2018年4月15日日曜日

ゼノブレイド2 考察8 グノーシス主義と超人思想

キリスト教グノーシス主義と主流派キリスト教の最も根本的な差異は、創造主の捉え方である。

創世記にあるように、主流派キリスト教は世界を創造した神こそが善であると考える。
一方でグノーシス主義では、世界を創造した存在こそが悪の根源とし、悪の創造主の上位に善なる神がいると考える。

主流派キリスト教
 善なる神(創造主)→世界
 
グノーシス主義
 善なる神・・・・・・→悪の根源(創造主)→世界

なぜグノーシス主義がこんなにややこしい構図を創出したかというと、悪の起源の問題を解決するためである

ドストエフスキーはその著作『カラマーゾフの兄弟』において、イワンに反カトリック的な教説を述べさせているが、そのうちのひとつに「悪の起源の問題」がある

イワンは「両親に虐待された末に死んだ幼児の話」をする
何の罪もない幼児両親はただ邪魔だからという些細な理由から虐待し、幼児は糞塗れで死んでいくのである

なぜこれほどの「悪」がこの世界に存在しているのか
善なる神が作ったはずの善なる世界に、なぜ「悪」が存在しているのか
もし本当に神が世界を造ったのだとしたら、「神はこの幼児に加えられた窮極の悪」を許していることになる

いや、許しているどころか、神がその意志により世界を造ったのだから「悪を望んで」さえいる

善なる神がなぜ悪を許すのか
なぜ人類は悪によって苦しみ続けなければならないのか

この難問に対するキリスト教、ユダヤ教側からの一応の回答として『ヨブ記』がある

神とサタンとの賭けの対象となってしまったがために、義人ヨブが様々な苦難を受けるという話である
苦難は理由もなく突然、何の前兆もなしにヨブを襲い、ヨブは家族や財産をすべて失う
なぜ自分がこれほどの禍いを受けなければならないのか、ヨブは苦悩するが神を信じ続ける
サタンや友人たちによる説得や誘惑をはねのけ、神への信仰を捨てなかったヨブは最後は神によって報いられる

つまるところ偉大なる神の意図矮小な人間は理解することができず、すべては神の不可知の意思によるところであり、人間が可能なのは神を信じることだけである、となる

なんだか煙に巻かれた感は否めないが、まさしく問題を有耶無耶にしているのである

実は、この根源的な問題をキリスト教は未だ完全に解決できていない
それほどこの問題はキリスト教にとってクリティカルな問題なのである

なので、キリスト教ができてから遙かに下ったドストエフスキーにも突っ込まれているのである


一方グノーシス主義者は、世界に悪があるのはこの世界を創造した者が悪であるからだ、と単純に考えた
善なる神ではない悪の体現者(デミウルゴスとかサバオート、ヤルダバオトなどと呼ばれる要するに悪魔)が世界を造ったのだから世界に悪があるのは当然である

とはいえ、善なる神と悪魔との間に繋がりがないわけではない(悪魔も神の要素を微かに有している)

宗派によっても異なるがグノーシス神話における善なる神は「何もしない」か「消極的」である
ただし善なる神を仰ぎ見る天使的な存在がいる

そのうちの最後列にいる天使(男性的天使と女性的天使の対存在であることが多く、女性的天使はソフィアと呼ばれることが多い)が、好奇心から神を直接知りたいと望む

この好奇心による過ちが、重大な事件を引き起こす
あまりに不遜な試みゆえに、ソフィアは神のいる世界から弾き飛ばされそうになる(落下する)

このとき、ソフィアは自らの内にある「情念」を切り離して神のいる世界にとどまるが、一方切り離された情念は、神の世界からこぼれ落ちる
どこへ落下するかというと、暗い水面(創世記に対応)、深淵等のはっきりしない時空である

この「情念」こそが、創造主デミウルゴスとなり、世界を創造する悪魔となったのだ
神との繋がりを保ちつつ、悪の起源天使の好奇心(「情念」)と位置づけることで、グノーシス主義者は「世界に悪が存在する理由」について応えようとしたのだ。


