2020年8月27日木曜日

Bloodborne 考察まとめ2 聖血 追記:二つの聖血

青ざめた血

前回は「青ざめた血」について考察した

簡単にまとめると、青ざめた血とは儀式を暴いた際に現われる青ざめた血の空の色であり、月の魔物の別名であり、上位者の赤子を産むことの出来る者たちのであり、幼年期のはじまりENDにおいて狩人が到達する「青ざめた血」の流れる上位者のことでもある

その際に「青ざめた血」の理想的モデルとして医療教会に崇拝されたのが「聖血」であるとし、その聖血を女王ヤーナムの血と仮定したのだが、なぜ聖血が女王ヤーナムの血でなくてはならないのかは省略した

これは「まとめ」が冗長になることと、「青ざめた血」が狩人の物語に直接関与するものであるのに対し、「聖血」が物語のバックグラウンドに置かれているから、等々の理由があった(簡単に言うと長くなる)

そこで今回は書き残していた「聖血」そのものについて考察してみたい


古い血

聖血という語が示す概念は1つだけではない。この語にはいくつかの意味が重ねられている。また事実その血は「相反するものの結合」した複合物質である

そのうち古い血は聖血が示すものの1つである。というのも、エミーリアの説教において語られる「聖血」は英語版では「old blood」と訳されているからである


聖血を得よ
Seek the old blood.(教区長エミーリア)

つまり偽ヨセフカの「今度は、古い血を試すつもり」というセリフは「今度は、聖血を試すつもり」の意である

であるのならば、偽ヨセフカの治療によって「星界からの使者」になった患者は、「聖血(古い血)」以外の血(あるいは治療)によって変化したことになる

なぜならば、「今度は、古い血を試すつもり」のセリフが聞けるのは、何らかの治療により患者を星界からの使者にしたのことだからである

偽ヨセフカはまず「聖血」ではない他の治療を患者にほどこし、そのために患者は星界からの使者となったが、それに飽き足らず「今度は」聖血を使おうとしているのである

※偽ヨセフカの最初の治療については最下部「二つの聖血(追記)」で考察している


上位者の血

さて、古い血というと「古い上位者の死血」が連想される。しかし英語版のテキストには「Blood Echoes of an Old Great One.」とあり、上位者の「古い血」ではなく、「古い上位者」の血のことである

上位者として古いのであって、その血が古いとは書かれていないのである

骨炭装備にある「最古の番人」については、「その姿と魂を業火に焼かれ灰として永き生を得た」とあり、彼女たちに「」はない

また単に上位者の血古い血と呼んだのだとすると、まずロマ星界からの使者(大)エーブリエタース月の魔物ゴースは古くはなく、「古い」と形容する理由がない

またメルゴーメルゴーの乳母はメンシス学派がはじめて邂逅を果たしたのであり、医療教会の聖血彼らの血とすることは時系列的に不可能である。そのうえメルゴーには姿がなく血を持っていない」可能性すら示唆されている

※後述するがメルゴーに関しては生い立ちが複雑なので、ここではあくまでも狩人が遭遇した「泣き声の上位者」としてのメルゴーを指す

残るはアメンドーズであるが、確かに大聖堂にはアメンドーズの像が立ち並び、医療教会との関係の深さがうかがえる

またカレル文字「月」に「呼ぶ者の声に応えることも多い」とされ、それを裏付けるようにアメンドーズは教会に張り付いている姿がよく見られる

また椅子に座ったメンシス学派のミイラの近くにもアメンドーズが見られ、彼らはミイラの声に応えるかのように狩人の進行を妨害してくる(ヤハグル等において)

と様々な点において聖血がアメンドーズの血であってもおかしくはない

だが一方で、確かにアメンドーズの像は大聖堂に建ち並んでいるのだが、主祭壇に祀られているわけではないこと、またヤーナム大聖堂において聖血を注いでいるのが「女性像」であることなどから、聖血をもたらす者ではない可能性が高い

アーモンドの木(アメンドーズ)とエーブリエータス的な特徴をもつ女神像

アメンドーズの考察において、女性像の背後にあるのがアーモンドの木であり、アメンドーズを象徴しているという仮説を提唱した。そこからもわかるように、アメンドーズは決して主役ではない

医療教会において主神となるのはやはり聖血を注ぐ女神像の方であろう

この女神像に関しては、エーブリエタースの特徴も見られる(触手やローブ)。しかしながら聖歌隊によってはじめて見(まみ)えたエーブリエタースが医療教会の初期からの主神であるとは考えられず、したがってローレンスに聖血をもたらした者ではない可能性が高い(この点については、二つの聖血(追記)で述べている)

またエーブリエタースと見(まみ)えた後に女神像が作られたとするのも不可能である。なぜならばDLC狩人の悪夢において、この女神像は手術祭壇の下に隠されているが、手術祭壇があるのはルドウイークの後である

DLCは進むにつれて時間を遡(さかのぼ)っていく趣向が取り入れられている。つまりは医療教会最初の狩人ルドウイークの前にはすでにあの女神像があったと考えられるからである

加えて聖歌隊の誕生大聖堂の建設後かなり経ってからである

孤児院の鍵
大聖堂の膝元にあった孤児院は、かつて学習と実験の舞台となり
幼い孤児たちは、やがて医療教会の密かな頭脳となった

教会を二分する上位会派、「聖歌隊」の誕生である

他にエーブリエタースの先触れによりその一部が召喚され聖血をもたらした、ということも考えられるのだが、そもそも聖血による血の救い地下遺跡から持ち帰られた聖体が端緒である

かつてビルゲンワースに学んだ何名かが、その墓地からある聖体を持ちかえり
そして医療教会と、血の救いが生まれたのです(血族狩りアルフレート)
何らかの触媒によって召喚されたのではなく、聖体は聖体として物理的に持ちかえられているのである

まとめると、墓地から持ち帰られた聖体が医療教会とその血の救いにつながったのだから、聖体が持ち帰られたのは聖歌隊の誕生前のことである(聖歌隊の本体である医療教会創設より以前である)

つまり「遂に」聖歌隊が見えることのできた「エーブリエタース」を聖体とすることはこれもまた不可能なのである

イズの大聖杯
医療教会上位会派「聖歌隊」の礎となった、イズの大聖杯は
ビルゲンワース以来、はじめて地上に持ち出された大聖杯であり
遂に彼らを、エーブリエタースに見えさせたのだ


以上をまとめると、聖血(古い血)は上位者の血そのものではない

※個人的には女神像はエーブリエタースの像とするのが最も蓋然性が高いと思えるのだが、細部を詰めていくとどうしても矛盾が生じてしまう。この矛盾については最下部で「二つの聖血(追記)」として考察している


聖血

さてこれでようやく聖血について考えることができる。それは上位者の血でも古い番人の血でもない

それは墓地から持ち帰られた聖体によって生まれ、血の医療として神秘の力を持つと同時に、獣化の危険性も宿した血である

聖血を得よ
だが、人々は注意せよ
君たちは弱く、また幼い
冒涜の獣は蜜を囁き、深みから誘うだろう(教区長エミーリア)

聖血は血の医療の根源であり、ゆえにヤーナムを訪れた狩人にも輸血されたのである
※後述するが厳密には聖血そのものではなく、教会によって精製された聖血と成分が近しい血である

まさにヤーナムの血の医療、この特別な血液だけが
ずっと君を苦しめた、その病を癒やすのだから(血の医療者未使用セリフ)

よろしい。これで誓約は完了だ
それでは、輸血をはじめようか…なあに、なにも心配することはない
何があっても…悪い夢のようなものさね…(血の医療者)

狩人が見る「血の獣が炎によって撃退される光景」は、神秘が血を撃退したことを意味しているのである。、すなわち獣性、転じて獣を狩る者は、獣の蜜を跳ね返すことの出来る神秘の者でなくてはならないのである

血の獣が炎によって撃退されるシーン

これはまさしく試練である。血の試練を受けることで獣性に呑みこまれるか、あるいは獣性に打ち勝つ者であるかを判定されるのである

そして獣性に打ち勝ち、試練に合格した者のみが「狩人」となれるのである

ならば聖血には神秘とともに獣性も含まれていなければならない。なぜならば獣の病は人類全般の病気ではなく、ヤーナムの風土病であり、よそ者の主人公狩人が試練を受けるには、神秘だけでなく獣性も取りこむ必要があるからである

神秘と獣性の両方の属性を含んだ血、すなわちそれは「青ざめた血」のことである(前回の考察参照のこと)

そして青ざめた血を持つ者であり、かつ墓地におり、また聖体をもたらすことのできる存在が一人だけいる

トゥメルの女王、ヤーナムである


聖体

トゥメル系ダンジョンには「女王殺し」と呼ばれる古狩人が登場する
事実彼は女王を殺したのであろう。そして彼はプレイヤーが女王ヤーナムを倒したときと同じものを手に入れたのである

ヤーナムの石である

これがビルゲンワースに持ちかえられた聖体であり、古い血や聖血の源なのである

ヤーナムの石
トゥメルの女王、ヤーナムの残した聖遺物

女王の滅びた今、そのおぞましい意識は眠っている
だが、それはただ眠っているだけにすぎない…

テキストからは眠っている意識ヤーナムのものなのか、あるいは産み落とされた何者のものなのか判然としない

女王の滅びた今」とあることから後者のように思えるが、英語版では「彼女の恐ろしい意識」とあることから女王自身の意識のようにも読み取れる

Yharnam Stone
The Queen lies dead, but her horrific consciousness is only asleep, and stirs in unsetting motions.

また没イベントの一つに、このヤーナムの石がゴースの遺子として扱われるものがある(詳細は→Bloodborne 没データ「ヤーナムの石」)。加えてグラフィック的には子宮内の胎児のようにも見える



事実はどちらか? 

どちらでもありどちらでもない

ヤーナムの石は受肉しそこねたメルゴーの器であり、今そこに宿っているのは女王ヤーナムの意識なのである

メルゴーはおよそ尋常な生まれ方はしなかった。ゲーム上で彼は泣き声としてしか存在せず、その肉体はいっさい表示されない

なぜならばメルゴーは器(ヤーナムの石)に宿る前に「奪われた」からである(おそらく乳母によって)

残されたヤーナムの石は宿るべく意識を持たず、女王ヤーナムは生まれることのない胎児を身籠もり続けていたのである

やがて女王は女王殺しに殺され、その胎児(ヤーナムの石)はヤーナムの女王の意識を宿したまま奪われたのである

女王の意識はビルゲンワースが悪夢に取りこまれる過程で石から離れ、意識体としてさまようことになる。狩人が出会う女王ヤーナムは彼女の意識(遺志)である

さて、胎児に流れていたのは胎盤を通じて供給されるヤーナムの血である

それは「青ざめた血」であり、「地下遺跡を築いた古い種族」の王の血でもあった

トゥメルの汎聖杯
なおトゥメルとは、地下遺跡を築いた古い種族の名であり
神秘の知恵を持った人ならぬ人々であったと言われている

その神秘の知恵を持った古い種族であり、またその血には「劇毒」が含まれており、その劇毒の根源は「獣血の主」である

つまるところ女王ヤーナムの血は、神秘と獣性を統合した「青ざめた血」なのである


3本目のへその緒

ヤーナムの石が聖体であることで、メンシス学派がメルゴーの3本目のへその緒を入手した経緯が判明する

ヤーナムの石はメルゴーの器として使われるはずであった。しかしメルゴーは宿らず姿無きまま乳母に奪われたのである

残ったのは胎児(物理)である

しかしそれは上位者の赤子の器である
そして上位者の赤子ばかりが持つとされるモノがある

3本目のへその緒である

ミコラーシュヤーナムの石から3本目のへその緒を取り出し、奪ったのである


前回の「青ざめた血」や今回の「聖血」の成り行きをまとめた図が↓である

暫定的な図である


処刑隊医療教会のカテゴリーに入っているのは、アデーラやルドウイークイベントにおいて、「処刑隊」の装束が「教会装束」と認識されるからである。またアイテム倉庫に入った際のカテゴリー分けも「教会装束」に分類される

※また処刑隊装束は後の教会装束の基礎となった、とあることから処刑隊から直接に聖歌隊やメンシス学派につなげるべきかとも考えたのだが、枝分かれの位置によってそのあたりは表現した

聖歌隊とエーブリエタースについてはやや省略した部分がある。そのうちまとめようと思う



血の組成

その血に特別な効果を有する者たちがいる

娼婦アリアンナと血の聖女アデーラならびに血の聖女アデラインである

アリアンナの血
聖堂街の娼婦アリアンナの「施しの血」
彼女の血は甘く、HP回復に加え
一定時間スタミナの回復速度を高める

古い医療教会の人間であれば、あるいは気づくだろうか
それは、かつて教会の禁忌とされた血に近しいものだ

アデーラの血
医療教会の尼僧アデーラの「施しの血」
HP回復に加え、一定時間、さらにHPを回復し続ける

教会の尼僧たちは、優れた血を宿すべく選ばれ
調整された「血の聖女」である
その施しは、医療教会と拝領の価値の象徴なのだ

アデラインの血
実験棟の患者、アデラインの「施しの血」
HP回復に加え、一定時間、さらにHPを回復し続ける

アデラインは元々「血の聖女」であり
優れた血を宿すべく、教会の調整が施されている
それは1つの、有意なケースであったのだろう

またヤーナムでは輸血液にもHPを回復する力がある

ヨセフカの輸血液
ヨセフカの診療所、その女医に渡された輸血液
精製されたそれは感覚効果が高く、より大きなHPを回復する

精製の時間と手間からは、一般的なものではない
恐らくは、女医の自製によるものだろう

輸血液
血の医療で使用される特別な血液。HPを回復する

ヤーナム独特の血の医療を受けたものは
以後、同様の輸血により生きる力、その感覚を得る

故にヤーナムの民の多くは、血の常習者である

このうちで例外的な効果を有するのは「娼婦アリアンナの血」である
その血がHPを回復することは同じだが、スタミナの回復速度を高める、という効果だけは他の血には見られない特別なものである

