注連縄の種類
注連縄は「巻き方」や「向き」によっていくつかに分類できる(Wikipedia)巻き方には「左綯(な)え」と「右綯え」の二種類があり、左綯えは火や男神を表わし、右綯えは水や女神を表わすとされる
向きに関しては一般的に右から「綯い始め」、左側に「綯い終わり」が来る形が多い。ただし出雲大社は左から綯い始め、右に綯い終わりが来る形となっている
左は出雲大社の注連縄。右はそれを左右反転したもの |
向きの差異は聖なる方角を左と右、どちらにするかによる。聖なる領域が右であるのなら、右本左末となる
形状は上記のほかに、ゴボウ締めや、輪飾りなどいろいろな種類がある
SEKIRO
SEKIROにおいては、各所に注連縄が見られる※画像はいちおうの資料として載せたものであり、映っている注連縄も小さかったりするので、すべて見る必要はない(下の方に「考察」がある)
落ち谷
落ち谷方面は左綯えと右綯えが混在している左綯え
小さな祠や谷間に張られた細い注連縄などは「左綯え」が多い
拝殿正面 |
付近にある小さな祠 |
白蛇の社・拝殿内部 |
谷落ちの洞窟 |
落ち谷・鉄砲砦の床下 |
落ち谷奥廊下 |
落ち谷奥廊下 |
右綯え
逆に白蛇の社の本殿や、奥廊下手前の湖、菩薩谷などは「右綯え」が目立つ白蛇の社・本殿 |
白蛇の社・拝殿・水瓶 |
菩薩谷 |
落ち谷 |
葦名の底方面
水生村入り口に張られた注連縄は右綯えであるまた、岩戸の入り口や大きめの社なども右綯えで揃っている
岩戸手前の広場入り口 |
社上部 |
社下部 |
例外は小さめの祠で、なぜか左綯えと右綯えが双方とも張られている
神主の家ならびに神主が体に巻き付けている注連縄は右綯えである
神主の家 |
神主 |
毀損された仏像の前に張られた注連縄も右綯いである
また屋根裏全体に張られたものも右綯えである
ただし、小さな社を囲うのは左綯えの注連縄である
葦名城
御子の間の注連縄は右綯えである武者侍り先にある竜の像の注連縄は左綯えである
源の宮
注連縄ロボは、右手が右綯え、左手が左綯えとなっている左手 |
神域の最も近くに張られた注連縄は右綯えである
その外側にあるものは左綯えとなっている
考察
基本的にどの地域においても「右綯え」と「左綯え」は混在している。ただしその比率が、水に関係する領域もしくは神域に近づくにつれて、「水」を意味する「右綯え」が増えてくる印象がある白蛇の本殿
白蛇の本殿を囲う「右綯え」の注連縄は、そこに祀られているのが「水の女神」であることを示し、その拝殿に張られた「左綯え」の注連縄は、そこに祀られているのが「火の男神」であることを示しているこの場合、拝殿と本殿の間を通り抜けるであろう「白蛇」が「火の男神」となるだろうか。「水」を象徴するような「蛇」が「火の神」であることにはやや違和感が残る
しかしながら白蛇を崇拝するのが「石火矢」を使う落ち谷衆ならびに蛇の目であること、また五行思想においては蛇(巳)は「火」に割り当てられていることから、白蛇は「火」に属するものなのかもしれない
白蛇=火の神であると考えると「淤加美一族」が分裂した理由が分かる気がする
つまり「淤加美一族」は、水神側と火神側に別れたのである。水神を崇拝する勢力は「水の聖地」である源の宮を目指し、火の神を祀る勢力は落ち谷に残り「火の技術」(製鉄、火薬、石火矢)を磨きあげたのだ
御子の間
では水の女神とは何者か御子の間には右綯えの注連縄が張られている。このことは、竜胤の御子が「水」に属すことを意味している。「男性」でないのは、「御子」がまだ性別未分の年齢であるからである(水の女神=御子といっているわけではない)
継嗣である竜胤の御子が「水」であるのだから、その親にあたる桜竜もまた「水」に属するものであろう(正確には「木と水」という性質が共存している。このうちの「水」の部分が「竜胤の御子」である)
竜胤の御子となった桜竜の水とは、「竜胤」という言葉からも分かるように「竜の血」のことである
ブラッドボーンで血と炎が同一視(マリアのあれとか)されていたように、SEKIROでは血と水が同じものとして扱われている
話の筋がやや逸れたが、要するに「水」は桜竜に関連付けられているのである
であるのならば、桜竜は水の女神か。その説も悪くはないが、水を司る神的な者という意味で「巫女」を推したい。こうした水の巫女としてのありようは、古代日本における「みつはのめ」(水の女神であり、その古い姿は水を司る巫女)と類似している
