2018年12月20日木曜日

Death Stranding 考察12 Archillect 12/21追記

12/21追記
Archillectの創作者であるPak氏(Twitter)により、ArchillectはDSのマーケティングとは無関係ということが明らかにされた

彼によると204863枚目の画像およびリンクは、彼が設計したものだという(それ以外の意図的な関与は否定しているが)

簡単に言うと、DSのコミュニティを巻き込んだArchillectの実験だったようだ

※1 ArchillectはSNS上で盛り上がっている話題と画像をArchillectの意志のもとにピックアップする人工知能である。その点からいえばDSコミュニティがArchillectとDSを同時に話題にすればするほど、ArchillectはDSに関係する画像を投稿するようになっていく。この傾向に目をつけたPak氏が、204863枚目のイベントを仕込んだ、ということらしい

※2 このタネ明かしを追記するか悩んだのだが、タネを明かすまでがこのARGの範囲だと考え記すことにした(Reddit民もあんまり怒ってないしね。皆うすうす仕込みだと感じつつあえて参加していた感がある)

Archillect

Archillect(Archive+Intelligent)とは、ソーシャルメディア内の画像を特定の意志のもとに集めて共有する人工知能(AI)である(詳細はArchillectのFAQ

このArchillect、一見DS(Death Stranding)と無関係であるように思われる

だが、いつの頃からかDSに関連する画像を投稿し始め、それに気づいたRedditのARG民が注目し始めた、というのが事の始まりの様だ
ARG= Alternate Reality Game, 代替現実ゲーム

さて小島プロダクション制作の「P.T.」というゲームがある
このホラーゲームには様々な謎があり、いまも考察がなされているが、その謎のひとつに「204863」という数列が存在する

昨夜、Archillectが「204863」枚目の画像を投稿した、というのがRedditにおける盛り上がりの原因である(204863に近づくにつれ小島監督に関連する画像が投稿されていった)

「204863」枚目に投稿された画像が以下のものである(Twitterに投稿された大きな画像


Archillect上のこの画像には「小島プロダクション」へのダイレクトリンクが張られており、クリックすると小島プロダクションのWEBサイトに飛ばされるようになっている

このカラフルなドットの画像小島プロダクションとの間に何らかの関連性があると考え、解読を試み、そしてそれに成功したと報告したのが下記のスレッドである

I've done it - the code is decyphered
(または少し異なる詳細な説明 Was trying to decode as binary code

詳細はリンク先のスレッドを読んでほしいが、ドットのうち色彩の有るものを1黒を0とし、それをバイナリコードに変換実行すると次のようなメッセージが吐かれたという

uoyodmaiohwwonktnodllitsuoyetalooteruoy

そしてこの意味不明な文字列を反転させる(キラルのように)と、

youretoolateyoustilldontknowwhoiamdoyou
あるいは
You're too late. You still don't know who I am do you?」と読めるという

下の英文を日本語にすると
あなたは遅すぎます。あなたはまだ私があなたのことを知らないのですか?
と訳せるが、これはトレーラーのリンゼイ・ワグナーのセリフ

遅すぎたわ。私が誰か、まだわからない?
に対応すると思われるというのだ

ArchillectのFAQにおいて、Archillectとはデジタルミューズ、つまりデジタルの女神と言われていることから、リンゼイ・ワグナーはArchillectの原型であり、彼女自身、AIなのではないか、とも考察されている

信じるか信じないかはあなた次第


蛇足

Archillect関連は流し読みしていただけなので、正しく説明できているかはなはだ自信がない。その正誤についての判断は保留する。

2018年12月19日水曜日

Death Stranding 考察11 『神曲』

Reddit興味深い考察が載っていたので紹介する
詳細は『Death Stranding vs Aligheri L'inferno (1911)』を読んでもらうとして、大雑把にいうと、1911年に製作された『L'inferno』という映画にDeath Strandingの構図と似た映像があるというものだ

該当スレには画像もあるので必要ないと思ったが、別のソースから引用した比較画像を作成してみた。それが以下の画像である。なお画像は左右反転している。



オマージュなのか偶然なのか、事の正否には触れない

また該当スレのコメントにDeath StrandingのトレーラーにM1911という拳銃が登場しており、この映画を示唆している、という情報があった。それについても検証してみたが、真偽不明というのが正直なところだ

M1911ではないように思える。しかしながら昨今は権利関係上、実銃を登場させることが難しくなっており、M1911をモデルとした銃ということなのかもしれない。というか、そもそもコメントが指摘しているM1911がこの銃であるという確信がない(わたしの記憶にない別の場面である可能性も)


『神曲』

ともあれ、Death Strandingと『神曲』に何らかの関連性がある、という考察には「あるかもしれない」というのが自分の印象である

まず、映画の場面であるが、これはダンテがウェルギリウスに先導されて地獄へ向かうシーンである。つまり洞窟を抜けた先が地獄なのである。ということは、サムがいる場所は地獄的な場所であることを示唆している

『神曲』の「地獄篇」には九つの圏(階層)が存在するが、サムがいるのは気候的に考えて第九圏、「コキュートス」と呼ばれる氷地獄であろう

コキュートスは裏切り者を罰する地獄であるが、ここに四人の罪人が繋がれている(参考『神曲』wikipedia)
第一の円 カイーナ Caina - 肉親に対する裏切者 (旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来する)
第二の円 アンテノーラ Antenora - 祖国に対する裏切者 (トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテーノールに由来する)
第三の円 トロメーア Ptolomea - 客人に対する裏切者 (旧約聖書外典『マカバイ記』上16:11-17に登場し、シモン・マカバイとその息子たちを祝宴に招いて殺害したエリコの長官アブボスの子プトレマイオスの名に由来するか)
第四の円 ジュデッカ Judecca - 主人に対する裏切者 (イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来する)
そしてもう一人、第九圏のもっとも奥深くに幽閉されているのが魔王ルチフェロ(サタン)である

上記の四人に魔王を足す「五人」ということになるがこれはDeath Strandingにおいてボイドアウト後に空中に浮かぶ「五人」と照応する

さらにいえば、魔王ルチフェロは口の中で、ユダ、ブルータス、カッシウスの三人をかみ砕いているが、これはボイドアウトを引き起こす直接の結果となった黒い巨人が人間を喰らうという現象と照応していると考えられる

さらに地獄の中には煮え立つ瀝青(アスファルトの原料、黒い液体状のもの)に漬けられるというものもあるが、これは時雨ならびにそれが溜まった黒い水たまりのモチーフなのではないかと考えられる

と、このようにDSのなかに『神曲』の影響を見ると様々な事象に説明がつけられることとなる。

ただし、サムのいる場所=地獄そのものというわけではないように思われる。イメージとしては、地球に隣接した別次元に「氷地獄」が存在し、カイラル濃度が高まることで、二つの世界が重なり、結果、地球に地獄が顕現してしまうというものだ

地球と地獄とは、薄い次元の膜を隔てて隣在しており、地獄の影響を受けて地球は寒冷化し、また一部は融合してしまっているのではないだろうか

そしてまた永遠の責め苦を与えるという性質上、地獄には時間がない。こうした時間的な異常時雨の、触れたものの時間を進ませる、という性質をもたらしているのではないだろうか

また地獄となった場所には「死」が存在しない。カイラル濃度が高まり、地獄と融合した時空にいる人間は「死ぬことができなくなる」

付け加えるのならば、集英社文庫版の『神曲』を読んだ人ならば周知であるが、そのをDSのトレーラーに引用されたウィリアム・ブレイクは『神曲』の場面を描いた絵を何十枚も描いている


『ファウスト』

古典繋がりでいうのならば、『ファウスト』的なモチーフも散見される

まず、赤ちゃんを連れて旅をするサムの姿だが、これはホムンクルスに導かれて旅をするファウスト博士のイメージと重なる

このファウスト博士、物語の序盤でメフィストフェレスによって若返らされている

はじめ老人であったファウストがメフィストフェレスと遭遇し、若返ったあげく、赤ん坊(ホムンクルス)に先導されてをする

この一連のプロットをDSにたとえるのならば、「デル・トロがマッツと遭遇し、若返った姿となり、やがて赤ちゃんと共に旅をする」となる

とはいえ、デル・トロとサムでは顔の骨格からして違うので科学的考証を無視しない限り実現することはないので、おそらく違うだろう(それでもマッツならなんとかしてくれそう)


