貪食ドラゴンはゲーム内テキストよりも、ゲーム外のインタビューの方が情報が濃い
まずはゲーム内の情報をまとめてみたいと思う
ゲーム内
貪食ドラゴンに触れられているのは次の2カ所である
竜王の大斧
異形となった朽ちぬ古竜の子孫
貪食ドラゴンの尾から生まれた武器
希少なドラゴンウェポンの1つ
強い神秘の力を帯びており
両手使いでその力が解放される
病み村の鍵
貪食ドラゴンが飲み込んでいた
不死街最下層から病み村にいたる扉の鍵
少しよだれまみれだが、大丈夫
病み村はその名のとおり疫病者の村であり
不潔極まる最下層の住人たちでさえ近づかず
頑丈な扉を作り、これを固く閉ざしていた
これらから分かるのは、貪食ドラゴンは朽ちぬ古竜の子孫であり、病み村の鍵を飲み込んでいた、ということだけである
また名前が貪食というだけあって、最下層に流れてきたものを貪欲に喰らうドラゴンなのだろう、ということも推察できる
インタビュー
インタビューによれば、貪食ドラゴンは宮崎英高氏のお気に入りということである
古竜とは生命が生まれる以前からある超越的存在であるが、現在生き残っている個体は生命の毒に侵されているという
この生命の毒とは感情や業といったものであるという
生命の業である「食欲」(食べなければ死ぬ)に侵された古竜の生き残り、それが貪食ドラゴンなのである
本来は超越的な存在であるドラゴンが食欲に侵されたことで、超越性を奪われ、矮小化し、退化し、惨めな(憐れな)姿となったのである
生命の毒
ここで朽ちぬ古竜を侵す「生命の毒」とは何なのか、という疑問が生じる
宮崎英高氏はそれを感情や業と表現していることから、生理学的な毒ではなく、存在そのものを蝕むような概念的な毒であろう
超越的な存在にとって、生命の営みに付随する感情や業は超越性を貶める毒であり、その毒に侵されてしまえば朽ちぬ古竜とて朽ちる者に堕する劇毒なのである
※毒に侵された貪食ドラゴンは倒せるが、灰の湖にいる古竜は倒せない
この生命の毒とは最初の火が灯ったことで生じたものである
だが、いつかはじめての火がおこり
火と共に差異がもたらされた
熱と冷たさと
生と死と
そして、光と闇と(オープニングより)
宮崎英高氏ははじめての火のことを、物理現象としての火ではなく概念的なものであると述べている(「ゲームの食卓」あるいは「ゲームの大晩餐会」)
その火が消えたとしても、世界を照らす明かりとしての火が消えるわけではなく、概念としての火が消えるという
概念としての火が消えるとはどういうことであろうか
たとえばDS3の「火継ぎの終わりEND」において火継ぎの火は消されるが、やがて火は再び灯るという
火が消されることは何を意味し、またなぜ再び火がおきるのか
以下はインタビューで語られた貪食ドラゴンの情報から解釈した筆者なりの考察である
ニルヴァーナ
ニルヴァーナ(Nirvana、涅槃)は再生の輪廻から解放された状態のことをいう
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと(wikipedia)
サンスクリット語のNirvanaには「吹き飛ばされた、また消された、消滅した」という意味がある
このうちニルヴァ(Nirva)は「吹き消える」という動詞であるが、他動詞ではなく、「炎が立たなくなる」ことを表す
つまり、命の火が消滅することで心が抑制され、人はニルヴァーナの境地にいたることができるのである
※ヒンドゥー教においては、Nirvanaはそのまま「生命の炎の消滅」を意味する
つまり火継ぎの終わりとは生命の炎が消滅したことを表し、あらゆる存在が生命の毒から解放された、すなわち再生の輪廻から解き放たれて永遠の平安を得たことを表現したエンディングと解釈できる
仏教
仏教においてニルヴァーナとは、「あらゆる煩悩を滅尽し悟りの智慧を完成した境地」のことをいう
煩悩は煩悩の炎のように炎として表現されるほか、煩悩の根本には「三毒」があるという
三毒とは貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴であるという(Wikipedia)
三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである
つまり生命とは本来的に煩悩の「毒に侵された」存在なのである
貪食ドラゴンとは、超越的な古竜が煩悩(食欲)という毒に侵されたことで、その煩悩に相応しい形態に変異したものである
煩悩こそが、生命の毒であり、感情であり、業なのである
灰の湖にいる古竜が尻尾を切られても怒らないのは、怒りという感情を持たないからであろう(怒りは煩悩のひとつ瞋恚)
ロンドールの黒教会
闇の王エンドは人類側のエンディングというようなことを宮崎氏が言っていた記憶がある(記憶が曖昧で間違っているかも知れない)
なぜ闇の王になることが人類に相応しいエンディングなのかというと、煩悩に塗れた人類にとって火を簒奪する、すなわちすべての煩悩に執着することは本性的に自然だからである