またいつだったか、この巫女は菩薩谷の赤子を抱く観音像のモデルかもしれない、という考察をしたことがある
巫女が元揺り籠だったにせよ、神の嫁だったにせよ、そこには「神の御子を生む水の巫女」という観念が見られ、菩薩谷の観音像とイメージが重なるのである
水生村
水生村の「左綯え、右綯え」の注連縄が同時に張られた小さな祠はかなり示唆的である。水生村が「神道」と「仏教」の闘争と混淆の場であるように、注連縄の勢力においても「水と火」の対立構造あるいは共存関係が見受けられるのであるこの水生村において「水と火」は何を象徴するのかというと、神道と仏教(密教)である。水による清めを重視する神道と、太陽を象徴する大日如来を本尊する仏教(密教)である
SEKIROの世界においては、神道は霧ごもりの貴人と神主として象徴される。また仏教(密教)は仙峯寺の死なずの求道者と化した僧侶に置き換えられている
白蛇の社と水生村の例でわかるように、SEKIROではある一つの象徴物に複数の意味を持たせている
「火」は仏の火であり(鬼仏に触れたとき青い炎が上がる)、火薬などの実際の火であり、白蛇である
同様に「水」は神の血(竜胤)であり、実際の水(源の水)であり、水神たる巫女(あるいは桜竜)である
蟲
では蟲とは何か。端的に言って、神道の「穢れ」が仏教にとっての「蟲」なのである蟲が不死をもたらすように、ミヤコビトにできる「瘤(穢れ)」は「死なず病」によって生まれる
穢れと蟲はどちらも「不死」に関係するのである
そして穢れと蟲とは、ある象徴物の別々の側面である
その象徴物とはつまり「血の淀み」である
桜竜の血の淀みが、桜竜の体では「蟲」として形を成し、ミヤコビトの体では「瘤」として形を成したのである。そして蟲は「死なず病の瘤」が流されるように、仙峯上人へ下賜されたのである
竜咳を引き起こすとされる「血の淀み」。これが人間ではなく神に発生すると、やがてそれは「瘤」や「蟲」となり、現世へ放たれるのである
そして神なる竜に血の淀みを引き起こさせるものとは、人間性の淀みより生まれる「闇」である(ダークソウルシリーズでは神族は闇に弱い)
血の淀み
※この項はダークソウルシリーズをプレイしていないとわかりにくいかもしれない
ダークソウルシリーズで光が陰ると不死が現われるのは、光が生の力そのものだからである。光の陰りをもたらすのは光の不在、「闇」であり、光の不在とは生の力の不在、「不死」である
そして闇とは人間性が淀むことにより生まれ出るのである(→マヌスの深淵)
世界を更新するために「火継ぎ」が必要なのは、ソウルが「光」を内包しており、そのソウルを燃焼させることで生まれる強い光が闇を退けるからである
要するにソウルとは「光/生」の性質を持つのであり、ソウルの不在とは「光/生を失ったソウル」つまり「闇/不死のソウル=ダークソウル」なのである
人間性の淀みより発生するこの闇のソウルから、呪いや蟲、瘤という「不死」が生まれ出るのである
流れとしては以下のようなものである
人間性の淀み→闇→不死(呪い、蟲、瘤)、闇の落とし子
蛇足
注連縄の話からなぜか「ダークソウル」にまで話が逸れてしまった「淀みから生まれる不死」の話は考察31 ストーリーでも触れたが、この考察はそれをSEKIRO側から概括したものになるだろうか(かなり変更・修正が入っているが)
血の淀みは、生物にできるガン細胞によく似ている。ガン細胞は基本的に不死である。栄養が供給され続けるかぎり、死なないのである。だが、ガン細胞に体を蝕まれた人間はやがて死ぬ。(不死化したガン細胞「HeLa細胞」 wikipedia)
桜竜や人間のうちに発生した血の淀みは、たとえ「捨てられ、流され、下賜され」たとしても死ぬことはなく、やがてそれは姿を成して「瘤」や「蟲」、あるいは「呪い」となるのであろう
つまり虫憑きとは人間ががん細胞に乗っ取られた状態にたとえられる...とかですか?
返信削除仙峯上人が賜わった経緯からすると、蟲は神の体内で「血の淀み」から発生したと思われます。神の体ですからがん細胞というより、一種の生命体として発生したのかなと思っています。がん細胞は不死のミヤコビトとその「瘤」、ですかね
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