運命の女

『神曲』と『ファウスト』を雑に概略すると、失った運命の女を再び手に入れるために旅をする、というような感じになる。ダンテはベアトリーチェを、ファウストはグレートヒェンを追いかけまわし、彼女を失うや彼女の代わりを探しに行くが、ついに得られない

サムにとってのベアトリーチェやグレートヒェンとは、あの写真の女性であろう
何らかの事故か事件により最愛の女性と子供を失ったサムが、失ったものを再び手に入れるために放浪する、というのがDSにおけるサムの基本的な立ち位置なのではないだろうか

放浪の途中でブリッジスと出会ったサムはやがて伝説の運び屋と呼ばれるようになり、地獄の最深部(物語の核心部)へと足を踏み入れていく……という話なのかもしれない

またサムの物語以前には、ファウストとメフィストフェレスの出会いに近い出来事があったと思われる。現時点でその有力候補はデル・トロとマッツであるが、デル・トロがサムである、とは一概に断言できない

ちなみにリンゼイ・ワグナー/赤ちゃんは「先導役」たるウェルギリウス/ホムンクルスの役割であろうか(その存在がサムを核心へと導く)

レア・セドゥはやや複雑なのだが、『神曲』の「天国篇」において、先導役をウェルギリウスから交代したベアトリーチェだろうか(この交代はDSにおいては、リンゼイ・ワグナーの計画からサムが離反することを表すのかもしれない)

ベアトリーチェが二人いることになるが、死んだ妻とレア・セドゥとの間でサムが悩む的な展開になるのかもしれない

蛇足

当然であるが作品の性質上、「地獄」だとか「魔王」だとかは、SF的な言葉(ターム)に置き換えられると思われる

また、あくまでもRedditの考察に触発されて古典の構造をDSに当てはめただけの代物であり、映画的なものの影響を無視しているため、正否について責任はもてない(かなり悪乗りした考察である)





2018年12月16日日曜日

RDR2 赤い死の贖い

アーサーの物語

 イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。(レビ記 5章10-11)

 Redemptionは「贖(あがな)い」を意味する英単語である。

 また旧約聖書では、殺害者に対する報復を行なう近親者のことを「血の贖い人」と呼ぶ(民数記 35章)
 RDR(無印)におけるRedemptionとはこちらの意味だと思われる

 さてRed Dead Redemptionを直訳すると「赤い死の贖い」となる

 RDR2における「赤い死」とはまず第一に血を吐き続ける病、つまりアーサーの「結核」のことを指す

 物語の終盤、これまでの生き方に疑問を持ち始めたアーサーは「赤い血(赤い死)を吐きながら」これまで犯した罪を贖おうとする。その血はアーサーの命を象徴するものであり、彼は自分の命を捧げることで贖おうとするのである。「血は命であるがゆえ」に、「あがなうことができる」からである。彼は「おのれの血」を捧げる以外に贖罪する方法を知らなかったのだ

 一般に宗教行事は「血」を好むものであるが、とくにユダヤ・キリスト教は「血液」に対する反応が過敏で、それは聖杯伝説や吸血鬼というものを生み出してきたが、両者の根本にあるのがキリストの磔刑である。イエス・キリストの血が人類の罪を贖うものとされ、その奇蹟の力を信じるがゆえに「聖杯伝説」が誕生し、また「血液」に対する狂熱のゆえに「吸血鬼」が畏れられてきたのである
 
 ここには「血」に対する信仰のようなものすら感じられるが、その延長線上に「血を吐きながら贖うアーサー」という人物像が生まれたと考えられるのである

 つまり「赤い死の贖い」とは「結核(赤い死)」によって血を吐きながら、その血によって贖おうとするアーサーの行為そのものである

 作中アーサーは死んでもおかしくはない、というより生きているのが不思議なぐらいの吐血を繰り返しながら、それでもクライマックスまでは死なない。普通ならばとうに死んでいておかしくはないほどに病状が進んでいるにもかかわらず、立ち続け銃を構え、敵を殺し続けるのである

 そうした「不可解な生」の代償が「結核による吐血」なのである。血を吐く(生命を捧げる)ことで死までの猶予を与えられ、アーサーはその「不可解な生」を罪を贖うために使い果たしたのである

 この「不可解な生」を象徴するのが、牡鹿と狼の幻覚なのである。アーサーはすでに人として死に、ある種の精霊として生きている。そうした精霊を象徴するものとしてアーサーが視るのが、牡鹿と狼なのである。

 アメリカ先住民の神話では動物と人間との境は曖昧で、かつて動物は、動物であると同時に人間でもあったとされ、また、人間から動物にあるいは動物から人間にといった変身もあたりまえのことのように行なわれる

 例えばブルーレ・スー族の神話『白いバッファーローの女』では、文化を伝えた文化英雄である「白いバッファーローの女」は、白いバッファローになったと語られる

 またホワイト・リバー・スー族の『兎少年』という神話では「かつて動物は人間に姿を変えることができたし、人間も動物になれた」と語られる

 例を挙げていくときりがないので打ち切るが、アーサーの視た精霊とは上記のような動物とも精霊とも判断のつかない曖昧な存在だと思われる

 そして、その動物精霊はアーサー自身でもある(名誉値によって牡鹿か狼に象徴が変わることから)

 動物に変身したアーサーをアーサー自身が視ているのである。いわば臨死体験的な幻視であり、もっというのならば、シャーマンが陥る忘我状態(トランス)にあるといえる

 この忘我状態を引き起こし促進させたのは、結核による生命の衰弱と、「雨の到来」から渡された薬草であろう(作中、重要な感じで渡されるにもかかわらず、何故かそれ以降その薬草の存在が触れられることはない)

 アメリカ先住民の祈禱師はこうした忘我状態を引き起こす植物の知識に通じていたし、実際彼らの神話には、多くの聖なる草が登場する。それらは普通、喫煙によって祈禱師を天上へと導くとされていた。

 話がかなり逸れたが、つまるところ牡鹿や狼の突然の登場は、「アーサーの死」を肉体や精神の消滅によって表現するのではなく、人間から動物的精霊への移行というアメリカ先住民的な世界観によって表現したものだと思われる

 彼らにとって死はたんなる存在様態の移行にすぎず、彼らの魂は精霊的な動物となってアメリカの大地に住み続けるのである



アーサー王の死

さて、『旧約聖書では殺害者に対する報復を行なう近親者のことを「血の贖い人」と呼ぶ(民数記 35章)』と既述した
 
 アーサーの物語におけるRed Dead Redemptionとは「赤い死の贖い」であり、それは結核による血を象徴し、それによる贖いの物語であったが、アーサーの死後はその意味が変わる、というより元に戻る

 元とはもちろん「血の贖い人」の意味である

 操作キャラがジョンに変わり、マイカに報復するための物語となる

 が、マイカに報復するのはジョンではない

 ここにダッチが最後にマイカを撃った理由がある

 作中におけるダッチの描写があまりにアーサーに厳しいものだから忘れがちだが、ダッチにとってアーサーは家族のようなものである

 クライマックスでジョンに「ここで何してるんだ」と訊かれ、ダッチは「おまえと一緒だろうな」と答える。この答えこそ、ダッチがマイカに報復するために来たのだと言うことを直接的に示している

 ただしダッチの報復は、仇を取ってやろうとかアーサーの弔いのためにというような積極的な理由ではない。おそらく彼は当初、アーサーの死を理解できなかったであろう。何故アーサーは死んだのか、何故計画が狂ったのか。マイカと別れた後、ダッチは考え続けた。だが、彼の脳裏には自分が悪かったという論理は存在しないのである。

 そして彼は結論づける

 計画が狂ったのはアーサーが死んだからであり、その死に対してマイカは責任がある。なぜならアーサーを最後に痛めつけていたのはマイカであったのだから

 すさまじく短絡的な論理であるが、ダッチはそういう人間である。状況が悪化しても自分が悪いとは考えず、周囲の人間が悪いのだと決めつける。その矛先はジョンにも向けられるが、アーサーを慕うジョンには今のところ報復するつもりはなかった

