャラクターの現実は改変されてゆくのである(そのようにプレイヤーが物語っている)

それゆえ、映画や小説といった「すでに完成された物語」を読むのと異なり、ゲームの物語はプレイヤーの数だけ存在する

プレイヤーの存在が強く前提されるという意味で、ソウルズボーンやSekiroはプレイヤーがゲームマスターとプレイヤーを兼ねる、一人で遊ぶTRPG(テーブルトークRPG)のようなものかもしれない


2 件のコメント:

  1. 能楽との関連性は非常に面白いですね。細かくまとめていただき、ありがとうございます。宮崎さん自身がインタビューなどで「ケレンミ」という言葉を使いたがるのも、その元ネタのためであるかもしれません。

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    1. 感想ありがとうございます
      ソウルシリーズやブラッドボーンのボスの登場シーンはケレンミたっぷりですからねぇ。能楽に見られるような、リアル性を極限まで排除することで逆に唯一無二のリアリティを醸し出すような、そんな方法論なのかもしれません

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