血の聖女の血ならびに輸血液は医療教会の教義に則った「拝領」の系譜にある。一方で娼婦アリアンナの血はその医療教会が禁忌とした血に近しいものである

両者の差異は、スタミナの回復速度を高める効果があるか否か、という点に単純化できる

スタミナつまり持久力に関してはそのマークが緑色の水滴型であることから、「苗床化」による身体能力の増強、とかつて考察したことがある(「考察35 星見時計」




しかし娼婦アリアンナは苗床化しているというよりも、その対極に位置する血族である

なぜ虫を宿すアリアンナの血が「苗床化」すなわち神秘の持つスタミナへの関与効果を持つのかについては、彼女の出自に理由がある

しかしまずは「血の聖女」から順を追って説明していこう


血の聖女

端的にいえば、血の聖女の調整された血には「虫」がいない。より厳密に言えば、血の聖女の血では「虫」が孵ることができない

なぜならば、その血は聖血と近しい組成になるように調整された血であり、それはつまり「青ざめた血」に近づけた血だからである

神秘を血に混ぜることで「青ざめた血」に近づけていく。それが教会が施したという調整である

しかしながら、その人工的な「青ざめた血」は薄く、本物の「青ざめた血」にはなりえなかった。というのも教会が使った神秘とは、苗床から得られる「白い血」だったからである(これが灰血病の病原でもある)

しかし神秘の血は対立する「虫」が孵化するのを抑える効果はあった。それゆえに血を濃くすることができ、それはつまり高い獣性を秘めることが可能となったのである

獣性人を獣にすると同時に、人の肉体を頑強にし人ならざる力をもたらす

カレル文字「獣の抱擁」によれば、医療教会はその力に目をつけ制御する方法を探っていた

「獣の抱擁」
獣の病を制御する、そのために繰り返された実験の末
優しげな「抱擁」は見出された

試み自体は失敗し、今や「抱擁」は厳重な禁字の1つであるが
その知見は確かに、医療教会の礎になっている

「苗床」によって得られた「白い血」と、「獣の抱擁」によって得られた知見により、高い獣性を秘めながらも獣化を抑制することのできる血をもつ者たちが生まれたのである

それが血の聖女たちである

ゆえにその血は「獣性」に由来するHP回復(それはつまり生命力増強効果をもち、しかし急激な獣化は起こらない(虫の抑制)、という性質を持つのである

※狩人が血に酔う、というのは血に含まれる獣性に酔うことである


娼婦アリアンナの血

一方で娼婦アリアンナの血は「穢れ」ている。それはつまり虫によって穢れているのである。しかし女王ヤーナムがそうであったように、トゥメル人は虫の本来の宿主である。それゆえにトゥメルの血をひくカインハースト民も虫に対するある種の親和性があったのである(共生できる)

要するにカインハーストの血族天然の血の聖女なのである

人工天然血の聖女の差は効果にはっきりとあらわれ、それがスタミナの回復速度を高める、というものであることは上述した

人工の血の聖女は「白い血」と「赤い血」により調整されている
一方で天然の血の聖女は生まれながらに「青い血」と「赤い血」の混合血液を持っている

つまり「青ざめた血」である

しかしカインハーストの青ざめた血代を経ることで限りなく薄まっている。しかし薄まっているからといって、その血に効力がないわけではない

それがつまり「獣性(赤い血)」による生命力増強と、「神秘(青い血)」によるスタミナの回復速度上昇である

スタミナのマークが緑色の水滴型をしているのは先に述べた。これは苗床に流れる葉緑素の色であり、肉体が苗床化することで耐久性が増強することから、持久力が増強するのである

一見、緑色の水滴青い血とはなんの関係もなさそうに見える。だが、緑色の血を緑色たらしめるものは、結局のところ神秘である

神秘による変異はすなわち「左回りの変態」であり、スタミナを高める効果がある

「左回りの変態」
左回りのそれは、スタミナを高める効果がある

反対に「右回りの変態」HPを高める効果がある、つまり獣性による変異である

「右回りの変態」
右回りのそれは、HPを高める効果がある

まとめると、血の聖女の血がHP回復の持続効果を持つのは、白い血により獣性を押さえ込むことで高い獣性を秘めることができているからである

逆にアリアンナの血HP回復スタミナの回復速度上昇効果を持つのは、彼女の体に薄められた「青ざめた血」が流れており、その獣性によりHPが、神秘によりスタミナの回復速度が上昇するからである


白い血

ヤーナム人の血には「神秘」が含まれていなかった。それゆえに「神秘」を取り込もうと人工的な神秘「白い血」を聖女に接種させることで、その血を「青ざめた血」に近づけさせようとしたのである

しかし苗床の副産物に過ぎない白い血は、わずかながら神秘を含むほか、「虫」を抑制する効果しかなかったのである

そのうえ灰血病という獣の病の「引き金」にすらなったのである。なぜならば枷(かせ)が強ければ強いほど、それが外れたときに恐ろしい獣になるからである

変身したいという衝動を固定している束縛が強ければ強いほど、その束縛が最終的に壊れたときの反動は大きくなります。(インタビューより)

ヤーナムの風土病「獣の病」を根絶しようと、白い血は医療教会によって旧市街に流されたのである(詳細は海外のブラッドボーンコミック参照のこと)

それは一定の効果はあった。だが、そのわずかな抑制効果を持っていた白い血の反動で人々は変異しやすくなり、ついには獣化していったのである

だからこそ直接的な原因ではなく「引き金」と呼ばれるのである

白い丸薬
かつて旧市街を蝕んだ奇怪な病、灰血病の治療薬

もっとも、その効果はごく一時的なものにすぎず
灰血病は、後の悲劇、獣の病蔓延の引き金になってしまった

※白い血から精製される白い丸薬が解毒効果を持つのは、毒を発揮する虫、つまり獣性を神秘が抑え込むからである(神秘と獣性は対立的)



獣血

一方で、カインハースト民には先祖から受け継いだ薄まった「青ざめた血」が流れている。そこへ女王ヤーナムから「穢れ」がもたらされたのである

穢れとはヤーナムの血に含まれていたであり、代を経ることで弱まっていたとは違う、太古の強力な獣性を秘める獣血の主であった

本来は神秘と獣性の双方を統合しなければ完全な「青ざめた血」にならず、つまり特別な赤子を抱くことはできない。だが、血族の長アンナリーゼが求めたのは獣血を濃縮することであった

彼女が結局のところ血の赤子を抱けなかったのは、彼女の方法に問題があったからである。もしくは彼女は特別な赤子など欲しくなく、獣血を濃縮した果てに得られる「血の結晶」すなわち血の赤子のみを求めたのであろう(それが虫の遺志ならば)


聖血

以上が聖血にまつわる大まかな考察である

簡潔にまとめるのならば、聖血には神秘と獣性という2つの属性が含まれている医療教会はその2つを制御しようとして失敗。しかし副産物として苗床技術と血の聖女が誕生したのである

聖血神秘を含む血液であるがゆえに、風土病である獣の病を抑制する効果が確かにあった。しかし抑制はそれが外れたときに大きな力となって跳ね返ってくる。つまり白い血による治療がかえって獣の病を蔓延させてしまったのである

一方カインハーストにもたらされた「穢れ」虫と共に生きる一族を誕生(復興?)させた。彼らはトゥメルの血を引く者たちであったがゆえに「虫」を受け入れる体質を持っていたのである

その一族(血族)の長は「穢れ」を濃縮させることで「血の赤子」、すなわち「虫の赤子」を産もうとしている。だが、それは作中では達成されない

なぜならば特別な赤子を産めるのは、かつての女王ヤーナムがそうであったように、神秘と獣性を統合した血をもつ者のみだからである

だが、ヤーナムが産むはずであったメルゴーは器には宿らず、形なきまま奪われた。そして彼女は女王殺しに殺されるまでその赤子を宿し続け、殺されてからその意識はその器、ヤーナムの石に宿ったのである

奪われた赤子のプロットはヤーナム→ゴースと繰り返されている

ビルゲンワースに持ち帰られた聖体「ヤーナムの石」から「古い血」が採取され、それは「血の発見」となり進化の夢をもたらした

聖血に含まれれる神秘は「左回りの変態」として、また獣性は「右回りの変態」として人を変異させ、その進化の果てに「苗床」と「獣」が生まれたのである

神秘には獣性を抑える効果があり、また獣性にも神秘を抑える効果があった(啓蒙と獣性の関係)

その性質を見込んだローレンス血の医療によりヤーナムの風土病である獣の病を根絶しようとしたのである。神秘による獣性の抑制、また獣性を制御することを目指した実験は失敗に終わり、しかし苗床血の聖女という副産物をもたらしたのである

苗床から得られた低濃度の神秘「白い血」は医療教会によって旧市街の下水に流されたが(このあたり海外のブラッドボーンコミックを参照)、それは当初は純粋に獣の病を根絶するための医療行為だった(神秘により獣性を抑制しようとした)

だが、抑制(束縛)は解かれたときに強い反動となって人を襲う

低濃度の神秘「白い血」により血の白色化左回りの変態という人の変異が引き起こされ、その束縛が外れるやいなや、今度は右回りの変態、つまり獣化が引き起こされたのである

医療教会は強まった獣性をさらに強い薬、白い丸薬により抑えようとしたが、結局それは更なる獣性の暴走を招いたのであった

白い丸薬獣の病蔓延の引き金となり、人々は獣化し、旧市街は燃やされたのである

さて、ビルゲンワースにもたらされたヤーナムの石には上位者の赤子が持つとされる3本目のへその緒があった。それを手に入れたのがミコラーシュである。彼と彼のメンシス学派は3本目のへその緒によりメルゴーと邂逅、夢を現実にするために儀式を開き、赤い月を呼び寄せたのである


風土病「獣の病」について
聖血によってはじめて「獣の病」がもたらされたのではなく、ヤーナムには風土病としてもともと「獣の病」が存在していた。それはカインハーストの谷間に寄生虫が棲んでいることからも分かる

しかし聖血によってもたらされた「」は、いわゆる「獣血の主」であり、古代の根源的な力を秘めた「」である


二つの聖血(追記)

上の方で聖血をエーブリエタースの血とすると矛盾が生じると述べたが、この矛盾に関して新たな考察が得られたので追記する

これまで聖血=古い血としてきた。これは間違いではない。しかし聖血には古い血以外の新しい血も存在すると考えるのならば、聖血=エーブリエタースの血としても問題はない

おそらく偽ヨセフカは聖血と表される二種類の血を分別して「古い血」と呼んだものである。つまり、聖血には古い方と新しい方の二種類の血が存在しているのである

このうち偽ヨセフカが最初に使用し、患者を星界からの使者に変異させた血は「新しい血」である

新しい血にはエーブリエタースからの拝領、つまり彼女の神秘の血が含まれており、それを精製し血の医療に用いたのは「聖歌隊」であろう

古い血初期医療教会が主に用い、それはエミーリアの説教として伝えられている

一方で、古い血に飽き足らず聖歌隊は新たな聖血を精製したのである。それが新しい聖血である

この両者は成分的にはほぼ同じである。つまるところ「青ざめた血」であるが、エーブリエタースの血の方が鮮度が高く、また最近になって精製されたために「新しい血」と言われているのである。そして、それまで使われていた女王ヤーナム由来の聖血は「古い血」と呼ばれるようになったのである


蛇足

前回の青ざめた血と今回の聖血は1つの考察として挙げる予定であった。しかしあまりにも長すぎるのと、長すぎると修正するのが面倒くさくなるので分けて提示することにした

内容的には聖血→青ざめた血のほうが良かったかもしれない

聖歌隊とエーブリエタースや、ミコラーシュとメンシス学派など省略した部分も多い

また血の医療に使われる血と聖血との違いについて考察不足の印象がある
恐らく古い血(聖血)は、ウィレームやローレンス、また医療教会上層部にわずかに残っているのみであろう(ヨセフカも所持していた)

血の医療に使われる血は、本考察でも述べたように「青ざめた血」を目的として精製された模造品である。それは白い血と赤い血の混合物から精製されたものであり、量産品である

輸血液は濃い血液の赤というよりも、やや透明度が高い赤い液体である
これをさらに精製したのが「ヨセフカの輸血液」であり、その色は透明である

赤が象徴する獣性を抑制する力が強いほど、その液体には強い獣性が宿るのかもしれない

前回の「青ざめた血」と今回の「聖血」については動画にまとめる予定である

2020年8月18日火曜日

Bloodborne 考察まとめ1 青ざめた血

 まとめという性質上、細部の考察については概略に留めるか過去の考察へのリンクを張る。過去の考察についてはあくまでも参考程度であり、考察や結論が変更されている場合もある