 彼が求めたのはアーサーを殺した者に報復することだった
 報復さえ果たせば何もかもが元に戻る、とすら考えていた

 だからこそダッチは直接マイカに聞きに行ったアーサーの死に責任があるか?、と(幼さすら感じさせる行動だが、ダッチは基本的に子どもをそのまま大人にしたような人格をしている。その裏表のなさが奏功する場合もあれば裏目に出ることもある)

 マイカは言い逃れをしただろう。直接手を下したわけでもなく、実際アーサーの死因は結核による衰弱死だ。
 ダッチは何の疑いもせず、それを信じたのかもしれない。何しろ世界が自分を中心に廻っている男である。腹心のマイカが自分を騙すとは考えもしないのである(そこが魅力であり欠点でもあるが)

 ちょうどそこへジョンがやって来た
 銃を向け合っての口論の後、ジョンが言う「俺を殺しても解決しない」と

 ダッチの中でジョンはただの裏切りものである。アーサーの死を担えるほど、その喪失を贖えるほどの価値はない。自分がもう一度やり直すためには、アーサーの死を贖えるほどの生け贄が必要である。そう考えたダッチは、ただ単純にすべてを仕切り直すためだけに、マイカを撃ったのである

 そこには報復を果たした歓喜もなかった。そこにいるジョンはもはや部下でも裏切り者でも無く、仕切り直したダッチにとっては見知らぬ他人にしか見えなかった

 山小屋に残された忌まわしい過去を象徴するものであり、新しく生まれ変わった今の自分には必要ない

 もはやこの場所にいる理由も必要もない。さっさと山を下りよう

 山小屋の金に意を向けず、ジョンを見知らぬ他人のような眼で見て、さっさと山を下りていくダッチの心理はこういったものであった

 ただしダッチは一つのことだけはやり遂げた

 それこそが、マイカにその血をもってアーサーの死を贖わせること、Red Dead Redemption(赤い血の贖い)である



蛇足

言うまでもなく、たんなる解釈の一つに過ぎない

 一つだけ付け加えるとすれば、ゲーム内に登場するアメリカ先住民の居留地は名を「WAPITI」というが、これはアメリカインディアンのショーニー族の言葉(Shawnee)で「白い尻」を意味するワーピティ(waapiti)から由来する言葉で、「アメリカアカシカ」を意味する(wikipedia)
 アーサーが視る牡鹿がおそらくこの「アメリカアカシカ」であろうと思われる

 大型の鹿は一般的にエルクと呼ばれるが、アメリカ先住民においてエルクとは、最も神聖かつ重要な動物のひとつである。

 ワスコ族の『失われたエルクの魂が住む湖』という神話には、死んだ動物たちの精霊が住むとおいう〈失われた精霊たちの湖〉が登場する
 
 青く静かな湖の底には、死んだ動物たちの精霊が数えきれないほどいる。澄んだその湖面に反射して映し出されるフッド山の姿は、まるで失われた精霊たちに捧げるために立てられた慰霊碑のようだ。(『アメリカ先住民の神話伝説 下』青土社、249ページ)

2018年12月9日日曜日

デラシネ ローレンス/ミコラーシュ/ゲールマン

女性陣の名前は小ネタで触れたので、次に男性陣の名前について考察してみようと思う

ルーリンツ

ルーリンツ(ハンガリー語)の英語形はローレンスである

ニルス

ニルスという名はデンマーク語形であり、これを英語形するとニコラウスとなる
参考(ニコラウス・ステノ wikipedia)

そしてこのニコラウスチェコ語形にしたのが、ミコラーシュとなる

ハーマン

以前に「ハベル」という名前についての記事を書いた
ガリア戦記で有名な「ガリア」 とは「ケルト人の地」を意味する言葉。「ケルト人」を意味する英語名はガル(Gall)このガルがチェコ語に変化するとハベル(Havel、Habel)になる。(小ネタいろいろ」)
つまり英語形(ラテン語の間違い)からチェコ語にかわる際には「G」と「H」の置換が起きる

さて、ハーマンの綴りは「Herman」だが、この「H」が「G」に置き換わるとどうなるか

German」「ゲールマン」となるのである

※ゲールマンの正しい綴りは「Gehrman」であるが、ゲールマンのモチーフというか名前の元ネタはゲルマン民族のゲルマン(German)だと思っているので(あるいは「ゲール人の男」という意味かもしれない)、むしろGermanからHermanとGehrmanに分かれたのではないかと考えている


蛇足

小ネタに追加しようとも考えたのだが、過去の記事をあれこれいじるのがあまり好きではないので、新しく記事にした


2018年11月23日金曜日

隻狼 曼荼羅

※発売前の考察です


仏像

まず初めに、デビュートレーラーから登場していた仏像について
これはおそらく十一面観音(Wikipediaだろうと思われる
多面多臂の仏像は密教系に多く、とくに観自在菩薩はその手の数(千手観音)、頭の造形(馬頭観音)、頭の数(十一面観音)などが顕著である
これらはヒンドゥー教の影響を受けていると思われるがsekiroとは直接関係ないので詳細は省く
紅い蓮と紅蓮の言葉遊びか

曼荼羅

次にTGS Trailerに登場した護摩壇と曼荼羅であるが、この曼荼羅は「胎蔵曼荼羅の曼荼羅である

中央に置かれた中台八葉院が胎蔵曼荼羅の特徴であるからである

さて胎蔵曼荼羅というと、空海が請来した「現図曼荼羅」が最も有名かつ究極のものであろう。舞台、時代背景的にも本来であればこの「現図曼荼羅」がゲーム内に登場していてもおかしくはない

ただし、トレーラーに登場する胎蔵曼荼羅は「現図曼荼羅」そのものではない
 胎蔵曼荼羅は西に向かい東に掛けられるので、左が東、右側が西と方角がわかる

まず蓮華(中央にある紅い蓮の花)の八葉の間にあるはずの「金剛杵」が描かれていない。また、文殊菩薩の右下に「月輪(がちりん)」を背負った謎の仏が描かれている。ここには本来「四瓶(しびょう)」が描かれているはずである。四瓶とは、大日如来の「菩提心・慈悲心・すぐれた見解・方便」の四徳を表わすものである

では、空海の影響を受けていない時代の胎蔵曼荼羅かというとそうではない。中台八葉院の蓮華が紅いからである。この蓮華を紅く描くのは空海の「現図曼荼羅」以降のことである

胎蔵曼荼羅の根拠である『大日経』において、中台八葉院の八葉は白蓮華で描くことになっているからだ

では、sekiroに登場する胎蔵曼荼羅は、一体なんなのか?

答えを先に述べると、近代の曼荼羅研究に関する知識のある者が『大日経』をもとに新たに解釈して描き直し、さらに故意に相違部分を付け足した胎蔵曼荼羅である

というのも、八葉が紅いこと以外は、『大日経』(あるいはそれを解説した『大日経疏』)のそれに近いからである


なぜ新たに解釈する必要があったのか?

