2021年2月2日火曜日

Bloodborne 考察42 月の落とし子エーブリエタース

前回のオドンの考察(モチーフ編伝承編では、オドンの正体がオーディンであること、その多面的な性格を受け継いでいること、エーブリエタースの父親がオドンであると考えられることなどを述べた



このうち「青ざめた月」としてのオドンとエーブリエタースの関係について考察したのがこの記事である



月の落とし子

月の落とし子とは宇宙の娘、エーブリエタースの「内部名」(Bloodborne WIki)である


星界からの使者は「月からの使者」であり、星の子らは「月の幼生」である


つまり内部的には、月は星界や宇宙と同一のものとして考えられているのである


さて、エーブリエタースは月の落とし子である。つまり、その父親は月であることになる


オドンの考察ではオドンには青ざめた月としての側面があると述べた


ここにオドン(月)→エーブリエタース(月の落とし子)という大いなる鎖が見出せるのである


また星界からの使者(月からの使者)をや星の子ら(月の幼生)もまた、オドンにより眷属となったものと考えられるのである


すなわち眷属とは「オドンの眷属」のことである


空仰ぐ星輪の幹となった苗床たちや失敗作たちもまた眷属である。


「苗床」

実験棟の患者、アデラインにもたらされたカレル

人ならぬ声、湿った音の囁きの表音であり

星の介添えたるあり方を啓示する


この契約にある者は、空仰ぐ星輪の幹となり

「苗床」として内に精霊を住まわせる

精霊は導き、更なる発見をもたらすだろう


、とはオドンのことである。オドンの介添え(世話人)である彼らは星の光を宿す精霊により苗床となり、その星の光の力ゆえに眷属となったのである


眷属とは、青い光(月光)としてのオドンの影響を受けた者たち、とも考えられる



ミコラーシュ

※この項は次項「ゴース」で反論するための仮説である

さて、月の名を持つ「メンシス学派」の主催者ミコラーシュが祈るのはゴースあるはゴスムである


ああ、ゴース、あるいはゴスム

我らの祈りが聞こえぬか

白痴のロマにそうしたように

我らに瞳を授けたまえ(ミコラーシュ)


祈っているのはゴースあるいはゴスムであって、月ではない


この矛盾は開発の初期段階において、エーブリエタースがゴースと呼ばれていたことに由来するものである


アルファバージョンを復元した動画によって、エーブリエタースの先触れが「ゴースの先触れ」という名前だったことが明らかになっている


つまりミコラーシュは現在のゴースに呼びかけているのではなく、開発の初期段階のゴース、すなわち今のエーブリエタースに呼びかけているのである


なぜならエーブリエタースは宇宙の娘であり、月の落とし子であり、その父親はオドンであり、その本性の1つは「メンシス(月)学派」が崇拝する「」だからである


また「あるいはゴスム(Kosm…)」は通説のように、Cosmosのことである(C→Kの変化はギリシャ語読み、あるいはチェコ語読みしたことによるものである)


Cosmosとは「Ebrietas, Daughter of the Cosmos」というように、そのまま宇宙のことである


そして宇宙は月と同一視されているのだから、その父は月であるオドンということになる


ミコラーシュの本意を汲み取って彼の祈りを翻訳するのならば、「ああ、エーブリエタース、あるいは宇宙」となるのである


さらにこれを内部名に沿って訳すのならば「ああ、月の落とし子、あるいは月」となり、最終的な形としては「ああ、オドンの落とし子、あるいはオドン」になるのである


ミコラーシュが祈っているのは、オドンの娘たるエーブリエタースと宇宙たるオドンなのである


要約するのならば、ミコラーシュの祈りに見える錯綜は、開発中の名前変更が引き越した混乱の残骸なのである



ゴース

ミコラーシュの不可解な言動を名前変更による混乱、と結論づけてもよいのだが、しかしミコラーシュの祈りを矛盾を抱えたまま残すとは考えにくい


本当にミコラーシュの祈りがゴース(現在の)に捧げられていると考えることは不可能なのだろうか


端的に言ってエーブリエタースとゴースは置換可能な存在である


両者ともにオドンの落とし子とも考えられるからである


双方とも深海生物的な上位者であり、そして共に大事なものを失っている。ゴースは赤子であり、エーブリエタースはおそらく嘆きの祭壇にある「ロマに似た甲虫」であろう


双方ともに酷似した姿をしているが、嘆きの祭壇の甲虫は月前の湖のロマよりも足が長いなど形態的な相違がある


ここで暗示されているのは、ロマに似た上位者の赤子を産むのは月の落とし子であること、その赤子は成体になれずに死ぬということである


ゴースとエーブリエタースは本作でもおなじみの構図を繰り返している。「赤子を奪われる母」の構図である


誕生した赤子の類似性から、ゴースとエーブリエタースは同じく宇宙の娘、すなわち月の落とし子であると考えられ、父親はやはりオドンである


また神話によくある話であるが、彼女たちの赤子の父親もオドンである(血が濃くなりすぎるが故に赤子は生まれなくなったのだろうか)


以上のようにエーブリエタースとゴースは置換可能であり、両者は共に月の落とし子であるが故に、ミコラーシュの祈りは、矛盾や開発中の混乱によるものではなく、正当なものである


つまり、ミコラーシュは正しく「今のゴース」に祈りを捧げているのである


なぜならそのゴースは「月の落とし子」であるが故に、ゴスム(Cosmos)と共に祈られているのであり、彼の祈りはまさしく「オドンの落とし子とオドン」に捧げられているからである


※そもそもエーブリエタースは聖歌隊の本尊である。ライバル会派の本尊に祈りを捧げるというのも不自然である



エーブリエタース

さて、上述の考察を取り入れるのならば、エーブリエタースは死んだ我が子の亡骸の前にひざまずき、空を見上げ星の徴を待ち望んでいることになる


彼女の祈りを成就させるような奇跡的な力を持つのは「宇宙」そのものともいえる「オドン」だけだからである


つまり、彼女は我が子の復活を願って祈っているのである。生きていた時の状態に戻そうと祈っているのである


しかしその祈り、つまり上位者の祈りが何を引き起こしたかというと


時間を巻き戻す力を亡骸に与えたのである



死んだ子の時間は巻き戻されず、その力を行使する聖体となってしまったのは皮肉なことである


エーブリエタースは非常に醜い姿をしている。だがその祈りは心からのもので、宇宙はその美しさに一片の奇跡を持って応えたのであろう


結局のところ、私が使用する創造的なエネルギーを提供するのはこれらのものです。たとえば、心からの祈りの美しさ。それは私にインスピレーションを与えるようなものです。ですから、Bloodborneに見られるもの、つまり陰気さ、救いの欠如、狂気などは、私自身のやり方でそれらも尊敬していると思います。そこには美しいものがあります。(インタビューより)



蛇足

没データの扱い方についてはいつも悩む

本編に採用されなかった没データを考察の根拠として利用するのは間違いとするべきなのか、あるいは設定はそのままだが諸事情により(表現が直接的すぎなど)封印したと判断するのか、その基準が曖昧だからである

今回もまたエーブリエタースが元々ゴースという名前であったという没設定から論を展開したものである

没設定から考えるのならばミコラーシュの祈りは、設定が没になったことで整合性がとれなくなった典型、と言えるものである

しかし、そこからさらに一歩考えを進めてみると、ミコラーシュが実は正しいことを言っていたのではないか、という結論にたどり着いた

ミコラーシュのセリフは本編の伝承によっても解釈できるものであり、それは設定変更による矛盾の残滓ではないのである(これも解釈しだいだが)


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