不死断ちと人返り
私見では「人返り」は「不死断ち」の上位にあり、「不死断ち」の完全な形が「人返り」であるこれは「桜竜の涙」に加えて常桜の花を入手しなければならないことや、その過程で何体ものボスを倒さなければならないこと、また重要キャラクターであるエマや仏師の深い関わり等から推察することができる
各エンディングをあえてカテゴライズするのならば、以下のようなものになる(※便宜的なものであり、強く主張する気は無い)
【竜の帰郷】True End - 神なる竜と隻狼の物語
【人返り】Good End - 九郎と隻狼の物語
【不死断ち】Normal End - 九郎と隻狼の物語
【修羅】Bad End - 修羅と隻狼の物語
このうち、「九郎と隻狼の物語」と言えるのが人返りと不死断ちである。竜の帰郷は「神なる竜(としての九郎)と隻狼の物語」であり、ゆえにエンディングで「竜の忍び」と呼ばれるのである
人返り
さて前置きが長くなったが、本題に入ろう人返りエンディングを迎えるためには、「桜竜の涙」と「常桜の花」が必要である
なぜ涙と花が必要なのか物語内では明かされない。ただそれが必要であるからという理由で桜竜の涙と常桜の花を追い求め、それを九郎に飲ませるのである。結果として主を縛る不死である隻狼は自刃し、九郎は人に返ることができたのである
桜竜の涙
ではまず桜竜の涙から考察してみよう画像やテキストからもわかるように、「涙」といってもその形状は「石」や「結晶」に近いものである
また「常しえ」と言われているが、これは神の属性のひとつである
桜竜の涙
桜竜のその身は常しえ
一度流れた涙もまた、形を保ち
常しえに乾くことはない
源の瑠璃
源の瑠璃には、常しえがある
瑠璃で鍛えたものとは、
常しえに砕けることも、錆びることも無い
神なる竜の恩寵を受けるがゆえだ
神や神の恩寵を受けるもの、あるいは神に等しいようなものは「常しえ」なのである
常しえとは、半永久的に変化しないもの、要するに「永遠性」のことである。神という概念は永遠性とつながり、永遠だからこそ神なのである
※永遠性を生物学的な用語に置き換えると「長命」となろうか
常桜の花
ひるがえって常桜の花はどうか人返りルートで判明するように、常桜はその名に反して枝を手折られただけで枯れ果ててしまう。これでは「常しえ」とは言えない
常桜が常と呼ばれるのは「春に限らず、常しえに咲いていた」(エマ)からであり、その身が常しえであるからではない
※SEKIROに登場する「常しえ」には二種類ある。神の永遠性による「常しえ」と、竜咳に至るような、他者の犠牲の上に成り立つ「常しえ」である(厳密には九郎や桜竜も後者)
また手折られた枝についていた花も、三年も経つと枯れ落ちてしまっている
ここで「花」は散りゆく儚いもの、か弱きものの象徴として提示されている
「花」は豊穣や繁栄を示すと同時に、その脆弱性や短命を象徴するのである
石と花
永遠性(長命)を象徴する石と、繁栄や短命を象徴する花の組み合わせは、日本神話にその前例が存在するイワナガヒメとコノハナノサクヤビメの神話である
簡単にまとめると以下のような神話である
アマテラスの孫である「ニニギノミコト」が日本に降臨した際に、山の神から二人の娘を嫁に差し出される。ところが、ニニギノミコトはイワナガヒメが醜いことを理由に、彼女だけを送り返してしまう
山の神の言い分は、岩の女神であるイワナガヒメが永遠性を、花の女神であるコノハナノサクヤビメが繁栄を天孫にもたらすはずであった
だがイワナガヒメだけを送り返してしまったことで、天孫の永遠性は損なわれ、それ以来、天孫の寿命は人のように短くなったという
神話学的には人の寿命や死を説明する「バナナ型神話(wikipedia)」に属する神話である
桜竜の涙と常桜の花
では、SEKIROにおいて涙(石)と花はどういった役割を果たしたのか桜竜の涙とは、それが「常しえ」であるように神の属性を帯びている。また液体でありながら結晶状の様態を有する性質は「竜胤の雫」と酷似している
「拝涙」という儀式の存在や、竜胤の雫が「生の力」を秘めていたように、桜竜の涙もまたそれに比類した「何らかの力」を秘めていると考えることができる
竜胤の雫が「人が、人として生きるための当たり前の力」(エマ)であるように、桜竜の涙も「神が、神として生きるための当たり前の力」、つまり「神の生の力」を秘めているのである
神の生の力とは、神を神とする力、つまり「神魂」である
荒魂と和魂
竜の帰郷ルートでは、「生の蛇柿」と「乾き蛇柿」の二つのアイテムを入手する必要がある。蛇柿とは「神たる御魂を宿す臓」(生の蛇柿)であり、それが二つ必要なのは「神たる御魂」が二つ存在するからであると考えられる二つの神魂とは、桜竜と竜胤の御子のことであり、その二柱の神は「荒魂と和魂」という神の霊の二つの側面なのである(荒魂 wikipedia)