※なお「まとめ」に関しては随時修正・加筆する予定である


精霊

精霊とは上位者の先触れとして知られる軟体生物の総称である

精霊の抜け殻

上位者の先触れとして知られる軟体生物の抜け殻

軟体生物は多種存在し、医療教会は総じてこれを精霊と呼ぶ


特にまだ滑りを残した抜け殻は、また神秘の力も残しており

これを擦ることで、武器に神秘の力を纏わせる


精霊が神秘の力と繋がりがあることは「精霊の抜け殻」のテキストからも読み取れるが、精霊には人にもたらすモノがもう一つある


神秘の智慧である


神秘の智慧は啓蒙と呼ばれ、それは神に近い上位者の失われた叡智の断片とも言われる


上位者の叡智

上位者と呼ばれる諸々の存在

神に近い彼らの、失われた叡智の断片

使用により多く啓蒙を得る


かつてビルゲンワースのウィレームは喝破した

「我々は、思考の次元が低すぎる。もっと瞳が必要なのだ」


上位者の叡智のグラフィックには頭蓋骨から飛び出してくる「ナメクジ」のようなものが描かれている



ナメクジは周知の通り「見捨てられた上位者、エーブリエタース」の痕跡である


真珠ナメクジ

地下遺跡の各所に巣食う、奇妙な小生物たち

特にナメクジは、見捨てられた上位者の痕跡である


エーブリエタースの先触れ

上位者の先触れとして知られる軟体生物、精霊を媒介に

見捨てられた上位者、エーブリエタースの一部を召喚するもの


すなわち精霊は「神秘の力」をもたらすと同時に、「神秘の智慧」をもたらすのである。そしてここに言われる「神秘」とは、どちらも上位者に由来するものである


上位者の力(神秘の力)軟体生物として顕現し、上位者の叡智は霊的な精霊(啓蒙)として人に宿るのである


このことは、アデラインイベントを通して描かれている

そこで脳液は頭の中でになろうとする最初の蠢きであるとされ、アデラインは最後には苗床となるが、苗床はその身に精霊を住まわせる者のことである


脳液

そして脳液とは、頭の中で瞳になろうとする

その最初の蠢きであるという


「苗床」

この契約にある者は、空仰ぐ星輪の幹となり

「苗床」として内に精霊を住まわせる

精霊は導き、更なる発見をもたらすだろう


また別の脳液には啓蒙の本質が示唆されている


脳液

内なるものを自覚せず、失ってそれに気付く

滑稽だが、それは啓蒙の本質である

自らの血を舐め、その甘さに驚くように


頭の中の瞳を失ってそれに気付くことが啓蒙の本質である。その延長線上にあるのは精霊である


頭の中に精霊の卵が宿り、それが孵化することで啓蒙、つまり精霊という神秘の智慧を得られる、といった考察を過去にした(考察31「啓蒙」


つまるところ精霊とは「神秘」現世に出現した際の形態なのである

そして神秘とは上位者のほぼ同義語であるがゆえに、精霊は上位者の先触れと呼ばれるのである


精霊に寄生されることを「夜空の瞳」は祝福された、と表現している


夜空の瞳

精霊に祝福された軟らかな瞳

かつてビルゲンワースが見えた神秘の名残だが

終に何物も映すことはなかった


ビルゲンワースの見えた、ということは実験棟以前に精霊が宿った瞳である。それはつまり頭の中を水で満たす以外の方法でもたらされた精霊なのである


また精霊に祝福された、とあるが精霊の意志により祝福されたわけではない。精霊は上位者の先触れであり、その名の通り上位の者の付属物である


要するに精霊に祝福された、とはその本体である上位者に祝福されたことを意味するのである


まとめると上位者の祝福により世界や人にもたらされる神秘が「精霊」なのである



連盟員によれば、虫とは「人の淀みの根源」であるという


連盟の狩人が、狩りの成就に見出す百足の類い


連盟以外、誰の目にも見えぬそれは

汚物の内に隠れ蠢く、人の淀みの根源であるという


汚物と記されているがグラフィック的には赤い血から這い出てきてるように見える


この虫の正体やヤーナムに何を引き起こすかについては過去に考察している(「考察28 マダラスの双子とヴァルトール」)


端的に述べれば、この虫が人を獣化させる「獣血の主」である

が人の獣性を増大させ、獣化させる。そしてその虫は「血」に宿っているのである


また、この虫は上位者の呪いによってもたらされるものであり、トゥメルの女王ヤーナムの血に宿っていたものであり、それは現在は血族の血に宿っているものである


※女王ヤーナムや女王アンナリーゼはこの虫の本来の宿主であり、獣化することはない。またその毒性は本人の意志によって発現する


また、寄生虫や菌類は宿主が決まっているが、寄生虫等が本来の宿主以外の生物に入った場合、もともと宿主に大きな害を与えない寄生者であっても、宿主の免疫系などとの相互作用がうまくいかないため、宿主が重篤な病気を起こしたり死亡させたりする場合もある。 (Wikipedia)


※戦闘モードのヤーナムの血には劇毒が含まれるが、女王アンナリーゼの血には劇毒は含まれない。その血が毒性を発揮するためには、おそらく千景のような触媒が必要である(ヤーナムは手に持っているナイフ


まとめると、虫は上位者の呪いによって世界にもたらされるモノである



精霊と虫

つまるところ精霊と虫とは双方とも上位者によって世界にもたらされたモノである

精霊は祝福として、そして虫(獣性)は呪いとしてヤーナムに送られてきたのである

獣は呪い、呪いは軛(流浪の狩人、ヤマムラ)

すなわち精霊と虫とは対の関係にあり、この対立関係ゲームシステムにも反映されている


そのあたりをまとめたのが以下の図である



神秘の知恵を持つとされる古代トゥメル人。その女王ヤーナムの体内を流れる血には「虫(獣性)」寄生している


中央トゥメルの聖杯

なおトゥメルとは、地下遺跡を築いた古い種族の名であり

神秘の知恵を持った人ならぬ人々であったと言われている


つまり女王ヤーナムは神秘と獣性を統合した存在なのである


そしてヤーナムの女王含む特別な赤子を抱く者たちとは、神秘と獣性の両方を宿した者でなくてはならなかった。というのもそれによって誕生する上位者とは、純粋な神秘そのものが血によって受肉した存在だからである


我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う(学長ウィレーム)


学長ウィレームのこの言葉は上位者にも当てはまるのである。なぜなら血はすべてを溶かし(神秘すらも)、すべてそこから生まれる(上位者でさえも)からである


儀式の血

血はすべてを溶かしすべてそこから生まれる


上位者の赤子とは、本来的には現世に肉体をもたない上位者が、血によって受肉し、現世に降臨したものである


彼らは本来は悪夢の中にしか存在し得ない者たちすべての血の無きものたち)である。だが、血によって現し身を手に入れることにより、現実世界へと侵入することができるようになるのである


それは夢を現実にすることであり、ミコラーシュが目指したものでもある


儀式はもうすぐ終わる

夢が現実に、我らに瞳をもたらすのだ!(ミコラーシュ未使用セリフ)


神秘を本性とする上位者たちが赤子を得るためには、すべてそこから生まれる血、すなわち「器」が必要なのであり、それは単なるではなく女王ヤーナムのように、神秘と獣性(血)を兼ね備えた種族でなくてはならない


国としてのトゥメル滅んだと同時に、上位者の赤子を産むための巫女(女王ヤーナム)もまた失われたのであろう


すべての上位者が赤子を失ったのは、赤子を産む者がいなくなったからである


しかし長い時を経て女王ヤーナムはある意味で復活した。ヤーナムの血に含まれる穢れ、すなわち「虫」を身に宿すことのできる古代トゥメル人。その末裔であるカインハースト、そしてその長アンナリーゼとして(同一人物というわけではない)


※血の穢れの正体については「考察25 獣血」


ビルゲンワースから盗み出された「禁断の血(穢れ)」はトゥメル人の末裔たるカインハーストの者たちに寄生し、その女王を不死の女王にしたのである

カインハーストの貴族は本来の宿主であるトゥメル人と血が近しいために、急激な獣化は抑えられていたが、しかしそれは完全ではなく血の嗜みは人を獣にすることもあった。最も血の濃い、それはつまり最もトゥメル人の血を強く受け継いだ王族の長、つまり女王アンナリーゼの血に至って初めて不死になれたのである


しかしその復活は不完全なものである。女王アンナリーゼが宿したのは「血(獣性)」の側面のみであり、いまだ神秘と統合していないからである

アンナリーゼが目指したのは神秘を排した「獣(血)と獣(血)の結婚」により生まれる血の赤子である。このことはアンナリーゼの背後にあるステンドグラスに描かれている

獣(血)と獣(血)の結婚

それゆえにアンナリーゼは「血の滲み(オドン・神秘)」ではなく、「血の穢れ(獣血・虫)」を啜り、血を濃くしようとしていったのである


輸血液が狩人の生命力となるように、血には人の生命力を増大させる効果がある。これは娼婦アリアンナもそうであるし、尼僧アデーラや血の聖女アデライン調整された血液もそうである


アデーラやアデラインの調整された血液、とは「獣血」を抑制させつつ、その力(生命力増強)のみを強化させた血液のことである。この延長線上に不死がある(不死とは尽きざる生命力)


医療教会が獣の病を制御しようとしていたことは「獣の抱擁」に記されている。調整された血液とは、その実験により得られた知見から考え出されたものの1つである


「獣の抱擁」

獣の病を制御する、そのために繰り返された実験の末

優しげな「抱擁」は見出された


試みは失敗し、今や「抱擁」は厳重な禁字の1つであるが

その知見は確かに、医療教会の礎になっている



しかし赤い月が近づくとき、人の境は曖昧になる


赤い月が近付くとき、人の境は曖昧となり

偉大なる上位者が現われる。そして我ら赤子を抱かん(ビルゲンワースのメモ)


赤い月の接近は現実世界に神秘が侵入することを意味している。そしてそれは人の血液であっても例外ではない


血の滲みオドンの本質である、とされるようにオドンは血と混じる性質がある


そしそれは穢れた血でも例外ではない


穢れた血に、つまり純粋な獣性を秘めた血にオドンという神秘が交わることで、それは神秘と獣性の入り交じった血となる


それはつまり女王ヤーナムの血の再現である


それゆえに、アリアンナやヨセフカ(偽)は上位者の赤子を生めたのである


3本目のへその緒(アリアンナの赤子)

すべての上位者は赤子を失い、そして求めている

姿なき上位者オドンもまた、その例外ではなく

穢れた血が、神秘的な交わりをもたらしたのだろう


アリアンナの血

古い医療教会の人間であれば、あるいは気づくだろうか

それは、かつて教会の禁忌とされた血に近しいものだ


穢れた血を持つアリアンナはともかく、ヨセフカ(偽)上位者の赤子を妊娠できたのは彼女が血族であるか、もしくは「古い血」を自ら使用したからであろう


ヨセフカが血族である根拠は過去にいくつか考察を述べている。感覚麻痺の霧をくれることや、その外見、また実際に上位者の赤子を妊娠することなど


感覚麻痺の霧

カインハーストの血の狩人たちが用いたといわれ

その製法も、かの城の貴い一族にのみ伝わっている


ヨセフカ(偽)が血族でなかったとしても、彼女は古い血を、それはつまり女王ヤーナムの血を所有していた


今度は、古い血を試すつもり(偽ヨセフカ)


※このセリフは自分で使うことを意味したものではないが、「古い血」を持っていたという証拠にはなる


その血には穢れ(虫)が含まれており、使用すると虫に寄生されるのである


当然、トゥメルの血を引く者でない限り虫と共生することはできない(ヨセフカが血族ではなかった場合)


その虫は偽ヨセフカの血に寄生し彼女は獣化しつつあった。四つん這いになったヨセフカの姿勢は赤子を産む姿勢ではなく、「獣の姿勢」である


獣化しつつある一方でヨセフカの頭の中では精霊が孵化しつつあった


だから…ああ、気持ち悪いの…選ばれてるの…

分かる?頭の中で蠢いているの…

幸せなのよ…


というのも、女王ヤーナムの血には穢れ(虫の卵)とともに神秘をもたらす精霊の卵も含まれているからである


その古い血は医療教会においては「聖血」と呼ばれている


頭の中に精霊が蠢き、そして血には穢れが蠢き、ここに神秘と獣性の統合が成されたのである。それはつまり上位者の赤子の器が完成したことを意味する


そのタイミングをオドンが見逃さないはずはない


その結果、ヨセフカ(偽)上位者の赤子を孕むと同時に苗床にもなりかける、という本作における二大悲惨な末路」を一身に味わうことになったのである


※宮崎英高氏がインタビューでヨセフカを好きだと言っているのは、彼女が最も惨たらしい最期を迎えるからなのかもしれない



宮崎:ああ、うれしいです。あなたはおそらく偽物でない人について言及していると思いますが、診療所の医者は私が本当に好きなキャラクターです。本物と偽物の両方です。(インタビューより)



青と赤

神秘青い光を放つのは精霊の抜け殻を使用した際のエフェクトによって明示されている



この青色古い上位者の死血に映る青い光や「灯り」、「蝋燭」、「彼方への呼びかけ」、雷光ヤスリトニトルスの青い光などにも見られる(詳細は「考察30 悪夢と神秘」)


またこの他に青白い光もある


ゲールマンが月から青白い光を受けて纏う青いオーラや、月の魔物が召喚する青白い光を放つモヤヤーナムの拘束攻撃(メルゴーの力と思われる)などである


また実験棟の患者は「ここはずっと、青白いんだよ…」と語っている


白や銀も神秘の色である

人形の血や特定の種類の敵の血の色、上位者の叡智に見られる白いナメクジ、水銀弾に見られる白銀などがそうである。特に水銀はオドンと関連が深く、神秘の青にオドン(滲ませる性質)が干渉すると青白くなるとも考えられる


また白い血は神秘が苗床を介することで産出される医療教会の成果である(詳細は「考察29 人形と月の魔物」)(要するに白い血苗床になった人間の血である)


一方で獣性や血は「赤」で表現される


輸血液や各種死血、血晶石、血の穢れ、儀式の血が這い出てくる赤い液体(血)など、血液なので当然と言えば当然だが「赤」で表現されている


変わったところでは生きているヒモもその体は赤く、また赤い液体に浸っている。過去に考察したが、生きているヒモは精霊ではなく「虫」である。というのもその体は硬く折れ曲がり、赤い液体から伸び上がる様は「虫」と共通点が多いからである


以上のことから神秘は青、白、銀で表現され、獣性は赤で表現されることがわかる


神秘の色の中でもより根源的な色は青であろう。白や銀は間に上位者や苗床が介在するため純粋な神秘とは言い切れないからである


さて神秘の青と獣性の赤、この二色が混じると出来るのが「青ざめた血の色」である




言うまでもなく「青ざめた血の空」の色であり、月の魔物「青ざめた血」の色であり、また「青ざめた血を求めよ」の色である


上述したように「神秘と獣性を統合した者」だけが上位者の母になることができる。すなわち「青ざめた血を持つ者」のことである


またその母から生まれた上位者の赤子も「青ざめた血」を持つ者である(現実世界に受肉した者)


ヨセフカ診療所のメモにあった「青ざめた血を求めよ」とは、儀式を暴いた際に現われる青ざめた血の空月から現われるモンスターの名であると同時に、自らが「青ざめた血」の流れる上位者になることをも意味しているのである


そしてそれは「幼年期のはじまりEND」において達成される


蛇足

まとめと一概に言っても、何をまとめるか、どうまとめるか、そもそもまとめる意味はあるのか、まとめることで自由な解釈を阻害することになるのではないか、と悩んだのだがとりあえず最初のメモ「青ざめた血」についてまとめたものである

大きくて抽象的な物語はわかりやすく、またある意味で魅力的でもあるが、どうしても細部を捨象せねばならず、次第に細部がおろそかになりやがて自分のつくった物語に囚われてしまう危険がある