ややこしいというかひどく迂遠な思考法であるが、すべての一神教は構造的にこの問題を避けて通れない

善と悪の神を前提とする「二元論宗教(例えばゾロアスター教)」ならば答えはもっと簡単で、人間は善と悪との闘争に巻き込まれており、人は悪と戦わなければならない、となる



なぜこの世界に悪が存在するのか?
この疑問は、日々報道される忌まわしい事件を思えば現代人にも通用する問いである

この難題に対する明快な答えを人類はまだもっていない現代人の多くが神を信じていない現状で、神を前提として道徳を語られても、説得力がない

ただし、人類史のなかでただ一人だけ生真面目に真っ向正面から応えようとした人物がいる

ニーチェである

ニーチェはその著作『ツァラトゥストラかく語りき』において、神の死とともに超人思想を説いている

「神は死んだ」という有名な文言によって、ニーチェは神が死んだあとの世界、神無き世界を読者に現前させる
二元論的な宗教の開祖であるツァラトゥストラ(ゾロアスター)に「神の死」を宣言させているところにポイントがある

つまり「悪の起源」に対して「二元論宗教」という便利な逃げ場使えないよ、とあらかじめくぎを刺しているのだ
ニーチェは神という安易な避難所に逃げ込むことなく、とことん思索を突き詰めようとしたのだろう

神の存在しない空疎な世界捨て置かれている
いま感じている苦痛明日も感じているだろうし、百年後の誰か同じ苦痛感じているだろう
苦難と苦痛延々人を苦しめ続け、それは救済されることなく、未来永劫終わることがない

苦痛あふれる世界が永劫に回帰する

ニーチェにおける永劫回帰とは、意味が喪失した無の深淵のなかで、苦痛に満ちた同じ「生」繰り返し生きることに他ならない

この途方に暮れるような絶望的な状況下「然り(それでよし)」と言える人間こそが「超人」である

突然だが、この超人思想こそ「ゼノブレイド2」の主人公「レックス」の基本的な思想なのである
王道物語の主人公でありながらレックスに対する批判がやや多いのは、「超人思想」というラジカルな思想、属性が付与されているためである

永劫回帰の苦悩を肯定するその姿勢はゼノギアスにおけるフェイと似通う)


マルベーニ

上でグノーシス神話における世界創造について触れた。そこで善なる神創造主かすかに繋がりがあるということも記した。当然ながら創造主に造られた人間もまた善の神と繋がりがあるということになる

善なる神・・・→ソフィア・・・→情念→創造主→世界+人間

より簡単に記すならば、上記のような系譜となる

つまり人間善なる神由来の何らかの「要素」を受け継いでいることになる
グノーシス主義おいては「本来的自己」「霊魂(プネウマ)」「火花」や「光の粒子」と呼ばれるもので、それら「神(霊)的要素」肉体(物質)という牢獄に閉じ込められている

人間が神の救済にあずかれるのはこの神的要素ゆえであり、霊魂だけが神の世界へと到達することが可能なのである。この自身の内にある神的要素を認識することがすなわちグノーシス(認識)に至る条件の一つなのだ(ほかにも反宇宙論だとか救済者とか)

さて、これらの要素をゼノブレイド2に当てはめてみると下記のようになる

神→ゲート
創造主→クラウス
神的要素→プネウマ(プネウマには「魂」という意味がある)

つまるところグノーシス神話における「神的要素」外的に表現したのがプネウマ

実際ヒカリとホムラがプネウマの形態をとった際には、彼女はゲートの力を帯びている
その瞬間彼女はゲート由来の要素そのものとなり、それをあらわす名が「霊魂(プネウマ)」なのである

ただしゲート由来の神的要素を秘めているのは天の聖杯の、しかもプネウマ形態になった時だけである
ところが、ただのコアクリスタルにも神的要素が含まれていると考えた者がいる

マルベーニである

マルベーニは、コアクリスタルに秘められた神的要素をかき集めて神の国へ行こうとしたのだ
(あるいは神的要素との合一を果たし、最終的に神との合一を目指した)

世界を滅ぼしたいほど憎んでいるにもかかわらず、世界をすぐさま滅ぼそうとせず、なぜかコアクリスタルの洗礼を500年も続けている、その理由が、この神的要素集めなのである