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。(wikipedia)
和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。(wikipedia)また、単に同一の神の二つの側面というだけでなく、別々の神として祀られている例も多い
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮、豊受大神宮の多賀宮といったように、別に祀られていたりすることもある。(wikipedia)
桜竜を荒魂、九郎を和魂と見るとその個性・性質がぴたりと合うのは偶然ではない
不死断ちEND
竜胤の御子が桜竜の涙を飲むということは、和魂である御子と荒魂である桜竜が一体化することであり、その結果として和魂と荒魂とが再統合された完全体の神が顕現するのであるこの完全なる神を不死斬りにより断てば、当然ながら神はそのすべての力と共に「消滅」する
これが「不死断ちEND」である
人返りEND
では神となった御子に、もうひとつ常桜の花を与えるとどうなるか永遠なる神は、神の属性である永遠性を剥ぎ取られ、定命の者となるのである。つまり、永遠であった神は寿命を有する「人に成る」のである
寿命を持たない永遠なる神に、儚さや短命を象徴する「花」を与えることで、寿命を持つ人に返す儀式、これが「人返り」なのである
「私も、人として懸命に生き そして、死のうと思います」(九郎)
人返りエンディングで九郎が口にするセリフである。ここには、不死の神から死ぬことのできる人間に成れたことへの感慨がこめられている
※おそらく九郎も桜竜も神の半身のような状態であり、完全な常しえを備えているわけではないと思われる
※「花」の効果を得るためには完全な常しえが必須だったのであり、そのために「花」だけではなく「涙」も必要とされたのだ(九郎や桜竜が花だけ飲んでも人に返ることはできない。完全な常しえを得るためには二者の統合が必要だった)
※完全な常しえであるのは、桜竜の涙を飲んだ状態の九郎だけであると考えられる
主を縛る不死
だが、不死の契りを交わした従者がいるかぎり、人返りは不完全であるという「竜胤の血を受けた不死は、その主を縛る」(人返りルート、エマ)
竜胤がその持ち主と強いつながりを持つのは、「桜雫」を使用し回生の回数を増やした際の会話からわかる
九郎:丈様の竜胤もまた…
そなたと共に、生きるのだ
桜竜の涙と常桜の花を飲むという「人返り」によって、神は人となった。けれども、九郎の竜胤が残っているかぎり、神の力はこの世界にとどまり続ける
上述したように九郎は神の「和魂」と考えられ、その血もまた「常しえ」であることから神に属するものである(これは竜胤の御子が傷つかないことからわかる)
ある意味で竜胤の血とは、九郎から分け与えられた神魂の欠片(あるいは飛沫)といえる
飛沫とはいえ、それは「神」であることにかわりなく、「あるべきでないものがあるがゆえ」(変若の御子)に、歪んだ生命を生み出す存在のままである
そのうえ「竜胤の血」はその本来の持ち主(九郎や丈)と強いつながりを持つ(魂の飛沫と考えると強いつながりを持つ理由がわかる)
九郎の神魂が隻狼の中に残っているかぎり、九郎は完全には人には戻れず、神としての自分に縛られることとなる
ゆえに、最後に残った竜胤の血をも断たねばならない。それには竜胤の血を受けた不死、つまり隻狼が死ななければならなかったのである
そうすることではじめて、九郎ならびに世界から「神なる竜」の力を完全に消滅させることができるのである
※ちなみに隻狼が常桜の花を飲むという手段は無効だと思われる。なぜならば隻狼は、それ自身が永遠である神ではなく、常桜的な不死(偽りの常しえ)だからだ
※竜胤の力は常に九郎という神を介して発揮されるがゆえに主を縛るのであり、その従者の不死は「神の永遠性」による不死ではなく、竜咳に至るような、他者の犠牲の上になりたつ「偽りの常しえ」である。ゆえに「永遠性に寿命をもたらす花」を飲んだところで、人に戻るわけではないのである
蛇足
ややこしい「常しえ」関連の補足を入れるために、やや冗長になってしまった基本的に葦名にある「常しえ」は偽りである。桜竜や竜胤の御子の常しえは、やがて歪みを生み竜咳を生みだす
結局のところそれは、神が「あるべきでない場所にある」のが原因である
神を消滅させるためには、分かたれた二つの魂を統合させた後に不死斬りでそれを断つか、寿命を象徴する「花」を飲ませることで、神を人にするしか方法がなかったのだと思われる
「不死は主を縛る」に関しても特にこれと言った説明はなく、なぜそうなるのかを考えていたら、かなり迂遠な論になってしまった
一応の理屈はつけてみたものの、「主を縛る」を説明する明確な理由や理屈には至っていない
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