そのため私は考察ごとに常に過去の考察をある程度はリセットしつつ考察してきたのだが、それらをまとめるとなるとどうにも居心地が悪く苦手である

というわけでまとめであるが、まとめと言っても私のまとめは常に「まとめ途上」である

またグーグルブログの仕様が変わって行間が広くなってしまっている。後で再読して読みにくかったら修正するかもしれない

2020年8月14日金曜日

Ghost of Tsushima レビュー

東洋の女形は女性をコピーしない。女性を表徴する。女形はそのモデルへと凝り固まらない。モデルから身をひきはなして表徴する。女形は読みとられるものとして、女性を現前させるのであって、見られるものとして現前させるのではない。つまり翻訳なのであって、変容なのではない。(『表徴の帝国』ロラン・バルト)

ゴースト・オブ・ツシマ(以下GoT)をプレイしていて思い浮かんだのはロラン・バルトの上記の文章である

いわばGoTで描かれている対馬は「表徴の対馬」であり、その主人公が体現しているのは「表徴の侍」である

しかしながら表徴だからといっていい加減な表現をすると日本のユーザーには違和感しか残らない(例えばフジヤマゲイシャのような)

史料を重視し、しかしそれにとらわれることなく表徴にまで昇華させることにより、はじめて日本人からも違和感のない「表徴の対馬」が出来あがったのである

各インタビューからもわかるように製作者は史実を忠実に再現しようとはしていない。ここが一般的な西洋の制作会社との相違であろう

西洋の女形は一人の女性になろうとする。東洋の俳優は、女性の表徴を組みあわせること以外のなにものをも求めない。(『表徴の帝国』ロラン・バルト)

まず時代劇侍映画といった理想(イデア)があり、理想を具象化するために、彼らは侍の表象を丹念に構築することで、表徴の対馬を作り上げたのである

私見だが、学術的な評価はともかく、ただ単に史料を忠実に再現しました、という作品よりも、GoTの方が創作物としては一段も二段も上である

なぜならば、表徴化された物語は普遍性を帯びるからである

例えばトロイア遺跡は地球上の一地域に関連付けられた遺跡でしかないが、その物語『イーリアス』は全人類の財産ともいえるものだからである

トロイア遺跡が早々に忘れ去られたにもかかわらず、『イーリアス』が連綿と語り継がれてきたのは、その物語に人類共通の普遍性が宿っているからである

※考古学や歴史学よりも文学が上と言っているわけではない

同じように「元寇」の惨劇は、GoTによって史実を越えて、普遍的な物語に到達したのである(全世界のユーザーが遊んでいるというのがその証である)

また題材が「故郷を奪われた者の復讐譚」であるところも、さまざまな国、地域に住む人々への訴求力に寄与している

おおよそ歴史上、侵略を受けなかった国は皆無に等しいからである(何ごとにも例外はある)。どこの国の歴史を見ても、それは侵略と虐殺と、あるいは復讐の物語である

要するに、題材がすでに普遍的なのである

よって、極東のあまり知らない国の歴史を題材にしたものであっても、プレイヤーはすぐに感情移入することができるのである

そしてそこで描かれているのは表徴化された悲劇である。人の業と業が絡み合い、骨肉の争いを繰り広げ、容赦のない運命によってもてあそばれる人間たちの悲劇である

これはまさにギリシャ悲劇である。あるいはシェイクスピアの「リア王」である。そしてその翻案である黒澤明の「」である

常に色物(主に洋ゲーで)として扱われてきたという異質な存在は、GoTによって表徴化されることでようやくゲームの中に確固たる、そして正統な地位を築いたのである

ゲームにおける侍の描写は、GoT以前と以後で変わるかもしれないし変わらないかもしれない。しかしユーザーの目は確実に変化したはずである

もはや色物としての侍偽物臭が漂い、しかし史実に忠実なだけの侍には特殊性を感じてしまう。以後の侍に要求されるのは、普遍的価値を帯びた表徴としての侍であろう

※GoTのフォーマット(「故郷を奪われた者の復讐譚」)は日本に限らず様々な時代・国に適用できる。例えば「英仏100年戦争」「イングランドによるスコットランド侵攻」「ノルマンコンクェスト(征服されてしまったが)」「十字軍(聖地エルサレムを廻る戦い)」「アーサー王伝説(史実を元にした)」「ピサロによるインカ帝国征服」「レコンキスタ」等々枚挙にいとまがない


ゲームとして

さてここからはゲームとしてのレビューである

ストーリーを重視したオープンワールドゲームは、ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下BotW)やRDR2ウィッチャー3などなどもはやオープンワールドゲームの主流の観すらある

GoTはそうした流れを汲んだオープンワールドゲームと言えるであろう。しかもこれまで以上にストーリー性が強い(高いではなく強弱)

ストーリー性を重視した作りは一方で自由度の減少も意味する

例えばスカイリムは一応のストーリーはあるけれども、自由な探索の方に重点が置かれている。また、アサシンクリードも大きなストーリーはあれどそれは幕間劇として扱われ、メインはその時代の世界に浸ることである

これはどちらが良いというのではなく、各ゲームのスタイルの違いである。ゆえに同じオープンワールドだからといって、それらの優劣を決めようというのはあまり賢明とは思えない

ストーリー性を重視すれば自由度は減るし、自由度を重視すればその分だけストーリー性は薄くなる。これはオープンワールドの構造上の宿命であろう

※ブラッドボーンに例えるのならば、啓蒙が上がれば獣性が下がり、啓蒙が下がることが獣性を上げる

GoTはそういう意味では極めてストーリー性の強いオープンワールドゲームである。世界の自由な探索はイベントとイベントのあいだに息抜きに過ぎず、その多くは基本的にプレイ感が似ている(敵の拠点を滅ぼすか、あまり印象の残らないサブクエストを繰り返す)

また、ボス戦に関しても最初から最後まで基本的に同じである。通常戦闘に関しても一騎打ちという特殊なものも含めて、途中からは同じ敵と同じように戦い続けることになる(つまり単調)

しかしオープンワールドであまり凝った戦闘を強制されても疲れるだけであるし、ある程度サクタクと倒していける方がストレスは少ないのも確かである

また時代劇の主人公であれば、あまり負け続けるのもロールプレイとして如何なものかと思われる(座頭市のように強くありたいものである)

GoTの戦闘はそのあたりのバランスを熟慮した末のものであろう。つまるところGoTは強敵と戦い苦難の末に倒す、というふうには設計されておらず、あくまでも主人公は侍として侍らしくまた冥人らしく戦えるように考慮されているのである

これもまたどちらが優れているというのではなく、スタイルの違いに帰結する

ストーリー性を重視した結果として、オープンワールドにありがちな「どこへ行ったらいいか、何をやったらいいかわからない」というプレイヤーは存在せず、誰もが仁の物語を追えるようになっているのである(親切設計はGoTのすべてに貫かれている)

とはいえ世界を探索するというオープンワールドゲームの真骨頂的なものを考えるとやや物足りないようにも感じられる

しかし、代わりにといっては何だが、GoTには「フォトモード」がある。私的にはサブクエストよりもむしろこちらの方がメインである

サブクエストが単調なら風景を撮れば良いじゃない、とばかりにダイナミックに変化する天候や風景が用意され、フォトモードでは時間や気象まで変えられる親切設計である

GoTの世界で遊ぶとはそこに用意されたサブクエスト潰しに躍起になることではなく、世界そのものに浸り、世界を写すことなのである

また上述したようにこの世界は「表徴の対馬」である。ゆえに現実や史実の風景とはやや異なるが、表徴であるがゆえに全世界のプレイヤーの心に訴える普遍的魅力が宿っているのである

現実と寸分違わぬ風景は確かに驚異的なものであろう。だがそれならば現実でいいし、実際の感覚までは再現できず、ゆえに決して現実は越えられない

だがGoTの風景は、現実の模倣ではなく表徴である

つまり偽物ではなく、本物なのである



SS

というわけで撮りためたスクリーンショットから極一部を載せる

ネタバレあり


ミニチュア風



誰かに聞かせたい言葉である








巴は美人だと思います

影の薄いラスボス


堅二のこの姿勢すき





2020年8月10日月曜日

Bloodborne 雑文 心理学と錬金術とブラッドボーン

 ※この雑文はこれまでの考察のまとめではない。たんなる雑文である

その結果「王の息子」、すなわち霊〔精神〕、ロゴス、ないしヌースは、ピュシスによって呑込まれる。換言すれば、肉体と肉体諸器官の心的代理物〔無意識諸内容〕とが、意識に対して断然優位に立つわけである。この状態は英雄神話では、鯨(ないし龍)の腹の中に呑込まれるという形で示される。腹中は大抵の場合、物凄い熱気に包まれていて、ために英雄の髪の毛は全部抜け落ちてしまう。つまり英雄は禿頭になることによって乳呑児として再生するのである(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


心の眼

宮崎英高氏はインタビューにおいて「心の眼」という語を口にしている

この「心の眼」という語は錬金術に頻出する用語である

錬金術文献の著者たちは心の眼で視るということも言ってくるが、これが本来の意味における幻視のことを指しているのか、それとも比喩的表現としてこういうことを言っているのか、必ずしもはっきりしていない(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


「かくして彼はその心の眼(oculi mentales)でもって、数知れぬ火花が日に日に明るさを増して輝きわたり、ついに一つの巨大な光に変ずるのを視るであろう」(ドルネウス)(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


「願わくは汝、小麦の若樹をそのあらゆる状態に留意しつつ心の眼で視よ。さすれば汝、哲学の樹を培うことを得ん」(著者名無し)

これは錬金術課程を本当の意味で推進する能動的想像力のことを暗示しているものと思われる(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


またある文献では「黄金のごとくに輝ける洞察 aurea apprehensio」を習得するためには、精神と心の眼をいっぱに見開き、太初の神が自然と人間の心とに点し給うた内なる光によって観察し、認識しなければならないとも言われている(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


しかしユングの言うように「心の眼」という語が比喩的表現(例えば卵)なのか、それとも「心の眼」で幻視(もしくは夢)を見るのか、ということは曖昧にされている

実のところこの用法はブラッドボーンにおける「瞳」とほぼ同じである。「瞳」もまた精霊の卵の比喩的表現なのか、それとも夢を見るための「瞳」なのか判然としないところがあるからである

この小論ではユングにおける「心の眼」が何を意味し、そしてそれがブラッドボーンにおいて何を意味するのかを考えてみたい



心理学と錬金術

心理学と錬金術』と題されているように、ユングによるこの書は錬金術の作業(オプス)を心理学的に解釈したものである

錬金術における賢者の石の作成ならびにその諸作業は、人の心理における意識と無意識の綜合統一(ジンテーゼ)を表現したものである、というのが大雑把な説明である

錬金術の作業の本質は、第一質料(いわゆる混沌・訳注15)を、能動的原理=魂と受動的原理=身体とに分かち、しかるのちに両者が「化学の結婚」=合一(コンユンクティオ)によって人格化され、再統一されるところにある(『錬金術と無意識の心理学』C・G・ユング)

ここで魂とは無意識のことであり、身体とは意識のことである

無意識と意識の結合によって人格は再び統合され、再生されるのである。対立し合う無意識と意識の統合作業が不調に終わると、自己は分裂し様々な精神的疾患が出現する、というのがユングの主張である(あるいは元の渾沌に戻る)

錬金術作業により再統一された物質こそ、卑金属を金に変えるとされる「賢者の石」であるという。

つまりユングは錬金術における「賢者の石」と統合された人格を同一視しているのである

それは錬金術師たちの理解でもあった

「汝らみずからを生ける賢者の石に変えよ Transmutemini in vivos lapides philosohicos」(『心理学と錬金術 1』C・G・ユング)

対立し合う二者が合一して得られた賢者の石を、錬金術師は生ける銀メルクリウスとも、ウロボロスとも、万能薬とも救済者とも呼んでいる

ここに見られる対立のアナロジーはメルクリウスの二重の性質であって、これは錬金術過程では殆どの場合ウロボロスの、すなわちわれとわが尾を啖い、交合し、孕ませ、殺し、再生させるところのあの龍の姿をとって顕現する。ウロボロスはヘルマプロディトスとして、対立する二つのものから成っているが、同時にまたこの対立物の合一の象徴でもある。それは一方では死をもたらす毒、バシリスクにして蠍(さそり)であり、他方では万能薬であり救済者(salvator)である。(『心理学と錬金術 2』203ページ)

万能薬としての賢者の石は「聖体拝領」において用いられる

聖アンブロシウスは変容したパンを「メディキナ〔医薬ないし救い〕」と呼んだ。メディキナは「不老長寿薬」すなわち不死の霊薬(エリクシル)であって、「聖体拝領 communio」において信仰者の内にメディキナの本性に応じた作用、つまり肉体と魂との合一作用を惹き起こす。これはしかし魂の浄化(「かくてわが魂の浄められたり et sanabitur anima mae」)と肉体の「改新 reformatio」(「かくて汝、改新によりて大いなる奇蹟〔の肉体〕を得たり et mirabilius reformasti」)という形態をとって生ずる。(『心理学と錬金術 2』118ページ)

ブラッドボーンにおける「拝領」とは、生ける賢者の石からの流出液を拝領することを意味し、それは肉体と魂との合一作用を惹き起すものである。それゆえに、聖血は血の渇きを癒やし、鎮める作用とともに「」の危険性が伴っているのである

密かなる聖血だけが 血の渇きだけが我らを満たし、また我らを鎮める。聖血を得よ。だが、人々は注意せよ 君たちは弱く、また幼い 冒涜の獣は蜜を囁き、深みから誘うだろう(教区長エミーリア)

さて、対立し合う二者の合一は錬金術では「太陽と月の結婚」とも表現される。それはすなわち光と闇の聖なる結合(ヒエロスガモス)である

光と闇との結合によりラピス(賢者の石)は得られ、それは二者のものから造られた、といういみで「レビス(Rebis・二つの者から合成されたもの res binaの意」とも言われる

石(ラピス)、もしくはレビス(Rebis・二つのものから合成されたもの〔res bina〕の意。それゆえ太陽と月との融合としてしばしば両性具有存在の代名詞となっている)(『心理学と錬金術 1』 271ページ)

