2018年11月23日金曜日

隻狼 曼荼羅

※発売前の考察です


仏像

まず初めに、デビュートレーラーから登場していた仏像について
これはおそらく十一面観音(Wikipedia)だろうと思われる
多面多臂の仏像は密教系に多く、とくに観自在菩薩はその手の数(千手観音)、頭の造形(馬頭観音)、頭の数(十一面観音)などが顕著である
これらはヒンドゥー教の影響を受けていると思われるがsekiroとは直接関係ないので詳細は省く
紅い蓮と紅蓮の言葉遊びか

曼荼羅

次にTGS Trailerに登場した護摩壇と曼荼羅であるが、この曼荼羅は「胎蔵曼荼羅」系の曼荼羅である

中央に置かれた中台八葉院が胎蔵曼荼羅の特徴であるからである

さて胎蔵曼荼羅というと、空海が請来した「現図曼荼羅」が最も有名かつ究極のものであろう。舞台、時代背景的にも本来であればこの「現図曼荼羅」がゲーム内に登場していてもおかしくはない

ただし、トレーラーに登場する胎蔵曼荼羅は「現図曼荼羅」そのものではない
 胎蔵曼荼羅は西に向かい東に掛けられるので、左が東、右側が西と方角がわかる

まず蓮華(中央にある紅い蓮の花)の八葉の間にあるはずの「金剛杵」が描かれていない。また、文殊菩薩の右下に「月輪(がちりん)」を背負った謎の仏が描かれている。ここには本来「四瓶(しびょう)」が描かれているはずである。四瓶とは、大日如来の「菩提心・慈悲心・すぐれた見解・方便」の四徳を表わすものである

では、空海の影響を受けていない時代の胎蔵曼荼羅かというとそうではない。中台八葉院の蓮華が紅いからである。この蓮華を紅く描くのは空海の「現図曼荼羅」以降のことである

胎蔵曼荼羅の根拠である『大日経』において、中台八葉院の八葉は白蓮華で描くことになっているからだ

では、sekiroに登場する胎蔵曼荼羅は、一体なんなのか?

答えを先に述べると、近代の曼荼羅研究に関する知識のある者が『大日経』をもとに新たに解釈して描き直し、さらに故意に相違部分を付け足した胎蔵曼荼羅である

というのも、八葉が紅いこと以外は、『大日経』(あるいはそれを解説した『大日経疏』)のそれに近いからである


なぜ新たに解釈する必要があったのか?

そもそも曼荼羅を信仰対象とする真言宗や天台宗は実在の宗教であり、多くの信者が現存している。さらに真言宗の開祖である空海は入滅していない。入滅とは涅槃に入ること、つまり死ぬことであるが、真言宗では空海は入滅せず、今もなお高野山の奥ノ院におられると考えている

もし本物の密教をsekiroに登場させたとして、そうするとラスボスに相応しいのは空海以外にいないのである(不敬であるがスケールが段違い)。しかし、それをするといかにも密教的伝奇的なストーリーにならざるを得ず、要するに抹香臭くなるのである

よって信仰に対する良識的対応と、オリジナルな世界観を保つために、あえて本物とは相違を作り出しているのだろうと思われる

また、文殊菩薩の右下に描かれた謎の仏像の存在もこれで説明できる。詳しい人が見れば、一目で「これは現存する曼荼羅とは異なる」と察することが出来るからである

それにしても、言い方は悪いが面倒くさいやり方である。実在の曼荼羅でないことを強調したいのならば、それっぽい絵を描くだけで済む話である(ただしそれをすると、構図はガタガタ、思想的な理解はムチャクチャ、創作物として陳腐なものになるが)。それをせずに対象に関する知識を熟知した上であえて相違点を作り出しているのである(この手法はソウルシリーズから一貫して受け継がれている)

やろうと思って出来ることではない。時折、物事の本質を異常なまでに素早く見抜き、しかもそれを応用することのできる天才がいるが、きっと、そういうことなのだろう

蛇足

曼荼羅の絵を依頼されたグラフィッカーが「それっぽく描いたらそれらしくなってしまった」という説も否定はできない。というより、そうした例もあると思われる。ただし、今回の曼荼羅はそれにしてもよく描かれているように思えたので、考察してみたものである