そもそも曼荼羅を信仰対象とする真言宗や天台宗実在の宗教であり、多くの信者が現存している。さらに真言宗の開祖である空海は入滅していない。入滅とは涅槃に入ること、つまり死ぬことであるが、真言宗では空海は入滅せず、今もなお高野山の奥ノ院におられると考えている

もし本物の密教をsekiroに登場させたとして、そうするとラスボスに相応しいのは空海以外にいないのである(不敬であるがスケールが段違い)。しかし、それをするといかにも密教的伝奇的なストーリーにならざるを得ず、要するに抹香臭くなるのである

よって信仰に対する良識的対応と、オリジナルな世界観を保つために、あえて本物とは相違を作り出しているのだろうと思われる

また、文殊菩薩の右下に描かれた謎の仏像の存在もこれで説明できる。詳しい人が見れば、一目で「これは現存する曼荼羅とは異なる」と察することが出来るからである

それにしても、言い方は悪いが面倒くさいやり方である。実在の曼荼羅でないことを強調したいのならば、それっぽい絵を描くだけで済む話である(ただしそれをすると、構図はガタガタ、思想的な理解はムチャクチャ、創作物として陳腐なものになるが)。それをせずに対象に関する知識を熟知した上であえて相違点を作り出しているのである(この手法はソウルシリーズから一貫して受け継がれている)

やろうと思って出来ることではない。時折、物事の本質を異常なまでに素早く見抜き、しかもそれを応用することのできる天才がいるが、きっと、そういうことなのだろう

蛇足

曼荼羅の絵を依頼されたグラフィッカーが「それっぽく描いたらそれらしくなってしまった」という説も否定はできない。というより、そうした例もあると思われる。ただし、今回の曼荼羅はそれにしてもよく描かれているように思えたので、考察してみたものである

2018年11月10日土曜日

デラシネ 小ネタ(ネタばれあり)

花の名前

ユーリヤが持っている花はマドンナリリーという種の白百合であり聖母マリアの象徴として有名。百合→ユーリヤ。ユーリヤの髪の色は白

ロージャの綴りはRozsaでローズ、つまりバラであり、赤いバラは聖母マリアを象徴する花である。ロージャの髪の色は赤

マリーはマリーゴールドであり、「聖母マリアの黄金の花」と呼ばれる花である。マリーの髪の色は金色

※ロージャについて補足。Rozsaはロザリオが転じた名であり、そのロザリオの語源は「バラの花冠」を意味するラテン語のrosariumである

※蛇足だがルーリンツ(ハンガリー語)の英語形はローレンスである

世界の他の場所

ニルスの本をすり替え過去を改変すると、時間移動後にコインを入れる箱のある部屋で「消失事件」について調べているニルスと会える





ユーリヤの襟元のブローチの有無

ユーリヤは襟元にブローチを付けているときと付けていないときがある。


こよりの反応

登場人物のなかでただひとり、こよりに反応しない人物がいる

妖精さんの席、図書館二階と礼拝堂が増える

入手した投票用紙を箱に入れることで黒板に選択肢が書き込まれる。それぞれちょっとした情報を得られる

スカボロー・フェア

演奏会で演奏される曲はスカボロー・フェア(wikipedia スカボロー・フェア)であるが、この曲は不思議な曲として有名である。その源流はスコットランドの古いバラッド『エルフィンナイト』(The Elfin Knight, 「妖精の騎士」)である

左手の痣

プレーヤーの左手には痣がある

コインの場所

図書室
 左奥の書棚の上。覗き込むことで見える

屋根裏
 宝箱の上方。梁の上。しゃがみ込むことで見える

中庭の木
 出て左側にある木のウロの中。覗き込む

立ち入り禁止の扉の下
 ドアの下に少しだけ見えている

最初に犬がいたバルコニーの下
 ストーリーを進め、ダニー(犬)がいなくなった後で入手可

屋根伝いの行き止まり
 演奏会の日にしか取れない(と思う)
 屋根裏へ行く途中の窓から出て右→右→右とずっと右に進んでいくと行き止まりがあり、その下。しゃがみ込み

木琴
 ヘビのいた窓際でしゃがみ戸棚を開くとヒント
 音楽堂の一階左奥の席にある打楽器のバチを入手し、それで木琴を叩く。2314

ユーリヤのベッド下
 覗き込み

報酬
 妖精さんの正体を示唆するものである

妖精さんの正体

雪山から戻ったあと、校長室の奥の部屋に行く機会がある。奥にはイーゼルがあり、ある写真が立てかけてある。その写真の裏側に直接的な答えがある

2018年11月8日木曜日

デラシネ 感想

環境

PS4 pro(SSD換装)
PSVRエキサイティングパック(MOVE2本セット)
ダウンロード版
クリアしただけでプラチナトロフィー

VR

かなり乱暴な視線移動と移動を繰り返したものの、まったく酔わなかった。基本的にはワープ移動。しかしながら操作に慣れてくると、ビュンビュンと連続ワープするのが楽しくなってくる。このあたりは流石フロムというか、屋根の上を移動してるところはほとんどダクソかブラボやってる気分になりかけた。また探索の楽しさはソウルシリーズを彷彿とさせるものであった。
伝説のBlood&Bonesを発見

世界観

不穏な空気が漂う世界観であるにもかかわらず、ずっとこの世界に浸っていたいという矛盾した感情を覚える作品である。それはクリア後も変わらず。この独特の世界観はゲームとしては唯一無二なものであろう

あえて類似する作品をあげるとすれば、一部のギレルモ・デル・トロ作品であろうか。『パンズ・ラビリンス』や、監督ではないが制作総指揮をした『永遠の子どもたち』等々。他にはダークファンタジー、例えば『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』にも似た世界観がある。あとはシャマランの『ヴィレッジ』。『ディアトロフ・インシデント』も興味深いかもしれない

そして漫画作品であればやはり萩尾望都作品があげられる

冒涜的な形状の海坊主


ストーリー

ネタバレになるので詳しくは触れないが、「思い出の幻影」をある種の目くらましとして機能させているのは特筆すべきものがある。たとえネタがわかったとしても(同様のネタは有名なホラー映画でも使われている)、VRならではの手法に工夫しているところは感嘆せざるを得ないのである(幻影が虚であるとすれば、現実の人間は実である、とする思い込みを逆手に取った方法である)
登場キャラクターなど。名前が一部覚えにくかった

総評

VR作品としての完成度が高いストーリーや設定ゲームシステムとして落とし込む宮崎氏の卓越した手腕が今作でもいかんなく発揮されている

VRだからこそ設定でありストーリーであり、それらを統合する形でのゲームシステムである

プレーヤーが妖精で、時間の停止した世界にいて、思い出の幻影が見えて、と一見とっつきにくそうな印象を受けるが、これが不思議とVRと合うのである

そしてその突飛な設定クライマックスにおいて大きな効果をあげている。ほとんど何もヒントがないにも関わらず、プレーヤーはすぐに正しい選択に気づくであろう(ゲームのシステムを理解しているプレーヤーには、何をすれば良いのかすぐにわかる

ゲームのシステムとはすなわち、デラシネの世界における妖精のシステムそのものであるからだ

その瞬間プレーヤーは妖精の正体を確信し、ついに「デラシネ」となるのである

最後のヒント



2018年11月1日木曜日

Red Dead Redemption 2 コーヒーの話

RDR2におけるコーヒーを一杯飲むための手順は以下のようなものである

1.雑貨屋で「コーヒー粉末」と「コーヒーパーコレーター」を購入
2.荒野へ行き、L1を押したままR1を押しながらスティックを下に入れながらL1を離し「キャンプを設営」
3.作成/料理(□ボタンを押す)
4.作成ウィンドウでコーヒーを選択し、淹れる(Xボタンを押す)
5.注ぐボタン(Xボタンを押す)
6.飲む(R2トリガー

なぜこれほどの手順を踏ませるのか

たとえば村上春樹氏の小説を読んでいると、料理を作る場面や着替える場面、身体を洗う場面などの描写が非常に細かいことがある。キャラクターの一挙手一投足をそれこそ微に入り細を穿つような精度で描写しているのである。

実は読者はそうした細緻きわまりない文章を淡々と読むことで、登場人物との同化を果たしているのである。これは感情移入や没入といった心理とは異なる現象であり、ある意味で読経する僧侶神に祈る神父のような形而上学的な存在への同化を感じてさえいるのである。

仰々しくなったが要するに小説の登場人物という仮想の存在と具体的な行為を介して同一化している、という程度のことである。

さて、この小説技法は村上春樹氏独自のものではない。そしてこの「登場人物の日常的な行為を細部まで記す」という技法をもっとも効果的に駆使したのは、かのレイモンド・チャンドラーであろう。