錬金術でいう光と闇とは心理学的には意識と無意識のことである

昼と光は意識の同義語であり、夜と闇は無意識の同義語である。(『元型論』C・G・ユング)

そして意識と無意識との統合によって回復される全体性こそ、その両者を包摂する「個我(自己)」であるとユングはいう

あらゆる生の営みは結局のところ全体的なるもの、すなわち個我の実現〔現実化〕である。従ってこの実現はまた個体化(Individuation)とも呼ばれうる。なぜなら、あらゆる生の営みは個(Individuum)という担い手ないし実現者と不可分に結びついており、これなくしてはそもそも生などというものは考えられないからである(『心理学と錬金術 1』C・G・ユング)

また個我は全体の中心でもあるという

人格のこの新たな中心を、心的なもの一般の総体を表すつもりで「個我(Selbst)」と呼んでいる。個我は中心点であるというばかりでなく、意識をも無意識をも包摂する心の全領域を指す語でもある。それはいわば、自我が意識の中心であると同じように、このような心の総体の中心なのである。(『心理学と錬金術 1』C・G・ユング)

そして個我を回復するためには、意識と無意識の統合が必要であり、そのためには個体(自我)は元型に向かい合うことになるという

従って、無意識の探究によって元型が意識に近づけられると、個体(Individuum)は人間本性の底なしの対立性と向かい合うことになり、かくして光と闇、キリストと悪魔とを直に体験することが可能となる(『心理学と錬金術 1』C・G・ユング)

元型とは心にあるいくつもの特定の形式であり、それは夢として現実に侵入してくるとされる。なぜならば夢とは「無意識的な心が意図せず自然に生みだしたもの」(『元型論』C・G・ユング)だからである

こうした構造を図式化したものが以下である

ここに現実に侵入する夢というブラッドボーンおなじみの構造が登場する。そして赤い月の上昇によりヤーナムに悪夢が侵入するように、心理においては無意識の元型が夢として意識に侵入してくるのである


元型

元型とは心の中にある特定の形式であることは上述した

特定の形式は通常、特定の像(イメージ)として表現される(要約Wikpedia。ただし本雑文は基本的にWikipediaを参考にしていない)

こではそのうちの代表的な像を取り上げる


自我(エゴ)

意識の内にある自我もまた元型の一つである。意識そのものと言って良いかもしれない。だが、本来は心の極一部でしかなかった自我が肥大化し心(意識と無意識の総体)と同一化してしまったことで、現代人は様々な精神の不調を訴えるようになっている

しかし啓蒙主義の諸時代以来、そして科学的合理主義の時代において、心とはいったいどのようなものであったろうか。心は意識と同一化してしまったのである。心は自我の知っているものとなった。心はもはや、自我以外のどこにも存在しなくなった。(『心理学と錬金術 2』C・G・ユング)


アニマ

男性の無意識の内にある女性的な元型。女性の場合には男性的なアニムスとなる

アニマはラテン語で「魂(ゼーレ)」を意味する語である

錬金術の理想は意識と無意識つまり身体と魂との結合によって到達される、ということは上述している

アニマとは無意識の代表的な元型の像であり、そして意識(自我)と結合すべく運命づけられた「対概念」でもある(ただしアニマは諸元型のうちの一つに過ぎない)

それは自分で生きているもの、われわれを生かしているもの、意識の背後にある生命である。ただし意識が残らず生命に取りこまれてしまうことはありえず、むしろ逆に生命から意識が生まれるのである。(『元型論』C・G・ユング)

自我とアニマの結合は文字通り男と女の結合を意味し、その帰結として両性具有的な存在となるが、錬金術における賢者の石は「レビス(二つからなるもの)」と同一視され、また賢者の石を神格化した存在はヘルマアフロディテ(両性具有化したヘルメス神)である

レビス 「二つのものより成る」という意味の言葉で、錬金術において男性性と女性性を統一したヘルマアフロディテ、完成体としてのメリクリウス、「賢者の石」などと同一視される、両性具有の完全なるものの象徴(『元型論』C・G・ユング 訳注)

すなわち男性性と女性性の結合が賢者の石をもたらす、という観念に含まれているのは「対立物の一致」とい心理学の哲学である

ブラッドボーンでは、人形がアニマの役割を果たす

※完全な結合には至らないのは人形が「母元型」としても機能しているからであろう(未使用データには人形の子守歌がある)

またアニマは狩人が集めてきた血の遺志を力に転換する能力を持つ。人形は狩人に生命を与える役割を果たしているが、アニマとは自我に生命を与えるものでもある。※アニマ=こころ(ゼーレ)

こころ(ゼーレ)は人間の内なる生き物、自ら生きているもの、生命を生じさせるものである。(『元型論』C・G・ユング)

 彼女は信じられないようなことどもを信じているが、それによって生命が与えられるのである。(『元型論』C・G・ユング)

さらにアニマには自我を導くという役割もある

というのはこの同じアニマが『ファウスト』に示されているように光の天使として、「魂の導き手」としても現われ、最高の意味へと導くこともありうるからである。(『元型論』C・G・ユング)

しかしアニマは必ずしも「善」というわけではない

アニマは生を望むからこそ、善と悪〔の両方〕を望むのである。(『元型論』C・G・ユング)

人形は狩人に力を与える前に、狩人の血の遺志を吸い取っている

水の精(ニクセ)はわれわれがアニマと呼ぶ女性的な存在の、より本能的な前段階である。この前段階に属するものには、セイレーンたち、海の精(メルジーネ)たち、森の精たち、フルディンたち、魔王の娘たち、ラミアーたち、夢魔たちがおり、これらは若者を惑わし、その生命を吸いとってしまう。(『元型論』C・G・ユング)

つまるところアニマには生命力を吸いとり、また生命を与える機能があるが、これはブラッドボーンにおける人形の能力と同じなのである

また人形と神秘的な関わりを持つ時計塔のマリアもアニマの類いである

アニマは「上位人格」と同じように両極的であり、それゆえ肯定的かと思うと、否定的に現われたりする。すなわち老女かと思うと若い娘になったり、母かと思うと少女になったり、善い妖精かと思うと魔女になったり、聖女かと思うと娼婦になったりする。この両極性に加えて、アニマは「秘密のこと」に対する、一般的には暗黒の世界に対する「神秘的(オカルト)な」関係をもっており、そのためにしばしば宗教的な色あいもおびている。アニマは、少しでも明瞭に現われるばあいには、つねに時間との注目すべき関係をもっている。すなわちアニマは時間の外にいるため、たいてい完全に不死であるか不死に近い(『元型論』166ページ)

アニマには両極性があり、肯定的な面は人形が、否定的な面はマリアが担っている。また、マリアは「秘密」に対する執着をもち、時間を表す時計塔に住んでいる。そしてまた、不死の女王アンナリーゼの傍系でもある


無意識の表層付近に存在する自分自身の「影」である

水の鏡を覗きこむ者は、なによりもまず自分自身の姿を見る(『元型論』C・G・ユング)

無意識の内部へ降りていく者は、まず自分自身の「影」と対峙しなければならないのである。そうすることではじめて自我は無意識に入ることができるのである

もし自身の影を凝視し、影を知ることに耐えることができるならば、課題の第一歩がまず解決された(『元型論』C・G・ユング)

影元型はとして作用し、その内部には無意識を象徴する「泉」(大量の水)が存在する

自分自身との出会いはまず自分の影との出会いとして経験される。影とは細い小道、狭き門であり、深い泉の中に降りていく者はその苦しい隘路(あいろ)を避けてとおるわけにはいかない。(『元型論』C・G・ユング)

水は無意識を表すために一番よく使われるシンボルである。(『元型論』 46ページ C・G・ユング)

ブラッドボーンにおいて、「ヤーナムの影」と戦うために通ることになる狭い隘路、そしてその背後にある狭い門。また門をくぐった後にあるのはビルゲンワースの湖である

※またSEKIROにおいて、水生村の輿入れの岩戸の前で「破戒僧の」と戦うのもこれと同じ理屈である。岩戸は無意識に通じる門であり、そこを守っているのは影である。そして門の先には無意識的領域(水没した源の宮)がある


老賢者

この元型は主人公に助言や助力を与える老人として登場する。ブラッドボーンでいうのならば助言者ゲールマンそのものである

老人が現われるのは、いつでも主人公が絶望的な状況に陥っているときであり、そこから彼を救えるのは深い熟慮か、うまい思いつきだけ、つまり精神の働きか、心の中の自動的な働きだけである。しかし主人公は外的および内的理由からこうした働きを使うことができないので、その欠陥を補う形で、必要な認識が人格化された観念の形をとって、つまりまさに助言と助力を与える老人の姿をとって現われるのである。(『元型論』C・G・ユング)

老人は主人公に魔法の道具を与えるとされる

また彼はよく必要な魔法の道具を与えるが、これは予想外の思いもかけない成功をもたらす力を意味しており、この力は善と悪を統一している人格に固有のものである。(『元型論』C・G・ユング)

すなわち狩人に与えられる仕掛け武器であり、また武器を強化するための工房道具の数々である

またゲールマンがゴースの遺子であることを示唆するように、老人は錬金術師に「母の年老いた息子」と呼ばれる

老人とは、混沌とした生の中に隠されている前存在的な意味を示す、優れた師匠、教師、すなわち精神(ガイスト)元型である。彼はこころ(ゼーレ)の父であるが、しかし不思議なことにこころ(ゼーレ)は彼の処女 - 母であり、それゆえ錬金術師は彼を「母の年老いた息子」と呼んだのである。(『元型論』C・G・ユング)

すべての元型と同じく、老人にも肯定的な側面と否定的な側面がある。すなわちブラッドボーンにおいては、助言者ゲールマンとゴースの遺子である

またゲールマンの右足がないのは、彼が半分だけで生きていることを意味する

あるシベリアのおとぎ話では、老人は片足・片腕・片眼の老人として現われ、鉄の杖で死者を甦らせる。お話が進んで、老人は何度も生き返らせた者によって誤って殺されてしまい、そのためこの男の命運も尽きてしまう。このおとぎ話の題名は「片面の老人」というのであるが、これは実は彼が傷ついていてある意味では半分だけで生きていることを意味している。(『元型論』C・G・ユング)

古工房の墓に「狩人の遺骨」が供えられている。その墓は狩人の夢においては「狩人の悪夢」への入り口である。すなわち狩人の遺骨はゲールマンのものであり、その墓の内部にはゲールマンの半身たるゴースの遺子がいるのである

※ただし遺骨がマリアのもの、という説もある

また悪の老人としてはローゲリウスが対応するかもしれない

バルカンのおとぎ話に、妹をさらわれた王様の話が出てくる。王様は妹を取り返そうと旅に出るが、妹はある城に住む老人の妻として暮らしている

老人はある町全体に魔法をかけて堅く閉ざしたという逸話をもつが、これはブラッドボーンにおけるローゲリウスの所業と同じである。またその城の奥に囚われた妹はアンナリーゼであり、アニマを意味する

やがて魔法を解かれた一人の若者が妹を救い出し結婚する

要するに、このお話では老人の元型が悪人の姿で現われており、それが個性化過程の変容と反転の中に巻き込まれ、最後には暗示的であるが《聖なる結婚》にまで至っている。(『元型論』C・G・ユング)

聖なる結婚が対立物の一致を意味すること、それが賢者の石を産み出すことは上述した。その産み出された者については後述するが、ブラッドボーンではアンナリーゼに婚姻の指輪を贈り求婚することが出来る。しかしそれが果たされないのは、逆説的に言えばその結婚からは賢者の石が生まれないからである


童児

童児モチーフがフロムゲー、特にブラッドボーンとSEKIROにおいて重要な地位にいることは「上位者の赤子」ならびに「竜胤の御子」の設定からも明らかであろう

しかし作中設定同様にそれは人間の童児を象徴するものではない

すなわち、それはまったく異常な状態で受精され、生まれ、育てられる、神的な不思議な子供であって、決して人間としての子供ではない。彼の行為は、彼の本性や身体的性質に応じて、すばらしかったり、怪物的であったりする。(『元型論』C・G・ユング 注)

童児元型は「得がたい貴重品」のモチーフの特殊なケースである

童児がよく現われるのは、花びらの中とか、黄金の卵からとか、マンダラの中心としてである。夢の中では、童児はよく息子または娘として、少年、若者または乙女として、ときには暗色系の肌をした中国やインドの異国生まれとして現われたり、さらに宇宙的になって星をいただいたり星の輪に囲まれたりして、王子とか魔性をおびた魔女の子供として現われる。「得がたい貴重品」のモチーフの特殊なケースとして、童児モチーフは何にでも姿を変えうるし、ありとあらゆる形態をとる。たとえば宝石、真珠、花、容器、金の卵、四つ組、金の玉などである。童児モチーフはこれらの類似のイメージとほとんど無限に代替できるのである(『元型論』C・G・ユング)

しかしこれはあくまでも童児元型の像であって、意味内容ではない。心理学的な意味合いにおける童児とは、人類の幼年期における無意識(集合的無意識)の一側面である

しかし元型とは個々人にでなく、つねに全人類がもっているイメージなのであるから、次のように定式化するのがおそらくよりよい方法であろう。「童児モチーフは幼児期の集合的なこころの前意識的な側面を表している」と。(『元型論』C・G・ユング)

すなわち童児元型は幼年期であるがゆえに、未来の到来を可能にする「未来の可能性」である。それゆえに神話において童児は救い手となる

童児モチーフの本質的な性質の一つは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。(『元型論』C・G・ユング)

神話の救い手がそれほどしばしば童児神であることは、驚くに当たらない。それは、個々人の心の中で「童児」が未来の人格変容の準備ができていることを示すという経験と、正確に一致している(『元型論』C・G・ユング)

ブラッドボーンに登場する上位者の赤子はこうした童児元型と一致するものである。それは例えば海(無意識)からやってきたゴースが遺子を産んだことからも説明できる

「童児」は無意識の体内から、その赤子として現われる。いわば人間的自然の根底から、さらにうまく言えば生きた自然そのものから、産まれるのである。(『元型論』C・G・ユング 196ページ)

海とは無意識の象徴である。またそこからやって来たゴースも無意識の元型の1つである。その無意識から誕生したゴースは童児元型の性質を帯びている

また、狩人が上位者の赤子となる「幼年期のはじまりEND」からも見てとれる

「童児」はそれゆえ《新生児への再生》でもある。(『元型論』C・G・ユング)