ロンドールの黒教会が火を簒奪し、あるべき人の姿である亡者にもたらそうとしたのは、煩悩の炎を宿すことが人間のありようとして自然だからである(それが例え醜かろうとも)
亡者があるべき人の姿とされるのは、生命すらを失った亡者はありとあらゆるものを希求し、執着するようなもっとも人間らしい存在だからである
その果てに苦しみしかなかったとしても執着せずにいられないのが人間であり、火に惹かれる生命の宿業なのである
火継ぎの終わり
火継ぎの終わりとは、こうした生命の宿業から解き放たれ平安を得る、すなわちニルヴァーナに到達するエンディングであることは上で述べた
しかし生命が生命である限り、煩悩の炎はいつか再びおこるものである
…そして、いつかきっと暗闇に、小さな火たちが現れます。王たちの継いだ残り火が(火防女DS3)
そのとき生命は再び煩悩という毒に侵され、世界には苦しみがもたらされるのである
結局のところはじまりの火がもたらしたものは、苦しみでしかなかった
それは超越的な存在でさえ侵し、苦しめ、狂わせる劇毒なのである
この劇毒のうち特に人のものを「人間性」という
人間性とは人間の本性そのものであり、感情や業といった人の煩悩を具象化したものである
人が受け継いだ闇のソウルがその本質である
※闇と闇のソウルは異なる。闇は本来的に暗く静謐なもの(闇の大剣)である。ソウルは生命すべての源であるから、闇のソウルとは生命(煩悩)の宿った歪んだ闇となる
追う者たち
古い魔術を元に生み出された上位の闇術
生み出された闇は意思を持つかのように
目標を追い続ける
それは何かの情念の塊のようなものである
それは怒りであり、あるいは愛かもしれない
対象への強い執着は煩悩の根本である
煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる(Wikipedia)
人間性に近しいはずの闇の霧が人を蝕むのは、それが煩悩の毒だからである
闇の霧
人間性に近しいはずの闇の霧は
だが、人にとっては恐ろしい毒となる
多くの人が、よく人を蝕むがごとく
注ぎ火(人間性を捧げる)により篝火の炎が強まるのは、その炎が煩悩の炎だからである
注ぎ火の秘儀
注ぎ火にて、さらに大きく篝火を育て
より多くのエストを得るための秘儀
しかし人は、不死となりはじめて
人間性の「使い途」を得るものなのか
不死になることで人は生への執着を捨て、煩悩を捧げることができる。あるいは逆に生への執着を捨てきれず生者に戻ることもできる
聖女であろうとする者にとって煩悩は、肉体の内側から虫に噛み苛まれるような苦痛をもたらすものである
暗く、何も見えず、闇が私を噛むのです
ずっと、ずっと、虫たちが、私を噛み苛むのです(カリムのイリーナ)
火防女とは煩悩の炎の化身であり、それゆえ煩悩に相応しいおぞましい姿になる
火防女の魂(混沌の娘)
火防女の魂は人間性の憑代であり
それは彼女たちの体においても変わらない
あらゆる皮膚の下に無数の人間性が蠢き
その姿は、大抵おぞましいものとなる
煩悩が形となったものが人間性であり、それは生きよう、生まれようと蠢き、醜い虫の姿で火防女の皮膚の下を這い回るのである
この苦痛を消すには煩悩の炎を滅尽するしかない
火継ぎの終わりENDとは火防女を苦痛から解放するエンディングであるのかもしれない
おそらくそれは、ダークソウルシリーズではじめて火防女にもたらされた救いだったのである
煩悩
人が生きているかぎり煩悩は消え去らない
人は生に執着し、欲に執着し、三界に執着する
その人間の本性を煩悩という
人間性とは人の歪んだ闇(煩悩)に形を与えたものである
煩悩という生命の毒はあらゆるものを侵し、毒し、歪め、異形化する
そしてついに世界を闇に沈めてしまう
しかし本来的に闇は「暗く静謐なもの」である
闇の大剣
闇は本来、暗く静謐なものであるはずなのに
闇に沈んだ世界は煩悩の消えたニルヴァーナの境地に等しい
生に執着するからこそ闇が毒になるのである
闇を恐れ、我執にとらわれたグウィンにはそれが分からなかったのであろう
蛇足
上でも書いたがこの考察は「貪食ドラゴンの情報から解釈した筆者なりの考察」である
人間性はダークソウルシリーズの根幹にある設定だけあって複雑で手強く、これまでも考察が二転三転してきた
そのためこれが最終的な結論とはまだ言えない
またこれも記述だが闇と闇のソウルは異なる。闇は本来的に暗く静謐なものである。一方、闇のソウルは生命の宿った闇である
ソウルは生命すべての源である。であるならば、闇のソウルとは生命の宿った闇である
それは生命という煩悩に侵された歪んだ闇であり、闇のソウルとして人に受け継がれたのである
闇の踊り
闇術は人の歪みの表れだが
これはその極みである
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