チャンドラーの小説『The Long Goodbye』の冒頭、探偵フィリップ・マーロウテリー・レノックスコーヒーを淹れる場面がある。ここでフィリップは1ページ以上にわたり、コーヒーを淹れるという具体的な行為をこれでもかと描写している。そのすぐあとでチャンドラーはフィリップ・マーロウに託す形で、なぜこれほどまでに細かく描写するのかを説明している。以下引用
 こんな細かい作業に何故いちいちこだわるのか? 張りつめた空気の中では、どんな些細なものごとも演技性を持ち、大事な意味を示す動きとなるからだ。そのときがまさにそれだった。一触即発の空気の中では、すべての決まり切った動作でさえひとつひとつ自立した意思表示になる。どんなに長いあいだ反復され、日常習慣と化したことであってもだ。(『ロング・グッドバイ』47ページ。レイモンド・チャンドラー。村上春樹訳。早川書房)

コーヒーを淹れるという些細であるが具体的な行為こそが、探偵フィリップ・マーロウを最も明瞭に表現すると同時に、読者はフィリップの行為を自らの行為として頭の中で体験することとなる。これは人間の形而上学に関する能力、つまり虚構を現実のものとして感じ取れる、という人類の能力の一端である(吉本隆明氏の『共同幻想論』や最近では『サピエンス全史』などがこの能力について扱っている)


つまり、「登場人物の日常的な行為を細部まで記す」という技法は、具体的な行為を介した登場人物と読者の同一化と、具体的な行為によるキャラクターの表現という二つの効果があるということになる

言うまでもなくレイモンド・チャンドラーといえば、「ハードボイルド」という概念を創出した作家の一人である。そして上記の技法は、ハードボイルドという舞台において最大の効果をあげる技法なのである。なぜならば具体的な行為を積み重ねることで、何故かそこに哀愁(ペーソス)のようなものが発生するからである。このペーソスがなければ、ハードボイルドは野卑で粗雑なピカレスクに堕してしまうであろう

おそらくロックスターは西部開拓時代の終焉を描くにあたり、チャンドラー的な文体をゲームに導入したかったのであろう。もしハードボイルド的な哀愁がなければ、ただの暴力的なゲームになってしまうからだ

ゆえに、アーサーは朝起きて水をくみ干し草を運ぶ。さらに馬に乗っては装備をひとつひとつ取り出し、銃弾を装填していくのである。この行為の反復が、哀愁を感じさせるような人物像を明瞭に表現するからである

そしてもうひとつ。日常的な行為プレーヤーに行なわせることで、プレーヤーはアーサーと徐々に同一化していくのである。この行為は無意識に出来てはいけないし、かといって難しすぎてもいけない。少し頭を使いながら、それこそフィリップ・マーロウがテリー・レノックスのために淹れるコーヒーのように、繊細に慎重に行なわなければならないのである

おそらく、この行為の積み重ねはプレーヤーとアーサーの同一化を推し進め、最終的には同化するであろう。これは一種の(そして本物の)仮想現実(バーチャルリアリティ)である

ロックスターはHMDや錯視の力を借りず、古来からの方法をゲームとしてアップデートすることで本当の意味での仮想現実、つまり読者とキャラクターの同化を成し遂げたのである

とはいえ、やはり毎度毎度、馬の鞍から武器を取り出すのは面倒くさい。しかしそれでいいのである。きっとアーサーも「面倒くせーな」と思いながら取り出しているからである。この段階ですでにプレーヤーとアーサーは同じことを感じている(同化している)と言えるのかもしれない

スクリーンショット


 Rockstar Gamesに乾杯

PS4でこれほどの表現ができるとは

例のキャンプ

いい顔のアーサー

サンドニの夜がとてつもなくきれい

イカした婆さんキャラクターが多い

たぶんいちばん美人のペネロペ嬢


2018年10月15日月曜日

デラシネ 予習セット

もしかしたらデラシネに関係するかもしれない作品群
まったく関連がない可能性も高い
電子書籍版がアマゾンで99円で買える(三冊まで)

トーマの心臓

トーマ・ヴェルナーの自殺から始まる物語。ただしトーマの自殺はプロローグであり、いわば劇外の出来事である

 本筋はシュロッターベッツ高等中学(ギムナジウム)におけるユリスモール・バイハン(ユーリ)を巡る物語である

 しかしながらトーマの死は劇中において絶対的な不合理として通奏低音のように流れ続け、学内に不穏な空気を醸しだし、さまざまな騒動を引き起こしていくこととなる

 例えるのならば、舞台の下(奈落)死体があることを知りつつ、舞台上で演技する俳優たちのようなものである

 彼らは平然と演技をしようにもやがて破綻することは必定である
 
 この緊張感がこの作品を名作たらしめているのであろう

 そもそもなぜ、トーマの死劇外にあるのか。

 アリストテレスは悲劇について次のようにいう

 しかし劇の出来事のなかにはいかなる不合理もあってはならない。それが避けられない場合には、ソポクレースの『オイディプース王』におけるように、悲劇の外におくべきである。(アリストテレース『詩学』60頁。岩波文庫)

 なぜかというとあまりに大きな恐怖に襲われると、人はおそれもあわれみの感情も持てないからだ(そのため既存作品の多くでも大きな恐怖、殺人や自殺は劇外に置かれる)(参考:アリストテレース『詩学』138頁 第6章 訳注3 岩波文庫)

 この『トーマの心臓』は悲劇作品の要諦を備えている物語であるといえるだろう
 
 一方、救いの物語でもある
 ただしこの救済に関して最大の疑問がある

 なぜキリスト教における最大の罪である「自殺」によってユーリが救われるのか
 
 わたしはここに宮沢賢治の思想との類似性を見いだすのである
 冒頭に記されるトーマの手紙には以下のような言葉が綴られている

 今 彼は死んでいるも同然だ
 そして彼を生かすために
 ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない

 わたしはこれを読んだとき、銀河鉄道の夜のあるセリフを想起した

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」(『銀河鉄道の夜』)

 言うなれば、自己犠牲による救済である

 この思想はさらにさかのぼれば、仏陀の本生譚(ジャータカ物語)にまで通じるであろう(捨身飼虎、あるいは自らの身を火に投じ、食料として捧げたウサギの話)

 ではトーマの心臓は仏教的な物語なのか、というとそうではない。新約聖書ローマの信徒への手紙には、アダムをキリストの予型として論じる節がある(5章12節)

 つまりアダム=キリストであり、「アダムは死し、キリストに生きる」という構図には、「死ぬことによって生きる」という思想が包含されている

このことは、新約聖書ヨハネによる福音書にも現われている。

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(新約聖書ヨハネによる福音書第12章24節)

 さて、最初の疑問に戻ろう。なぜトーマが死ぬことでユーリが救われるのか

 簡潔に言えば、トーマとユーリは魂を共有する同一存在として創造されている。同一と言っても完全に融合しているわけではない。彼らは光と影(金髪と黒髪)ひとつの魂を共有する双子的な存在として描かれているように思える

 双子の片割れであるユーリは神を棄てたことで翼を剥ぎ取られ、魂が死にかけている。その彼に翼を与えられるのは、トーマしかいないであろう。彼は自ら命を絶つことで、その翼をユーリに与えたのだ。魂の双子であるがゆえに、それは可能だったのだ

 一つの魂が「死ぬことによって生きた」のである(キリスト教においては再生、仏教においては見性という)

 タイトルのトーマの心臓とは、つまりユーリの心臓のことである。心臓とは「心」であり「魂」のことである。ユーリがそれを拒絶したのは、殺したはずの自分の魂トーマの心臓に見いだしたからであろう

 ユーリの「許し」がトーマを「救った」のは、その「許し」が自分自身のものであったからである。神を棄てたことを最も許せなかったのは、ユーリ自身であった。だが、その怒りは自己への執着そのものであって、その肥大した自我の醜さに気づいたとき、ユーリは自分自身を許し、世界と和解を果たしたのだ

 思春期特有の自分と世界との格闘を描いた作品と言えば『伊豆の踊子』があげられるであろうが、『トーマの心臓』もまたそれに匹敵する傑作であると断言できる


11月のギムナジウム(短編集)

11月のギムナジウム
 表題作の『11月のギムナジウム』は、トーマの心臓の原型ではなく、その後に再構成された作品。トーマの心臓が難しすぎたと思ったのか、小著ながらも分かりやすい作品となっている