そしてまた、上位者の赤子が童児元型であるがゆえに、その正体(意味)はこれによって明らかとなる

童児は個性化過程において、意識的な人格要素と無意識的なそれとの綜合(ジンテーゼ)から生まれる形姿の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である(『元型論』C・G・ユング)

つまり、上位者の赤子とは意識と無意識とを綜合した「個我」なのであり、それは錬金術的な言い方をすれば賢者の石である

すなわち赤子は心理学的な賢者の石「個我(自己)」であり、そして赤子とともに見出される3本目のへその緒は錬金術的な「賢者の石」なのである

そして3本目のへその緒が使用者に瞳を与えて上位者にするという能力は、賢者の石が卑金属を黄金にする能力を持つことに等しいのである(これについては他の説も後述する)

またそれが3本必要なのは狩人と3本のへその緒により、全体性を体現する「四者性」が生じるからである

たとえばそれは輪、円、球または全体性の他の形態である四者性によって表現される。私は意識を超越したこの全体性を「自己」と名づけた。個性化過程の目標は自己を綜合(ジンテーゼ)することである(『元型論』C・G・ユング)

また錬金術においても第四の者が全体性を体現するとされる

「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」(マリア・プロフェティサ Maria Prophetissa 古代後期の伝説的な女性錬金術師・予言者マリア)

またそれは心理学的には無意識のうちにある意識化されうる三つの機能を意味している

四つの意識機能のうち三つは分化しうる、つまり意識化されうる。しかし一つの機能は母なる大地、無意識につながれたままであり、これは下等な、または「劣等」な機能と名づけられている。(『元型論』268ページ)

そしてユングはおとぎ話を例に挙げ、このうちの劣等機能を人格化したものが「狩人」であると述べている

狩人のもっている三本足の全知の馬は狩人自身の力を表している。それは分化可能な〔三つの〕諸機能の無意識的な部分に当たる。しかし狩人は劣等機能を人格化しており、この劣等機能は主人公にも好奇心や冒険欲として認められる。(『元型論』271ページ)

狩人は主人公のライバルであるが物語が進むにつれ両者は似てくる。最終的に主人公と狩人は同一化して、ついには狩人の機能が主人公のものとなる

主人公と狩人は最後には同一化して、ついには狩人の機能が主人公のものとなるほどになる。というよりは、主人公自身がすでにはじめから狩人の中に潜んでおり、狩人を使って自分には禁じられているあらゆる非道徳的手段を尽くしてこころ(ゼーレ)を奪わせ、いわば主人公自身の意志に反してしだいに彼の手に落ちるように仕向けているのである。(『元型論』272ページ)

主人公は狩人の持つ無意識の三機能を手に入れることで全体性を回復するのである

主人公が見事に四を獲得した瞬間、すなわち心理学的に言えば劣等機能を三の体系の中に取り入れた瞬間に、結び目がほどかれる(『元型論』272ページ)

太母の狼どもの手中にある一つの失われた部分は、たしかに四分の一にすぎないけれども、三つの部分と合わさると全体性ができあがり、それによって分裂と葛藤がなくなるのである。(『元型論』268ページ)

童児未来の可能性であると同時に、その行き着く先であるところの全体性でもあるのである

すなわち全体性のシンボルは、しばしば個性化過程の最初に現われる(『元型論』C・G・ユング)

「童児」はそれゆえ《新生児への再生》でもある。つまりそれは始原存在であるばかりでなく、終末存在でもある。(『元型論』C・G・ユング)

これは心理学的には、「童児」が人間の意識以前意識以後のあり方を象徴していることを意味している。「童児」の意識以前のあり方とは生まれたばかりの幼児の無意識状態であり、意識以後のあり方とは死後の状態の《類推による》先取りである。(『元型論』C・G・ユング)

ブラッドボーンにおいては、メルゴーに代表される上位者の赤子とは個性化過程の最初に現われる「未来の可能性」である。一方で狩人が変異した上位者の赤子全体性を回復させた全一なるものなのである

さて、意識と無意識の綜合によって生まれる「個我(自己)」は、意識と無意識を包摂する全体であると同時にその中心でもある

人格のこの新たな中心を、心的なもの一般の総体を表すつもりで「個我(Selbst)」と読んでいる。個我は中心点であるというばかりでなく、意識をも無意識をも包摂する心の全領域を指す語でもある。それはいわば、自我が意識の中心であると同じように、このような心の総体の中心なのである。(『心理学と錬金術 1』C・G・ユング)

これを図にしたのが↓である


何かに似ていないだろうか?

そう、瞳である

ブラッドボーンでは、上位者の赤子上位者とトゥメル人の婚姻によってもたらされる。これは心理学的に言えば無意識と意識の結合によって個我(自己)が誕生することであり、錬金術的に言えば太陽と月の結婚により賢者の石が誕生することを意味する

意識と無意識を表した図はヤーナムに夢が侵入する構図を表すと同時に、上位者とトゥメル人の関係性をも示した図である

いわばブラッドボーンは意識と無意識の綜合課程を世界とこころという二つの階層において描いたものであると言える(そしてそれは重なっている

ここで生まれる上位者の赤子は個我であると同時に錬金術的な賢者の石を手にしている。赤子は上位者とトゥメル人との生物学的な結合の果実であり、賢者の石悪夢と現実との結合の果実である

そして人は賢者の石を3つ使うことで第四者(全体性)に至ることができるのである。

全一なるものとは狩人が変異した上位者の赤子であり、まさに人類の新しい進化である

上位者(無意識)が赤子(個我)を失ったのは、結合すべきトゥメル人(意識)がいなくなったからであろう。しかしかろうじてその穢れた血は続いており、意識と無意識とが交わる「夢」において二者の結合はなされ、上位者の赤子が誕生するのである

本来的に上位者は瞳を得て、つまり全体性を回復し個我を得た者たちである。しかし赤子を失い、とあるように彼らは何らかの原因により個我を失ってしまったのである。それゆえに彼らは赤子を求め、また赤子とともにある3本目のへその緒に引き寄せられるのである(3本目の3本が全体性を回復させるものであることは後述する)

「上位人格」は全体的人間である。(『元型論』146ページ)

彼らが「個我(自己)」を失っていることは、上位者を倒しても「瞳」を得られないことからも推察できる

上位者が赤子を失う過程は人間心理と同一である。人間は通常は意識と無意識とが統合された状態にある。しかし何らかの原因によりそのバランスが崩れると個我が分裂し、精神的失調に陥ってしまう。そしてそれは再び意識と無意識とを統合することでしか回復されない

※このとき分裂した個我の断片が、ブラッドボーンにおける「精霊」である。個我(自己)の断片であるがゆえに、その本体の一部を召喚することができる

意識と無意識との統合が失敗しつつある例は「月の魔物」である。彼女は上位者であるゆえに個我を回復した者であるが、意識と無意識の結合が最終的にうまくいかず、その肉体が損なわれ続けているのである(分裂しつつある)

個我の回復は意識と無意識との再統合によって果たされる。すなわち上位者がトゥメル人(トゥメルの血)に接近するのはトゥメル人が上位者(無意識)と対立する意識であるからである

上位者とトゥメル人との結合により赤子たる個我は再生され、上位者は再び未来への可能性を手に入れるのである


孤児

孤児もまた童児に属す元型像である。

ブラッドボーンでいうのならば、ゴースの遺子にあたる

孤児、つまり捨て子であることは童児元型の必須条件でもある

「童児」は成長して自立にまで至るものを意味している。それは根源からの分離なくしては成就しない。それゆえ捨てられることは必須の条件であって、単なる付随現象ではない。意識が対立物に囚われていると、葛藤は克服されない。だからこそ、根源からの分離の必要性を意識に教えるシンボルが必要になるのである(『元型論』C・G・ユング 192ページ)

あらゆるものから孤立し全体性を保持しているからこそ、童児元型には心的葛藤を解消する救済作用があるのである

「孤児」のシンボルが意識を魅了し、感動させることによって、救済作用が意識の中に侵入し、そして意識ではできなかった、葛藤状態からの解放を実現する。(『元型論』C・G・ユング 192ページ)

ここにゴースの遺子が救済者になれなかった根本的な理由が述べられている。つまりゴースの遺子は母なるゴースとの繋がりを断てないがために、童児として不完全な状態に置かれているのである

このように不完全な童児はやがてもう一人の捨て子たる狩人によって救済され、無意識に呑み込まれ消えてしまうのである

つまり無意識は自分が生み出したすべてのものをふたたび呑みこもうとするものである。(『元型論』C・G・ユング 193ページ)

ゴースの遺子が海へ還るのも、海がすべてを受け容れるのも、海が無意識でありすべてを呑みこもうとする性質を持っているからである

狩人はある種の救済者としてゴースの遺子と母との繋がり(葛藤)を断ち切ることで、ゴースの遺子を無意識へと返したのである

そして救済者として孤立した童児は最終的により高次の自己実現を果たす存在となる

それは原=自然そのものの最も高価にして最も希望に満ちた産物である。というのはそれは最後には、より高次の自己実現を果たすからである。(『元型論』C・G・ユング 193ページ)

また上述したように童児は「瞳」である。ゆえに蒙を啓く英雄でもある

蒙をひらく者として、すなわち意識を増大させる者として、彼は暗闇を、すなわち以前の無意識の状態を打ち負かす。(『元型論』C・G・ユング 195ページ)

そしてこれがブラッドボーンにおける啓蒙の正体である

夢の中で新たなエリアに侵入すること、新しいボスと対峙することは、狩人(自我)無意識と対峙することを意味している

狩人は意識と無意識の葛藤を解消させる救済者(自我)である。そして無意識と対峙し最終的には統合を果たすのである(狩人が敵を倒すと血の遺志が得られる)。そのようにして統合された意識と無意識とはより高い次元、つまり全体性へと近づくのである

これほど徹底して太古的なイメージがそうした高い意味をもつほどに成長したという事実は、単に元型的理念一般の生命力を示すにとどまらず、元型とは無意識的な基礎と意識との対立を結合しつつ媒介するものであるという、基本命題の正しさを示すものである(『元型論』C・G・ユング 200ページ)

この媒介作用によって意識は無意識とに接続されるが、その接続には危険がともなう

この媒介によって、個別的な現在の意識の一回性と唯一性と一面性とは繰り返し自然種族的な諸前提に接続される。(『元型論』C・G・ユング 200ページ)

しかしそれが意味を失うときがある。それは人間が新しい状態の中で自分自身の断片になってしまい、背景にあるものや本質的なものすべてを無意識の影の中に、未開や野蛮の状態の中に、置き去りにするときである。(『元型論』C・G・ユング 200ページ)

断片化した意識が無意識に呑みこまれる、つまり「発狂」である


Orphan

ゴースの遺子の英名はOrphan of Kosである

孤児すなわちOrphan(ラテン語でOrphanus)は賢者の石の呼称の一つである

ドルネウスによれば「ヘルメス・トリスメギストス」は石(ラピス)を〈孤児〉orphanusと名づけた」のであり、ペトルス・ボヌスは「この孤児なる石は固有の名前を持たない」という。八世紀ビザンチン人のヘリオドールの『ヘリオドールの歌』にも「故郷なき孤児」という呼称が見られるという。この「故郷なき孤児」は、ヘリオドールでは、変容のための作業(オプス)のはじめに殺されるのである。(『黒い錬金術』99ページ 種村季弘)

孤児が賢者の石であるとすれば、そのは「第一原質(マテリア・プリマ)」である。つまりここでは錬金術による賢者の石の精製が、母から生まれた孤児の寓話として展開されているのである

そして孤児の母は必然的に寡婦である

石が故郷なき孤児(私生児)であるとすれば、彼の母は必然的に「寡婦」(vidua)でなくてはならない。すなわち錬金術の最初の出発点である第一原質は寡婦なる母であり、究極に到達すべき石はこの「夫のいない」母から生み落とされるこじである。(『黒い錬金術』100ページ 種村季弘)

ブラッドボーンにおいては寡婦はゴースのことである。錬金術的な賢者の石精製を踏襲するのならば、その子は孤児 orphanでなくてはならないのである

そして上述したように賢者の石とは意識と無意識との統合により回復された「個我(自己)」のことである

個我は心理学における全体性(自己)であり、錬金術においては賢者の石である。これらは上位者の赤子であり、また3本目のへその緒である。そしてまた上位者にとっては自身の全体性を回復しうる「赤子」(未来への可能性)であり、人にとっては全体性を得ることのできる「」である

不完全な孤児(母との繋がりがある)であるゴースの遺子は悪夢に囚われ、そのゆがんだ結合が狩人に断ち切られるまで、故郷を望みながら泣くのである

童児元型は心理学において意識と無意識とを結合する媒介であることは上述した。ゴースの遺子の側からみれば、意識はゴースの遺子、無意識はゴースである。そして両者を結合する童児元型こそ黒い影である。その本性は無意識内容であり、無意識を故郷とする元型像である

また錬金術の伝統を踏襲するならば、黒い影は精霊ゲールマンは魂(遺志)ゴースは世界(肉体)とも考えられる

精霊と魂をゴースという人工子宮の内部に封じることでホムンクルス、すなわち賢者の石が精製されるのである

ここで精霊は媒介として働き、ゲールマンの魂(意識)とゴースの肉体(無意識)とを結合することで、ゴースの遺子という賢者の石を精製したのである


母元型

諸元型と同じように母元型にも肯定的な面と否定的な面が存在している

これらすべてのシンボルは肯定的、好意的な意味か、それとも否定的で邪悪な意味をもっている。両面的な顔をもつのは運命の女神(パルカたち、グライアイ、ノルンたち)、邪悪なのは魔女、竜(すべの呑みこみ巻きつく動物、たとえば大魚と蛇)、墓、棺、深淵、死、夢魔、お化け(エンプーサ、リリトなどの型)。(『元型論』106ページ C・G・ユング)

ブラッドボーンにおいては、月前の湖やメンシスの悪夢で出会う女王ヤーナムと、トゥメル=イルで戦う女王ヤーナムは両義的な性質をもつ典型的な母元型である

こうした両義的な母元型は母親コンプレックスの基礎をなしている。母親コンプレックス、すなわちマザーコンプレックスは男性の母親に対するものと解されがちであるが、ユングによれば娘の母親コンプレックスも存在している