マルベーニとしてはもはや世界はどうでもよかったが、神の御許へはどうしても行きたかった。そのためのコアクリスタル洗礼だったのだ

ブレイド(コアクリスタル)を統べる力を与えられたのは、その内にある神的要素を抽出して神の国へ戻るためであり、神は自分にそうせよと命じている、と考えたのだ

ただしマルベーニは創造主クラウスを神だと勘違いしているし、コアクリスタルに神的要素は含まれていない
ゆえに、コアクリスタルをどれほど集めようとも、神の御許へは到達(届かない)できないのである

神の御許へ行こうとして500年も頑張るのは、ゼノギアスのカレルレンを彷彿とさせる)


イーラ

偽物の神本物の神と信じて合一を目指すマルベーニとは対照的に、イーラ(シン)はグノーシス主義的な思想に行き着いた。

この世界に悪が溢れるのは、神が悪そのものであるからだ。この世界に悪をもたらした神を殺すことでしか、この苦悩の輪廻終わらせることはできない

そう考えたイーラ(シン)は神を殺しに行く

一方、神との合一を目指すマルベーニとしては神を殺してもらっては困るのである。しかも、神を殺そうとしているのがただの狂信者ならともかくメツという本当に神を殺せそうなブレイドなのである

世界樹においてマルベーニが泡を食ってイーラを妨害したのは、マルベーニのこういった事情があるからなのだ
(正直、初プレイ時にはなぜマルベーニがイーラを妨害するのかよくわからなかったが、マルベーニ神を憎まず世界を憎んでいるのに対し、イーラ神も世界も憎んでいるために、双方がぶつかりあうこととなったのだ)

最後の場面でシンレックスに対して永劫回帰(永劫に続く苦痛の世界)を提示し、レックスはそれに対して「超人思想(たとえ世界が同じ苦しみを繰り返そうとも、それでも人は前に進んでいく)」で応える
(マルベーニとシンを合体させるとカレルレンになるか)


メツ

神を殺そうとするシン世界を滅ぼそうとするメツは似ているようで少し思想が異なる

メツはマルベーニの世界を憎悪する性質を純粋に受け継いでいる
あまりに純粋に受け継いだがゆえに、メツは世界の中にいる自己すらをも憎まざるを得ない
世界を消去する者という「役目」によりメツは世界を憎悪するが、しかしその「役目」すら憎まざるを得ないのである

自己存在の否定が極限にまで高まった存在がメツであり、彼は与えられた役目をも拒絶しようとして、神でも創造主でもない「悪の起源」へとたどり着く

それが「自由意志による悪」である
自由意志によるには、それ以上の起源は存在しない。それ以上遡ることができないからだ

役目でも命令でもなく自分自身の意志として悪を志向し、世界を消去しようとする
(与えられた役目を果たしているうちは、大嫌いな自分から逃れられない。かといって悪として造られた彼は善に転向することもできない。できるのは自らの意志として悪を行うことである)

それはもはや虚無への意志であり、究極の苦悩でもあったが、それゆえに彼自身の「生」に意味を持たせた
『生そのものは本質において、他者や弱者をわがものとして、傷つけ、制圧することである。抑圧すること、過酷になることであり、自分の形式を強要することであり、他者を自己に同化させることであり、少なくとも、穏やかに表現しても、他者を搾取することである』(『善悪の彼岸』光文社古典新訳文庫 中山元訳)
すなわち被造物の最たるものである彼は、生の根源的な部分にまで立ち返る必要があったのである。そうしなければ自由意志を持つ存在として生きることができなかったからだ

その一種ルサンチマン的な怨恨の発露は、当然ながら超人としてのレックスには通用しない
あくまで善悪の水準に止まるメツに対し、レックスは善悪の彼岸に立つからである

『こうして正午の鐘が、大いなる決定の鐘が鳴り響き、これが意志をふたたび自由にしてくれ、大地にはその目標をとりもどさせ、人間にはその希望をとりもどさせるのだ。この反キリスト者、反ニヒリスト、神と虚無を克服する者――この者はいつか訪れざるをえないのだ……。』(『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫 中山元訳)