 物語の構造は『トーマの心臓』と同一である
 やはりこの作品の背景というか、舞台の下には「悲劇的な死」が横たわっている。

 物語は瓜二つの二人の少年が、「悲劇的な死」に徐々に影響を受けていく構造となっている。
 よりわかりやすく、魂を共有した二人の少年双子となり、やがて「死によって生きる」こととなる


塔のある家
 一冊の古い本に住んでいる三人の妖精と少女の話
 少女の成長を妖精たちが見守るという形をとっているところが、デラシネと似ているかもしれない
 
『セーラ・ヒルの聖夜』
 悲劇的な死と、双子という『トーマの心臓』『11月のギムナジウム』と類似した構造を持つ物語
 こちらは男女の双子であり、舞台もギムナジウムではなく田舎の村である


ポーの一族

デラシネに登場する少女のキャラクターの参考になったのは、メリーベルリデルではないかと推測。トーマの心臓の寄宿舎は男子校であるし、ユーリには妹がいるが登場する機会がほとんどない。

 その点、メリーベルは登場する場面が多いうえに、性格も火防女的なところがある(人を誘う)。リデルはキャラクターとして強い個性があるし、語り部としても適している(フロム的な語り部)

 さて、ポーの一族はバンパネラと呼ばれる人の血を吸う者たちの時代を超えた物語だ
 ポーの村という故郷があるが、エドガーたちは帰れない。つまり故郷喪失者(デラシネ)である

 が、彼らが失ったのは地理的な故郷だけではない
 彼らは時間をも失っている 

 成長しないために、二年と同じ土地にいられず、そうして彼らは人の世界を根無し草(デラシネ)のようにさまよい続ける

 小鳥の巣と題された作品はギムナジウムが舞台で、やはりここでも一人の少年の死が学園生活にを落としている。『トーマの心臓』や『11月のギムナジウム』と類似した構造であるが、吸血鬼物としての完成度も高いのは脱帽である

 デラシネに関係ありそうな概念を抽出すると、「マザー・グース」「バラの花」「ギムナジウム」「時間」「永遠の人々」「双子」などが挙げられる

 あえて共通する構造を持ち出すとするのなら、「デラシネの舞台の下には、悲劇が横たわっている」というところだろうか

 何者かの、愛された少年の死。少年の死によって生きることになった存在。妖精とは、少年が魂になったものであろうか


 また花嫁にするために少女を育てているバンパネラが登場するが(それも二人も)、それをゲームにするとジャンルが変わってしまうので違うか

蛇足

デラシネと関連した話を書くはずが、萩尾望都作品の感想文のようなものになってしまった
 ポーの一族の項から軌道修正をしたが、しなかったらおそらくポーの一族がもっとも長い記事になっていたと思われる

2018年9月24日月曜日

Death Stranding 考察10 エジプト神話 TGS Trailer

エジプト神話はまったく詳しくないので浅い考察

建物

まずはエジプトと関係ない部分から
奥にある建物アールデコ様式のビル建築で、この様式のビルはかなり多い。あえて似ているのを探せば「エンパイアステートビル」である

しかしながら、ビルの背景には山塊が連なっているのが見える。「エンパイアステートビル」のあるニューヨークにはこれほど高い山脈はないので、単純に「エンパイアステートビル」であるとはいえない

ではアメリカの山に囲まれたような都市はどうだろう
シアトルやサンフランシスコ、バンクーバーなどいろいろ挙げられるが、カメラがノーマンから黄金仮面の男にパンする時に一瞬だけ映る巨大な山影に匹敵するような山はアメリカには無いように思える

黄金仮面の男がいる場所も、火星の表面のような荒れた土地であり、地球上とさえ考えにくいような荒涼とした場所

もしこれほどの山が隆起したのだとしたら、奥に見えるビルなどは跡形もなく消し飛んでいるだろう

ここで何が起きたのか、そもそもここはどこなのか?

完全なる推測だが、奥のビルはやはり「エンパイアステートビル」であろうと思う
だが、場所はニューヨークではない。ここは冥界や煉獄と称されるような場所なのだ

巨大な山脈が延々と続くような低温の山間部(イメージとしてはヒマラヤあたり)である。その煉獄へ、都市ごと転移したか落ちてきたのだ

おそらくアメリカ全土がバラバラになり、この時空へと転移してしまったのだ
そのようにして、エンパイアステートビルと山脈が合成したような風景が生まれたのである

赤ちゃん

左目をつむっているのは、セトとの闘争で左目を失うホルスを象徴していると思われる(セトとの闘争神話 wikipedia)
また、指を口にくわえるポーズは「子供のホルス」「ハルポクラテス」をあらわすと思われる(wikipedia ハルポクラテス)


赤ちゃん人形

片足がなく、左目をつむっている
エジプト神話において左目をつむった姿というのは、ホルス(wikipedia)を象徴し、片足がないのはセト(wikipedia)を象徴するものである。おそらく、オシリスとセトを象徴的に合体させた形象なのではないかと思われる

黄金仮面の男

では、黄金仮面の男トロイ・ベイカーは何者か
デル・トロのもつ赤ちゃんがホルスであり、それがノーマンに受け継がれたとすると、ノーマンはホルス側勢力だと思われる。また人形がマッツを示すのだとしたら、ホルスとセトとの闘争においてマッツは中立の立場を意味するのかもしれない

であるので、黄金仮面の男はセト側の勢力に属すると思われる

肩口のマークはファラオのマークだと思われる
このファラオのマークで最も有名なのがツタンカーメンであろう
このツタンカーメンの父は、アメンホテプ4世(wikipedia)であり、
多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた事が挙げられる。
という人物であるが、このアテン神は数多くの手を持った姿で描かれる

下エジプトはホルスを、上エジプトはセトを崇拝する傾向にあり、アテン神を崇拝するアメンホテプ4世が造ったアマルナ上エジプトに位置する。つまりセトの勢力圏にある

歴代王朝のファラオは、自身がオシリスとセト二人の最強神兄弟の相続人であり、セト(上エジプトの守護神)ホルス(下エジプトの守護神)、つまりは上下エジプトの地位の合体であるとして、その権威を民衆に誇示していた。(セト wikipedia)

セト・アニマル

 セトはまた多くの合成獣と結びつけられる神である
想像上の動物(合成獣)をわざわざ作ってセトに充てたとする説も存在する。この正体不明な動物を英語では「セト・アニマル」と呼ぶ。(セト wikipedia 外見の項)
またその咆哮はセトの声である
敗れたセトは、地上の世界を去り地下世界に隠遁した。地上には、雷の声として響くだけである。(セト wikipedia 登場神話の項)

リンゼイ・ワグナー

太陽を背負う女神、ということでおそらくハトホル(wikipedia)だと思われる

ハトホルはホルスの母とも妻ともいわれる女神であり、セトとホルストの闘争では、ホルスを治療し、また死者を冥界に導くという

オシリス

オシリスもまた殺されてバラバラにされる神である(wikipedia)。セトに殺されたオシリスは14の部位に分けられてエジプト中にばらまかれたという。

妻のイシスはバラバラになった夫の遺体を集めてオシリスを復活させようとする

このばら撒かれた「神の遺体」をノーマンは運んでいるのではないだろうか
もちろん「神の遺体」というのは象徴的な意味で、実際に神の肉体があるということではない

それはおそらく「神に等しい存在」「神に属性を受け継ぐ人」「神的な物質や生命」といった形で全米に散らばっているのではないだろうか




2018年9月18日火曜日

ゼノブレイド2 考察 終 金の瞳の一族

最初に言い訳をさせていただくと、ゼノブレイド2本編の記憶が薄れてきているうえに、DLCもコンプリートしていないため、いつも以上に雑である(何か根本的な錯誤をしている可能性が高い)


英雄アデルの物語

まず前提として、英雄アデルの物語はマルベーニが都合よく改ざん、脚色したものであるとする
英雄アデルの物語を利用し、世界を自分の望む方向へ誘導しようとしたのである

実際のアデルの物語はDLCをプレイすればわかるように、バッドエンドである
また、ミノチによるアデル劇は、現実があまりに悲劇的すぎた結末だったために、少しでもそれを和らげようと真実を隠蔽したものであろう