母元型はいわゆる母親コンプレックスの基礎をなしている。(『元型論』111ページ C・G・ユング)

母親コンプレックスは娘のばあいにのみ純粋で単純である。このばあいには女性本能が母親によって強められるか、それともそれが弱められ、ついに消えてしまうか、どちらかである。前のばあいには本能の世界が優越するために自分の人格が意識されなくなり、後のばあいには本能が母親に投影されていく(『元型論』112ページ C・G・ユング)

ブラッドボーンには母の属性を持つキャラクターが何人か登場するが、その多くは否定的な母元型として登場している

上述したトゥメル=イルの女王ヤーナム、また上位者ゴース、そして穢れた血をもつ女王アンナリーゼである(そしておそらくマリアも)

これらの母元型は現ヤーナム人よりも高次の生物、あるいは人種とされているが、これは母元型が上位人格として存在しているからである

個々の像の中には一連の諸タイプに分類できる人間像があって、その最も主要なものは――私の提案によれば――影、老人、子供(英雄児を含む)、上位人格としての母(「原母」および「地母」)(上位なるがゆえに「魔神的」である)、およびこの母とペアーをなしている少女、および男性のばあいにはアニマ、女性のばあいにはアニムスである。(『元型論』142ページ C・G・ユング)

これが上位者が上位である理由である。上位者とは心理学における上位人格を示し、それは例えば『ファウスト』のメフィストのような悪魔として無意識から現われ、意識の前に立ちはだかるのである(母元型が上位人格とされるのは女性の場合のみである)

私は「上位人格」を普通「自己」と呼んでいるが、それによって私は、周知のように意識と同じ広がりしかもたない自我と、意識的部分のほかに無意識的部分をも含む人格の全体とを、はっきりと区別している。自我と「自己」との関係は部分と全体の関係と同じである。その意味で自己が上位なのである。(『元型論』147ページ)

すなわち全体性を回復、すなわち個我(自己)を回復した者が上位者である(そしてそれは「未来への可能性」を獲得することと同義である)

女王ヤーナム、女王アンナリーゼ、またマリアは赤子つまり自己を回復することのできる者たちである(ゆえに現時点で上位者でないがその可能性がある

※ただしすべての上位者は赤子を失っている。つまり自己を失った状態にある

無意識を含む自己意識からは客体として認識されるがゆえに、そのイメージは様々な人外の像として表出される

そのため無意識は自分のイメージを完全にするために、生きているものの像を使う。それらは人間以外の両極端である、動物から神格にまでわたっている。その上に、動物的なものに植物的なものや非有機的・抽象的なものまでが加わって、小宇宙をなしている観がある。ちなみにこれらの像は、きわめて頻繁に、擬人的な神々のいわゆる象徴(しるし)として見出される。(『元型論』148ページ)を

さて、恐ろしい母に対するコンプレックスをもつキャラクターとしてはマリアが挙げられる

彼女がゲールマンを慕ったのは、彼が父親に近い年齢だったかである。つまり母親コンプレックスが母性本能を消去した代わりに、エロスの過剰が現われたのである

逆に娘の側ではこの本能が完全に消えてしまうことがある。その代わりに代償としてエロスの過剰が現われ、そこから必ずといってよいほど父親との近親相姦関係が生まれる。高まったエロスは他人の人格への異常に強い関心を引き起こす。(『元型論』114ページ)

そして彼女が穢れた血から形作られる血刃を嫌ったのは、母元型である不死の女王アンナリーゼに対する防禦(ぼうぎょ)からである

つまり、いろんな形をとる母親の支配に対する防禦を持続させることが人生の最高の目的になっているのである。これらのばあいには、しあしばあらゆる細部に母元型の特性〔への反発〕が見られる。たとえば家族または氏族としての母親は、家族、共同体、社会、因襲などと呼ばれるあらゆるものに対する激しい反発または無関心を呼び起こす。(『元型論』118ページ)

彼女がカインハーストを離れ狩人になったのは、そこが母親が関わってこない領域だからである

母親に対する防禦から時に知性が自動的に発達することがあるが、これは母親が関わってこない領域を作るためである。(『元型論』118ページ)

このエロス過剰型の女性は道徳的な葛藤を引き起こす

この型の女性は、母親の庇護のもとにある男性に激しいエロスの光をそそぎ、それによって道徳的な葛藤を引き起こす。しかしこの葛藤がなければ意識をもった人格は生まれないのである。(『元型論』123ページ)

この葛藤は情緒と情動の火を、そしてそれは錬金術の火を呼び起こす

葛藤は情緒と情動の火を呼び起こす。そして火のつねとしてこの火もまた両面をもつ。すなわち焼き尽くす面と光を灯す面である。情動は一方では錬金術の火であり、その暖かさはすべてのものを発生させ、その熱は《すべての余計なものを焼きつくし》、他方では情動は鋼鉄が石に当たって火花を散らす瞬間である。すなわち情動とはあらゆる意識化の主要な源泉である。情動がなければ、闇から光へ、不活性から運動へ、という変化は起らない。(『元型論』124ページ)

この火こそが第三形態のマリアが放つ炎である。しかし現実におけるマリアはこの火に至る前に自害して命を失っている

この種の女性が自分の働きの意味について無意識のままであるならば、すなわち彼女自身が「常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の」一部であることを悟らないならば、自分がもたらす剣によって生命を失うことになろう。しかし意識をもてば彼女は解き放つ者、救う者に変わるのである。(『元型論』124ページ)

過去の考察によって得られた推察によれば、マリアは「月の魔物」の母親である。つまりマリアは母であり娘なのである

それゆえ、どの母親も娘を、どの娘も母親を、自分の中に含んでいると言える。この融即と混合から時間に関するあの不確実さが生まれる。つまり女性ははじめ母として生き、後には娘として生きる。この結合を意識的に体験することによって、世代を越えて生き続けるという感情が生まれるのである。この感情が第一歩となって、時間から解放されているという直接的な体験と確信へと発展するが、これがつまり不死の感情である。(『元型論』148)

またマリアは不死の女王アンナリーゼの傍系であり、アニマの項でも述べたように「秘密」と関わる存在でもある

アニマは「上位人格」と同じように両極的であり、それゆえ肯定的かと思うと、否定的に現われたりする。すなわち老女かと思うと若い娘になったり、母かと思うと少女になったり、善い妖精かと思うと魔女になったり、聖女かと思うと娼婦になったりする。この両極性に加えて、アニマは「秘密のこと」に対する、一般的には暗黒の世界に対する「神秘的(オカルト)な」関係をもっており、そのためにしばしば宗教的な色あいもおびている。アニマは、少しでも明瞭に現われるばあいには、つねに時間との注目すべき関係をもっている。すなわちアニマは時間の外にいるため、たいてい完全に不死であるか不死に近い(『元型論』166ページ)

※ちなみに月の魔物がゲールマンを魅了したのは月の魔物が元型だからである

元型はそのイメージそのものであるばかりなく、元型的イメージがヌミノースな性質、魅了する力をもっていることからも解るように、同時に駆動力でもある(『元型論』344ページ)

一方で人形は子守歌を歌う「」としての側面が強い。これはユングによれば母親との同一化を意味している

女性の母親コンプレックスにおいてエロスが高まらないと、母親との同一化が生じ、女性独自の営みが衰えていくことになる(『元型論』116ページ)

そして人形は血の遺志を生命力に転換し、月の魔物に与えている

彼女は影のような存在であり、しばしば明らかに母親によって血を吸いとられ、いわば不断の輸血によって母の生命を延ばしている。(『元型論』116ページ)

ここで月の魔物は母親であるマリアと同じように娘であると同時に母である

宮崎英高氏はインタビューにおいて、人形がプレイヤーに好かれるであろうという期待を述べている

私は彼女のデザインを含め、その人形が本当に好きです。うまくいけば、それをプレイするゲーマーも同じように考えるでしょう。(インタビューより)

なぜならば母と同一化した娘は男性にとって魅力的な存在だからである

反対に彼女らは、存在感のなさと内面的な無感覚とにかかわらず、いやむしろそれゆえに、結婚市場では高い相場がつけられる。なによりも彼女らはあまりに空虚なので、そのために男性が彼女らの中にありとあらゆるものを想像することができるのである。(『元型論』116ページ)


精神元型

精神(ガイスト)もまた元型の1つとされる。だがこの「精神」には意味やニュアンスの違いが無数にあり、いわゆる現代人が思い浮かべる「精神」とはやや異なるものである

精神(ガイスト)とは普通、物質と対立する原理を指している。この言葉で考えられているのは、非物理的な実体や実在であり、その最も普遍的な最高段階は「神」と呼ばれる。この非物質的な実体は心的現象の、または端的に生命の、担い手とも考えられている。(『元型論』237ページ)

錬金術師たちはこの精神を《魂(アニマ)と身体を結ぶもの》として考えている

ある錬金術師たちは精神を《魂(アニマ)と身体を結ぶもの》と考えており、このばあいには精神は明らかに《生気の精》(のちの生命の精または神経の精》と考えられている。(『元型論』237ページ)

心理学的には精神は「見えない息のような臨在(プレゼンス)」であるという

精神(ガイスト)とはもともと、あるコンプレックスの働きであって、それが原始時代においては見えない息のような臨在――プレゼンス――と感じられたのである。(『元型論』239ページ)

月の魔物の英名は Moon Presenceである。月の臨在と訳すことができる。しかし月の魔物自身が「精神元型」というわけではない。いや、実のところ上位者は精神(ガイスト)を宿しているし、そこに統合された自己の中心にそれはあるのだが、必ずしも精神=自己というわけではないのである

しかしながら、「精神」を単純に「自己」と同一視することには、問題がないわけではない。というのは、「精神」とは「物質」とか「肉体」の対極としての意味をもつものであるのに対して、ユングの「自己」はその両者の結合としての全体性のはずだからである。ユングが「精神元型」と言うばあい、どうやら純粋な「精神」(霊)だけを指しているばあいと、老賢者のイメージによって代表される「自己」を指しているばあいとがあるように思われる。(『元型論』496ページ 訳者解説)

つまるところ「精神元型」には二種類ある

古来よりの最高の宗教体験、神体験と言われるものを調べてみると、どうしても二種類のものがあると言わざるをえない。一方は純粋に神性で清浄で、善と光だけに満ちた、霊的な体験である。これは世俗から超越した、物質や肉体とは正反対の原理をもつものである。これは色で表すと「青」とか「白」「銀」のイメージであり、またによっても象徴される。(『元型論』497ページ 訳者解説)

青く、純粋な霊であり、月によって象徴されるのが一つ目の「精神元型」である

すなわち月の魔物の英名「Moon Presence」とはこの意味の「精神元型」を指す名前なのであるが、この名が指し示しているのは狩人が戦う月の魔物ではなく、そこに宿る「オドン」のことである

※アートワークスにおいて月の魔物のページにオドンのキャプションが載っているのはこれが理由である。また月の魔物の血には「青い光」が伴うのもこれが理由である。

オドンが精神元型であることにより、上位者の赤子がなぜオドンの働きかけにより生まれるのかも明らかになる

「精神」とは「自己」にとって必要不可欠な構成要素であり、また《魂(アニマ)と身体を結ぶもの》なのである

それはつまり、上位者の赤子(「自己」)が生まれるためには、オドン(「精神」)がそこに宿らなくてはならなず精神の働きかけにより意識と無意識が統合され自己が生じ、そのときはじめて精神により魂(アニマ)と身体とが結びつけられ、肉体をもった上位者の赤子として誕生できるのである

ユングが本当に言いたかったのは、「精神」とは「自己」の重要な構成要素、というより不可欠の、中心的とさえ言いたいほどの要因だということではかろうか。(『元型論』497ページ 訳者解説)

これはユングの文章からは精神=自己とも解釈できることに対する解説である。精神と自己との同一視をしているように読めるのだが実は違うのだ、と。しかしブラッドボーンにおけるオドンは「精神=自己」としての姿もある

自己とは意識と無意識とが統合された賢者の石であり、賢者の石は生ける銀メルクリウスとしても解釈されている。そのメルクリウスとオドンとは性質が似通っているからである

錬金術のメルクリウスは「第一質料(プリマ・マテリア)、つまり変容物質の最高形態である。同様にメルクリウスには貫き浸透する力がそなわっているとされる。それは物体に、毒さながらに浸透する。(『心理学と錬金術 2』 203ページ)

先にも述べたが、メルクリウスは対立物を合一した象徴であると同時に二重の性質をもつ。それはでありながらなのである

医療教会による「拝領」は薬の側面を得ようとした結果であり、月の魔物を蝕んでいるのはその「拝領」の毒の側面なのである

ここに見られる対立のアナロジーはメルクリウスの二重の性質であって、これは錬金術過程では殆どの場合ウロボロスの、すなわちわれとわが尾を啖い、交合し、孕ませ、殺し、再生させるところのあの龍の姿をとって顕現する。ウロボロスはヘルマプロディトスとして、対立する二つのものから成っているが、同時にまたこの対立物の合一の象徴でもある。それは一方では死をもたらす毒、バシリスクにして蠍(さそり)であり、他方では万能薬であり救済者(salvator)である。(『心理学と錬金術 2』 203ページ)

またこの精神元型は老賢者としての姿をとることもある。これはゲールマンが青いオーラをまとうことの設定につながっている。(そのときゲールマンは「青い月」に向かって両手を広げる)

精神元型のもう一方は、霊的な精神と肉体とが結合した「自己」としての精神である

それに対して、他方には、たしかに霊的なものを含むが、それと同時に肉体やエロスや大地の原理も包みこんだ神のイメージがあり、ユングのいわゆる「自己」により近い宗教体験がある。これは宇宙や自然との一体感を伴い、色で表すと「青と赤の結合」とか、単純に「」のイメージ、また月に対する太陽とか、「銀」に対する「金」によって象徴される。『元型論』497ページ 訳者解説)

