2017年4月21日金曜日

ダークソウルの手法について2 作者の死

手法については以前「ダークソウルの手法について」でいろいろ書いた
ロスリック王家の構造がイギリス史上の「エドワード懺悔王(証聖王)」と類似しているとか、クリエムヒルトとグンダが『ニーベルゲンの指輪』に登場する等々。

それ以前にも「グウィンという名前について」という記事で、グウィンやサリヴァーン、ロイド、アルトリウス、グウィネヴィアなどの語源を明らかにしたこともある

今ちょうど考察スレに「フィリアノールと小人の王たち=白雪姫と七人の小人」の一致が挙がっているが、おお、となった
眠る姫と小人という要素から白雪姫というストーリーを思い浮かばなかった自分の迂闊さをののしってやりたい

そのうえハーラルド騎士のソースコード上の名がマヌスであるという
白木の弓のテキストからウーラシールが輪の国と交流があったことがうかがえるが、マヌスの意思によるものだったという可能性も示唆される

ここで一つ疑問が思い浮かぶ
ウーラシールは魔術の国であり、マヌス自身も魔術師であった
騎士の要素などないではないか? 

いや、あるのだ。かの騎士の中の騎士アルトリウスである
つまりハーラルド騎士とは、ハーラルド騎士団が深淵に取り込まれて生まれた、アルトリウスの義兄弟のようなものである
強いはずだ

そしてハーラルドは、映画「白雪姫と七人の小人たち」の監督の名でもあるという
だからマヌスは小人の王たちの父であり、マヌスは恋人と再会できない恐怖にとらわれている云々
映画のヒロインはいわば「監督の恋人」のようなものであり「娘」のようなものでもあるこの「構造」を見事に表しているではないか

と、このように様々に考察が展開できるかもしれない

ただ、なんというか製作者が便宜上つけた名をもとに、創作物の重要なストーリー部分を解釈していいのかどうか、いつも悩むところである

要するにマヌスとは、「深淵に取り込まれた者だからマヌスにしとこう」という開発上の便宜的な理由からつけられた名であって、実際の「深淵の主マヌス」と関係があるのかわからないのである

自分で言っといてなんだが、映画監督の名との「構造的関係性」なんて、なんというか一種のうさん臭い精神分析的な印象すら受ける

ハーラルドは監督の名だ、という指摘には私自身は肯定も否定もできないのである。それがわかるのは製作者側だけだからだ

というわけで、私自身は最近はこうした方法を取らなくなってきている

作者の死
ロラン・バルトの言葉に「作者の死」というものがある
ウィキペディアから引用すると
バルトの仕事の中でも頻繁に議論されるのが、『物語の構造分析』に収録されている「作者の死」である。本稿でバルトは、現代においても、大きな支配的な概念となっている「作者」という概念に疑問を投げかける。私たちは、ある芸術作品を鑑賞するとき、その作品の説明をその作品を生み出した作者に求めがちである。これは、作品を鑑賞するということは、作者の意図を正確に理解することであるという発想である。このことから、たとえばボードレールの作品はボードレールという人間の挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気であるという発想が導き出せる。しかし、バルトは、この発想を「打ち明け話である」として批判する。このように作者=神という発想ではなく、作品とはさまざまなものが引用された織物のような物であり、それを解くのは読者であるとして、芸術作品に対してこれまで受動的なイメージしかなかった受信者の側の創造的な側面を本稿で強調した。この概念は、後年のバルトの作品でもよく言及されている。たとえば、『テクストの快楽』においても、この概念についての論考が見られる(『テクストの快楽』p120)

要するに、ダークソウルというゲーム上に示された情報からストーリを解くことと、プログラムソースや元ネタをも含めて「作者の意図」を追求することとは別のことであり、ロラン・バルトは後者の方法を受動的として批判している

私自身もロラン・バルトの意見に賛同しているし、最近では元ネタにはあえて触れないようにしている

例えば阿部謹也さんの著作を読んでいると章題が「鐘の音でつながる世界(うろ覚え)」だったりゲートルードが出てきたりしてにやりとすることがある。だが、これがダークソウルのあれの元ネタなんだ、と強く主張することはない

ほかにも例えばブラッドボーンには「穢れ」という概念が登場するが、『ケガレ』を著した波平恵美子氏の論文に『水死体をエビス神として祀る信仰―その意味と解釈』というものがある。これをゴースの遺子(とそのマップ構造)の元ネタだろうと主張することも可能だろうが、するつもりはない(参考程度に触れるかもしれないが)

まとめ
紆余曲折して無駄に長くなったが、要するにもっと自由に考察してもいいのではないか、ということだ
ダークソウルはゲームなのだから、ゲームをプレイしたときの印象もテキストと同様に大切にしなければならないのではないか
あまり元ネタ探し、プログラムコード漁りに血道をあげても、それは作者の意図を理解するには適正かもしれないが、ダークソウルというゲームの考察としては、不十分なのかもしれない
以上


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