金の瞳の一族

さて、この考察の結論から述べさせてもらうと、
レックスは金の瞳の一族の末裔である
である

レックスは「どこにでもいる少年」ではなかったのか? という疑問を抱かれるかもしれないが、アルストにおいては「金の瞳をもつ人間」はどこにでもいる程度に多いのである。要するに程度問題になってくる。

例えば日本において「どこにでもいる少年」と言えば、黒髪に黒い瞳の少年を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、これが金髪碧眼の多い国、例えばドイツだったら事情が異なってくる。かの国においては「黒髪黒瞳の少年」は「どこにでもいる少年ではない

つまり、周囲の環境によって「どこにでもいる」の基準が変わってしまうのだ

そしてアルストでは「金色の瞳をもつ人間」は「どこにでもいる」程度に「多い」のである
(ルクスリア王、マルベーニ、マルベーニの母親、レックス、ラウラ、アデル等、珍しいとはいえないレベルに多い)

これら金色の瞳をもつ人間共通点としては「ブレイドと親和性が高い」というのが挙げられるだろう
天の聖杯と同調した人間は例外なく(といっても3人だけだが)金色の瞳を持っている(マルベーニ、アデル、レックス)
ある意味で、ブレイドと強い絆を結ぶことの出来る「印」あるいは「烙印」のようなものなのである

ではこの「金色の瞳」はどこからきたのか?

まずイーラ人ではないのは、作中のセリフから明らかである(イーラ人は碧眼)
また、インヴィディア人でもグーラ人でも、スペルビア人でもない

となると残りは一つである。「ユーディキウム」である(シヤに関しては情報が少ないので割愛)

このユーディキウムは作中において、マンイーター技術の発展した国とされている
マンイーター技術とは人とブレイドを細胞レベルで融合させた存在であるが、裏を返せばこれはブレイドイーター技術でもある
人とブレイドの細胞レベルでの融合」という点において、マンイーターもブレイドイーターもそう違いはないのだ

つまりユーディキウムにおいて、ブレイドイーターがすでに誕生していたとしても不思議ではない

人がブレイドを喰らう、おそらく喰われたブレイドは金色の瞳を持つブレイドだったはずだ
そうして人とブレイドの融合したブレイドイーターは、基体が人であるがゆえに、伴侶を得て子を作れただろう
生まれた子供は、ブレイドの血を四分の一受け継ぐクォーターであり、その完全優性遺伝により金色の瞳を発現したはずである

こうして誕生した金色の瞳をもつ一族は、祖先にブレイドがいるがためにブレイドとの高い親和性を発揮する一族となったのである

ここでもやはり「どこにでもいる少年」でなくなる気がするが、しかしながら「金色の瞳をもつ人間」は「どこにでもいる程度に多い」ので、やはり「どこにでもいる少年」と表現しても問題はないのである

やがて金の瞳の一族は世界中に広がっていった。血を受け継ぐ者は残らず金の瞳をも受け継ぐゆえに、その数はかなりの速度で増えていったと推測される。その時期はおそらく500年前の聖杯戦争のさらに遙か昔であろう(種族に関係なく子を成せたと思われる)

その血脈の果てに、どこにでもいる少年レックスが位置するのである

またレックスはイーラの血を引く少年でもある
エルピス霊洞がイーラ王家の霊廟であることが明かされるが、その扉が開く理由として、イーラの血を受け継いでいるとするのが、最もシンプルであろう(墓守を新たに登場させるのはオッカムの剃刀的にあまりよろしくない)

ここでも「どこにでもいる少年問題」が登場するが、イーラの血リベラリタスの住人ほぼすべてが受け継いでいると思われるので、リベラリタスにおいてはやはりレックスは「どこにでもいる少年」なのである

またレックスはアデルの血を引く少年でもある
レックスという名がラテン語で「王」を示すように、本作は貴種流離譚の一種であると考えるのが妥当であろう。イーラ本家ではなく、アデルをして「王」とするのは、ルクスリア王国アデルの末裔を名乗っている(偽称であるが)ためである。本来であれば正統な王は、レックスなのだ(アデルの妻が妊娠しているという作中の情報が何かの意味をもつのであれば、その血を受け継ぐのがレックスであるとするのがシンプルだと思われる)

ここでも「どこにでもいる少年問題」が登場するが、アデルの血は「何の力も持たない」ので、「どこにでもいる少年」の範疇を超えてはいないのである。また理屈上はレックスはルクスリアの正統な王位継承者であるが、実際はルクスリア自体アデルが関わっていないのでレックスとは無関係である。よって、「どこにでもいる少年」以外の何者でも無い

アデルが天の聖杯と同調できたのは「金の瞳」の力ゆえであり、アデル自身の力ではない。そして「金の瞳」をもつものは、アルストには「どこにでもいる」程度に多い

まとめると、レックスは、
1.金色の瞳の一族の末裔である(しかしながら金の瞳をもつ人間は「どこにでもいる」程度に多い
2.イーラの血を引く(しかしながら、リベラリタスの住人はほぼすべてイーラの血を引いているため、リベラリタスならば「どこにでもいる」程度の希少性しかない
3.アデルの血を引く(しかしながら、アデルの血は何の力も権利も有さない。よって「どこにでもいる少年」以上の力は持っていない

結論として、金の瞳の一族の血、イーラの血、アデルの血を受け継ぎながら、レックスは「どこにでもいる少年」以上の存在ではないのである


アデルの行方

第三の剣とホムラを封印した後、アデルはどこへ行ったのか

シンプルに考える+レックスがアデルの血を引いていると考えると、まずリベラリタスではない。レックスの両親はイーラの民族衣装を着ており、リベラリタスの風俗とは異なるし、その温暖な気候とはそぐわない。
また鎖国中のルクスリアではないグーラは温暖であり、隠れ住む場所もないことから可能性は低い。皇帝に統治され治安もわりとよさそうなスペルビアでもない

とすると、残るはインヴィディアである
なぜミノチがインヴィディアにいたのか、それはおそらくインヴィディアがマルベーニの目の届きにくい国だったからであろう。つまり身を隠すには最適の場所なのだ

ホムラを封印した後、アデルが隠遁するにふさわしい場所だと思われる
おそらくアデルはその際には妻子を伴っていたとであろうし、数少ないイーラの生き残りを引き連れてきたと考えてもおかしくはない

こうしてインヴィディアの辺境にアデルの村が隠れ里のように誕生したのである
ルクスリアと同じく、この村でもアデルの血筋は主家として続いていっただろう(ルクスリアと違いこっちは本物のアデルの末裔だが)

ところでミノチは一人の孤児を保護している。イオンである。このイオンもまた金の瞳を持つ人間である
ミノチがイオンをことさら大事にしているのは、イオンもまたアデルの血を引く可能性があるからだろう

500年も経つとアデル村とミノチの繋がりはほとんど消えかけていたと思われる。その折にアデル村は戦火に巻き込まれる。スペルビアとの小競り合いか、あるいはマルベーニの刺客か。

アデル村は壊滅し、アデル直系の血を引くレックスの両親は、イーラ王家にゆかりのあるリベラリタスを目指したのだろう

一方、アデルの血を引くが庶民であるイオンはそのまま孤児となり、ミノチに保護されたのだ(あるいはミノチはアデル村のことを覚えていて、だからこそ積極的に孤児を保護したのかもしれない)

およそ500年という時間は、人が歴史を忘れ、現実が神話になるのに充分な長さなのだろう
作中では史実と物語が同時に語られるので、英雄アデル物語や聖杯戦争の何が真実で何が嘘であるのかわからなくなってしまう
おそらくそれは作中の人物も同じことで、500年も経つといろいろ忘れたり、思い違いをしたりしているのだ(ということにしておく)


以上、ゼノブレイド2の考察終わり


蛇足

そもそもDLCは考察するつもりはなかったのだが、金色の瞳の謎がどうしても気になったので考えてみた次第である
レックスの出生については、最もシンプルでわかりやすい仮説を採ったが、私個人としてはレックスが特殊な血筋ゆえに活躍できた、とするのは本意ではない