青と赤の結合とは青ざめた血の空の色であり、霊的なオドンと大地とが結合した「ローレンスたちの月の魔物。青ざめた血」のことである

このように月の魔物はユングの二種類の精神元型を極めて忠実に体現した存在なのである

さて、このように「上位者」とは自己(赤子)を失った元自己であり、それらは無意識の元型でもある。彼らが赤子を求めるのは、赤子が「未来への可能性」を含意するからである

赤子のようなロマ、落とし子と呼ばれるアメンドーズ、ゴースの遺子、星界からの使者、そしてメルゴー童児元型である

星の娘、エーブリエタースはその名の通りアニマ元型であり、メルゴーの乳母やゴースは母元型である

またオドンは純粋な霊タイプの精神元型であり、月の魔物「自己」としての精神元型である(しかし月の魔物の「自己」は壊れかけている)

※単に上位者=元型にしてしまうと、他の元型的キャラクター(人形やゲールマンなど)が上位者でない理由がなくなってしまう。また「赤子を失い」とあることから、かつてはそれを所有していたが失っていた、つまり「自己」の統合を失った、と解釈した


天空、宇宙、星

以上が代表的な元型とその解釈である。しかし元型とは形式であり、その内容は他にも多数存在する。この項ではそのうちの「天空、宇宙、星」について考えてみたい

宇宙は空にある、とはパラケルスス的に解釈するのならば無意識は自らの内にある、となる

パラケルススにおいては「内なる天空」やその《星々》の光景へと変化していることである。彼は暗い心を、一面に星をちりばめた夜空であるかのように見ているが、天空の惑星や星座はまさしく光とヌミノーゼに満ちた元型である。事実、星空は宇宙的な投影が繰り広げられた書物であり、そこには神話素、つまり元型が繁栄されているのである。(『元型論』324ページ)

そして聖歌隊の見上げた「」とは、その中に瞬く光、つまり「自己」である

もしも明かりがモナドのようなものとして、つまりたとえば一つ一つの星、あるいは太陽の目として現われるのであれば、それらは好んでマンダラの姿を取り、そのときそれは自己と解釈すべきものとなる。(『元型論』330ページ)

自己はブラッドボーンにおいては「瞳」によって象徴され、それはウィレームが求めたものである

聖歌隊がこの「瞳」を「星」として追い求めたのは、彼らがウィレームの直系だからである。つまり根源的に同じものを求めているから直系なのであり、その瞳はパラケルスス的には「」であり、また心理学的には「自己」なのである

星からの徴、とは星によりもたらされる「」のことである

それは「火花」であり、やはり自己(瞳)のシンボルなのである。ゆえに聖歌隊は星からの火花(瞳)を得ようとしているのである

「さていかにしてそのことはアイオーンたちに明らかになったのか。ある星が空に輝いていたが、それは他の星々よりもいっそう明るく、その光は言葉では言い尽くせないほどであった。この出来事は人々の不審をかきたてた。その他の星々は太陽や月とともにその星を取り巻いて合唱していた…」(第十九章一節以下)。心理学的にはこの一つの火花あるいはモナドは自己のシンボルとみなすことができるが、これは一つの見方であり、ここでは暗示するだけにしておきたい。(『元型論』322ページ)

また星の娘たるエーブリエタースが「見捨てられた」とされるのは、この星(自己)が分裂し還るべき故郷を失ったからである

星との関係は昔から「永遠」そのものを象徴している。霊魂は「星々」で生まれ、ふたたび星の世界へ帰っていく。(『元型論』160ページ)

対照的に故郷が海(無意識)であるゴースの赤子は還ることができた

また聖歌隊とともに空を見上げるとされるエーブリエタースが、なぜか拝跪するような姿勢で、うつ伏せになっているのは、現実における空ではなく、自身の内なる天空を見上げているからである

ちなみに上位者の象徴である「七」という数字は、七つの遊星を意味するとともに、バビロニアの偉大な七人の神々を意味している

七つの星は黙示録では七つの教会の七人の天使と神の七つの霊とを表す。七は言外に歴史的な意味を含んでいる。すなわち太古の神の一団、例の七人の神々がそれであって、この七人の神々は錬金術の七つの金属に姿を変えて生き続けた。(『心理学と錬金術 1』266ページ)

七つの星はそもそもはバビロニアの偉大な七人の神々であるが、エノク黙示録の書かれた時代にはすでに七人の執政官、すなわち「この世」の支配者、罰せられて堕落した天使たちとされていた。(『心理学と錬金術 1』266ページ)

現代において神々人の無意識のうちにしか存在しない。それは人間を見捨てて無意識のうちに還っていったのである。だが彼らはときおり光をもたらす。それは無意識からの光(元型)として意識に立ち上り、自我との対決を経て合一することができたのならば、自己は回復される

光は「啓示」〔照らすこと〕を意味しており、それは啓示〔照明〕を与える「襲来」である。ごく慎重に言っても、それは心的エネルギーの著しい緊張に関わっており、その緊張は明らかにきわめて重要な無意識の内容に対応している。この内容は強力な力をもち、意識を呪縛する。この強力な客観的 - 心理的なるものはいつも「魔神」とか「神」とか呼ばれてきた。ただ一つの例外は、ごく最近になってわれわれが宗教に(自分自身に!)背を向けて、それを「無意識」と呼んだことぐらいである。そう呼んだのは正しかった。というのは神は事実われわれにとって無意識となってしまったからである。(『元型論』374ページ)

聖歌隊とエーブリエタースの目的は同一である。つまり上述したように、分裂した星からの徴(光)を拾い集め、自らと統合し、ふたたび「星(自己)」を回復させようとしているのである

エーブリエタースにとってそれは、失われた上位者の赤子(未来への可能性)を得ることであり、聖歌隊にとっては「賢者の石」を、つまり超越的思索を得ることを意味しているのである

超越的思索とは、意識と無意識との統合によって回復される「全体性」のことである


意志

意志とは心の領域におけるエネルギーである。この理解はブラッドボーンにおける「遺志」と同一である。すなわちブラッドボーン内で起きている出来事は、心理学における意識と無意識の統合過程を寓話的に描写したものなのである

すでに見てきたように、心の領域の内部では意志が機能に影響を及ぼしている。このようなことができるのは、意志自体が一つのエネルギー形式であり、別のエネルギー形式を打ち負かしたり、少なくとも影響を与えることができる、という事実のためである。(『元型論』313ページ C・G・ユング)

意志とは意識の自由裁量に任された、限定されたエネルギー量である。(『元型論』313ページ C・G・ユング)

夢の中で狩人は意識として活動する。その活動は遺志により裏付けられ、死ぬと血の死血として遺志を残す。赤い月の近づいた、つまり夢と現実が混じり合った領域では、遺志がエネルギーとして機能するようになるのである

また無意識に存在する元型にも意志エネルギーは存在する。つまり意志とは意識においても無意識においても作用する共通エネルギーなのである

無意識の内部には、類心的な過程のほかにも、表象活動と意志行為がある、すなわち意志過程に似たものがある。(『元型論』314ページ C・G・ユング)

加えて無意識が意識化されること、つまり無意識内容(元型)が意識に侵入する際には元型は「意識化」されるため、意志のエネルギーに支配されるのである

これらすべてが無意識の内容である。これらの内容はいわばすべて多かれ少なかれ意識化されうる、あるいは少なくともかつては意識であったし、次の瞬間には意識化されうるものである。そのかぎりでは、無意識はかつてウイリアム・ジェイムズが名づけたように《意識の辺縁》である。(『元型論』316ページ C・G・ユング)

悪夢の辺境とはすなわち意識の辺縁である無意識の領域のことである


左と右

カレル文字には「左回りの変態」と「右回りの変態」がある。心理学的に言えば、左は無意識右は意識を意味する

左(ラテン語で言えばシニステル sinister〔あべこべ・不吉の意〕)は無意識の側を意味する。従って左廻りに動くということは、無意識の方向に動くということと同義である。これに対して右廻りは「正しき(コレクト)」動きであり、その目指すところは意識である(『心理学と錬金術1』)

ブラッドボーンにおいては、左廻りは無意識から意識への移行、つまり神秘を自らに宿すことであり、それは純粋に霊的な肉体(苗床)を得ることを意味する

右廻りは意識から無意識への移行、つまり自我を無意識に投入することであり、自我はそこで出会った怪物と対決するが、そこで敗北すると同化してしまい、ついには獣化するのである

この変異は「聖血」によって惹き起される。なぜならば「聖血」は二つのものを統合した「賢者の石」だからである



ユング心理学と物語理論

無意識の表象物語に応用するという方法は突飛なものではなく、むしろ物語理論としては王道かつ最古のものである

多くの神話や伝説、昔話は無意識を源泉にして生み出されている。そしてそれは人間にとって根源的であるがゆえに、現代でも通用しているのである

そのあたりを詳しく考察した著作としては『千の顔を持つ英雄』が有名である

神話の象徴とは精神(プシケ)から自発的に生まれてくるものであり、そのひとつひとつが、自らの根源となる萌芽のような力を、損なわれることなく内に抱えているのである。(『千の顔を持つ英雄』プロローグ ジョーゼフ・キャンベル)

神話や英雄物語における「魂の成長」を考察したものとして『千の顔を持つ英雄』はユングの著作を読むよりもわかりやすいと思われる

キャンベルは数々の神話に登場する英雄物語を挙げ、これらには普遍的な物語の構造があると述べる

英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域(X)へ冒険に出る。そこでは途方もない力に出会い、決定的な勝利をする(Y)。そして仲間(Z)に恵みをもたらす力を手に、この不可思議な冒険から戻ってくる。(『千の顔を持つ英雄』プロローグ)

(『千の顔を持つ英雄』プロローグ)より模写
(『千の顔を持つ英雄』プロローグ)より模写

これをブラッドボーンに当てはめるとしたら、故郷からヤーナム(X)に向かい、そこで途方もない力(遺志Y)に出会い、決定的な勝利をする(上位者に勝利)。そして人類の新しい進化を手にする(上位者の赤子となるZ

最終的に力を得られたり、あるいは得られなかったりする英雄神話(例えばギルガメシュ叙事詩など)もあるが、基本的にほとんどの英雄物語はこの構図を踏襲したものである

それが最もわかりやすく提示されているのは映画「スターウォーズ」やジブリ映画、そして漫画版ナウシカであろう

また『指輪物語』などは、指輪を破壊することで平和な世界が得られた、と解釈することもできるし、あるいはギルガメシュ叙事詩にあるように、人間の力を越えるモノは最終的には得られないのだ、という教訓が語られているとも考えられる

※漫画版ナウシカのように自ら捨て去るパターンもある。漫画版ナウシカの場合はいろいろと理由があるが…

またあまり語られないが英雄が敗北するパターンも存在する。心理学的に言えば自我が無意識の内部で恐ろしい元型と出会い、敗北し、元型と同化してしまうようなパターンである

※端的に言えば闇堕ちである。英雄物語にはならないので普通は語られないが、英雄物語の前日譚として語られることもある。例えば『ベルセルク』のグリフィス→フェムトやダースベイダー、またはやや変則的ながら漫画版ナウシカの神聖皇帝(皇弟・皇兄ともに)

要するに英雄物語にはエンディング分岐があるのである。そしてこのエンディング分岐はブラッドボーンにおける三種のエンディングとして描かれている

ヤーナムの夜明けは、人の身に余る力を放棄して元の世界へ帰還するパターン

遺志を継ぐ者は、元型である月の魔物に魅了され(元型は魅了する力を持つ)、同化し、囚われの身になるパターン

幼年期のはじまりは、神秘の力を得て人類に新しい進化をもたらすもの、つまり救世主として帰還するパターンである

※またここでは触れるだけにとどめるが、SEKIROやソウルシリーズなども心理学によって解釈することが可能である


まとめ

本雑文の要点はこうである「ブラッドボーンは心理学における意識と無意識の統合過程を寓話として描いたもの」と解釈すると不可解な部分についての解答が得られる

意識と無意識の統合によって得られるのは「自己」であり、それは錬金術的には「賢者の石」であり、万能薬であり、メルクリウス等々でり、ブラッドボーンにおいては「瞳」であり、「赤子」である

狩人(自我)ヤーナム(意識)悪夢(無意識)の融合した中間領域において、さまざまな元型(人形やゲールマン)と出会い、またかつて自己(赤子)を有していた元型(上位者)と対立し、勝利し、その力(遺志)統合するのである

そして狩人(劣等機能)全体性を回復させる3本目のへその緒(無意識の三機能)を3本使用することにより、全一なる四者として全体性を回復し、上位者の赤子となるのである


上位者の赤子

上位者の赤子に関して捕捉が必要と思われる

世界を一つの心理と仮定すると、上位者の赤子は「世界の自己」を構成するための無意識の三機能の象徴である

自己の本質と世界の本質――この二つは同じものである(『千の顔を持つ英雄』下 284ページ)

つまり世界内存在としては意識と無意識の統合を果たした自己(上位者)であるが、同時に意識と無意識を含めた世界においては(世界の)自己の欠片なのである

神話学的には主人公以外の上位者の赤子はミクロコスモス(小宇宙)自己であり、狩人が最後に到達したものがマクロコスモス(大宇宙)の自己である

それは狩人の赤子への変異が人類の新たな段階、つまり現実も含めた世界における変異であることからも推察できる。要するに上位者の赤子と、狩人が変異した上位者の赤子は属す世界が異なるのである。そしてより大きな世界に属すのは狩人の変異した赤子である

ユングの精神元型理解には二種類あると上述した。このうち主人公以外の赤子は純粋に霊的な精神元型である。すべての赤子は悪夢(または現実と悪夢の中間領域)にしか存在していないからである

霊と肉と、つまり無意識と意識とが統合された赤子であれば、現実に存在することが可能である(それこそがミコラーシュの目的でもあった)

そのミコラーシュの理想を体現したものが、狩人だったのである


蛇足

本論ではブラッドボーン設定の極一部しか扱っていない。あまりにも長くなるので基礎的なものに留めたのである

引用が多いのは、引用元がなければ主張が奇矯すぎて、いい加減なことを言っていると取られかねないからである

しかし特に『元型論』を引用した部分などは、ほとんどユングの著作の流れのままに引用している。それほど『元型論』にはブラッドボーンの各種設定を彷彿とさせる概念なり哲学なりが登場しているのである

※諸事情によりしばらく返答が滞ります