しかしながら、特殊な血を受け継いでいないただの少年、とするにはエルピス霊洞の封印が解けたことやリベラリタス出身者として選ばれている時点で多少無理があるように思われる。よって様々な血を受け継ぎつつも、「どこにでもいる」程度の希少性しかもたない少年としてのレックスを想定してみたものである

ブレイドイーターが子を作れたという仮説に関しては、金の瞳の人間とブレイドとの特別な関係を鑑みると、そうなのではないかという妄想に近いものである。もともとブレイドとの絆を結びやすい金の瞳の種族がどこかにいた、という仮説のほうがよりシンプルであるが、ユーディキウムと絡めたかったのでブレイドイーター説を採用した次第である

極論すれば最もシンプルなのは、金の瞳に意味はなくレックスはただの少年である、とする説であろう

ただしこの場合、なぜレックスがアデルの紋章の封印を解けたのか、両親がイヤサキ村にやって来たのはなぜか、なぜありえない再同調が起きたのか、唐突に出てきたアデルの妻子の情報は何なのか、といった点について考えなくてはならず、かえって複雑になってしまう気がするのである

すべてを偶然とするのももちろん可能であるし充分に蓋然性が高いと思う
が、とりあえず自分は考察をそれほど深めようとは思わなかったので、とりあえず出てきた情報をすべて繋げてみた、という次第である





2018年9月14日金曜日

隻狼 『白猿伝』 SHADOWS DIE TWICE TGS Trailer

※発売前の考察です


前回は日本神話における猿に触れたが、ここでは怪異としての猿について書こうと思う

遠野物語には年を経て異常な力をもった猿の経立(ふつたち)の話がある

猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上につけておる故、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず。(『遠野物語』青空文庫

さて、猿の怪異は中国古代から、人をさらう山怪として登場する
基本的には、女性をさらい、危害を加えたり子供を生ませたりするが、最後は退治されて終わる、というのが話のパターンとなっている。さらに猿退治に犬が協力することが多い。

隻狼に登場するのは白い猿であるが、中国には『白猿伝』と呼ばれる物語が伝わっている
(岡本綺堂『中国怪奇小説集 白猿伝・其他』)

例によって若い女性をさらい子供を産ませるという異類婚姻譚である
少し異なるのは、『白猿伝』では最後に白猿の子供が生まれるが、この子供は異能の力をもつ特別な存在とされることだ
このように、『白猿伝』における白猿は、かなり神の要素を残していると思われる

また滝沢馬琴の『兎園小説』には、大山十郎なる侍が白猿に先祖伝来の貞宗の刀を盗られる、という話がある
隻狼の大猿が刀を所持(首を貫かれる形で)しているのは、あるいは刀を盗んだからかもしれない


白色

猿退治の物語は多いが、白い色の猿というのは『白猿伝』がもとになっているのではないかと思われる。その話の展開も結末も、日本各地にある猿退治の説話とほぼ同一である

唯一異なる点は、『白猿伝』の猿には神の要素が残っている、ということだろう
時代が下るにつれ、猿の怪異の神性が失われ、やがてただの化け物となっていく
この化け物の極まった形が、酒呑童子の説話であろう(酒に酔わせて殺すところも酷似している)


猿退治の構造

このように、猿退治の物語は基本的にその形が決まっている

1.女性猿の怪異にさらわれる
2.勇士をともない退治に向かう
3.の活躍によって猿は殺される

隻狼にあてはめると、猿は白い大猿であり、犬は隻狼である
さらに女性はあの赤い傘の女性か、まったく登場していない
そして、猿退治のモチーフをあえて採用するのならば、「勇士」が登場するはずであるが、葦名一心かおそらく死んでいる(刀の持ち主)。さらに『白猿伝』を踏襲するのなら、異能の力を有する白猿の子がいるはずである



2018年9月10日月曜日

隻狼 SHADOWS DIE TWICE TGS Trailer

龗神(おかみのかみ)

旗印に書かれた文字は「おかみ」と読み、これは淤加美神(Wikipedia)の『日本書紀』での表記である。竜神や水神ともいわれる「おかみのかみ」であるが、ポイントはその出生だと思われる。

この「おかみのかみ」は、火の神カグツチがイザナギに切り殺された際に生まれた神の一柱である。カグツチの各部位からは多くの神が生まれているが、この「おかみのかみ」は噴き出した「血」から誕生した神だ。

「狼よ、我がと共に生きてくれ」における「血」とは「神の血」を意味すると思われる。しかも血の主「火の神」である。ここにおいて、フロム特有の「血/炎」の同一視がまたも現れている。

つまり「狼よ、我がと共に生きてくれ」とは「狼よ、我がと共に生きてくれ」と同義であり、その炎とはカグツチの炎のことである

さて、カグツチはバラバラにされている。誰かが『どろろ』との類似点を上げていたように思うが、『どろろ』もまたバラバラにされた肉体を取り戻す話である(『MADARA』でもいいが)。『どろろ』もまた、というのは、隻狼もそれを踏襲している、つまりカグツチの分散した力を集めてゆく物語なのではないか、と思ったからだ。

ただし、神がバラバラにされる話は世界中の神話に頻出するものなので、『どろろ』が直接的なモチーフであるかはわからない。

さて、カグツチの体からは他にも多くの神が生まれている。登場するのがこの「おかみのかみ」だけとは考えにくい。というよりも、皇子自身がその神のうちの一柱なのではないだろうか。

こう考えると、皇子→火の神カグツチ→イザナギ(イザナミ)という血統が想定されるが、これは皇子の異能の力を説明するには充分だと思われる。

火の神の犠牲的創造ソウルシリーズを通したテーマであったように、今回もまた火の神の犠牲により生まれた異形の神々の物語なのではないか。

言うまでもないがこれらは単なる想像である

ラスボスはだれか

上記の神統譜、皇子→火の神カグツチ→イザナギが正しければ、ラスボスはイザナギの産んだ別系統の神の首領であろう。アマテラス大神である。

おおかみと読み、それが大神に通じることから、かつて狼は大神であった。だが、狼は神としての争いに敗れやがて忌まわしい獣の神にまで零落してしまった。

アマテラスイザナギ直系の神であるのに対し、カグツチイザナミの影響が濃い(イザナミの胎から誕生)。そのイザナミは死者の国へと去ってしまっている。彼女は死者の国から、人の生と死を支配しているが、要するに彼女自身は不死である。ゆえに、カグツチもまた不死の属性が濃い神と言える。そのカグツチから誕生した神々もまた、不死属性である。

カグツチの力を集めるためには、不死を殺す武器がいる。それが不死斬りである。そしてカグツチの力を結集させたあかつきには、一度敗れた相手である大神との戦いにのぞむのだろう

葦名の国

葦原中国(あしはらのかつくに wikipedia)を略して葦名の国なのかもしれない

五毒

中国には五毒という言葉があって、ヒキガエル、ムカデ、毒ヘビ、サソリ、クモをいうが、ボスの数にちょうどいいかもしれない。
ちなみに大猿は、普通のボスと系統が違う。たぶん猿田彦

その他

 城の地図かな?


密教の護摩壇だと思われる。左端に曼荼羅図

曼荼羅図
おそらく胎蔵曼荼羅(wikipedia)なのではないかと
密教系のやばいボスいそう。金星人とか


両爪の敵。顔からすると不死者?

皇子だと思うけど違うかも。ソウルシリーズにおける火防女的な女性かも 


赤いモヤモヤの正体はおそらく炎(血+炎) 


このボスはたぶん「蜘蛛」 

血というのは神の血でありカグツチの炎

大猿。猿田彦か 

お尻

肩についているキノコ状のなにか。冬虫夏草

首に大刀が刺さっている


蛇足

カグツチだとかイザナギだとか日本神話の名前を出したが、これは、それらの神がその名前のままで隻狼に登場するということではない。これらはフロム流の再解釈を経た姿で登場するはずである

よってここに登場させた神の名は、あくまで便宜上のものであり、日本神話に当てはめるなら、という前提条件がつく

たとえば火の神が登場するとして、それはまず間違いなくカグツチという名前ではない。そのうえ、その火の神が主神であることも考えられる。仏教や密教と混淆し、もっとインド的な神(アグニとか)、不動明王的な属性をもつ可能性もある