2018年11月10日土曜日

デラシネ 小ネタ(ネタばれあり)

花の名前

ユーリヤが持っている花はマドンナリリーという種の白百合であり聖母マリアの象徴として有名。百合→ユーリヤ。ユーリヤの髪の色は白

ロージャの綴りはRozsaでローズ、つまりバラであり、赤いバラは聖母マリアを象徴する花である。ロージャの髪の色は赤

マリーはマリーゴールドであり、「聖母マリアの黄金の花」と呼ばれる花である。マリーの髪の色は金色

※ロージャについて補足。Rozsaはロザリオが転じた名であり、そのロザリオの語源は「バラの花冠」を意味するラテン語のrosariumである

※蛇足だがルーリンツ(ハンガリー語)の英語形はローレンスである

世界の他の場所

ニルスの本をすり替え過去を改変すると、時間移動後にコインを入れる箱のある部屋で「消失事件」について調べているニルスと会える





ユーリヤの襟元のブローチの有無

ユーリヤは襟元にブローチを付けているときと付けていないときがある。


こよりの反応

登場人物のなかでただひとり、こよりに反応しない人物がいる

妖精さんの席、図書館二階と礼拝堂が増える

入手した投票用紙を箱に入れることで黒板に選択肢が書き込まれる。それぞれちょっとした情報を得られる

スカボロー・フェア

演奏会で演奏される曲はスカボロー・フェア(wikipedia スカボロー・フェア)であるが、この曲は不思議な曲として有名である。その源流はスコットランドの古いバラッド『エルフィンナイト』(The Elfin Knight, 「妖精の騎士」)である

左手の痣

プレーヤーの左手には痣がある

コインの場所

図書室
 左奥の書棚の上。覗き込むことで見える

屋根裏
 宝箱の上方。梁の上。しゃがみ込むことで見える

中庭の木
 出て左側にある木のウロの中。覗き込む

立ち入り禁止の扉の下
 ドアの下に少しだけ見えている

最初に犬がいたバルコニーの下
 ストーリーを進め、ダニー(犬)がいなくなった後で入手可

屋根伝いの行き止まり
 演奏会の日にしか取れない(と思う)
 屋根裏へ行く途中の窓から出て右→右→右とずっと右に進んでいくと行き止まりがあり、その下。しゃがみ込み

木琴
 ヘビのいた窓際でしゃがみ戸棚を開くとヒント
 音楽堂の一階左奥の席にある打楽器のバチを入手し、それで木琴を叩く。2314

ユーリヤのベッド下
 覗き込み

報酬
 妖精さんの正体を示唆するものである

妖精さんの正体

雪山から戻ったあと、校長室の奥の部屋に行く機会がある。奥にはイーゼルがあり、ある写真が立てかけてある。その写真の裏側に直接的な答えがある

2018年11月8日木曜日

デラシネ 感想

環境

PS4 pro(SSD換装)
PSVRエキサイティングパック(MOVE2本セット)
ダウンロード版
クリアしただけでプラチナトロフィー

VR

かなり乱暴な視線移動と移動を繰り返したものの、まったく酔わなかった。基本的にはワープ移動。しかしながら操作に慣れてくると、ビュンビュンと連続ワープするのが楽しくなってくる。このあたりは流石フロムというか、屋根の上を移動してるところはほとんどダクソかブラボやってる気分になりかけた。また探索の楽しさはソウルシリーズを彷彿とさせるものであった。
伝説のBlood&Bonesを発見

世界観

不穏な空気が漂う世界観であるにもかかわらず、ずっとこの世界に浸っていたいという矛盾した感情を覚える作品である。それはクリア後も変わらず。この独特の世界観はゲームとしては唯一無二なものであろう

あえて類似する作品をあげるとすれば、一部のギレルモ・デル・トロ作品であろうか。『パンズ・ラビリンス』や、監督ではないが制作総指揮をした『永遠の子どもたち』等々。他にはダークファンタジー、例えば『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』にも似た世界観がある。あとはシャマランの『ヴィレッジ』。『ディアトロフ・インシデント』も興味深いかもしれない

そして漫画作品であればやはり萩尾望都作品があげられる

冒涜的な形状の海坊主


ストーリー

ネタバレになるので詳しくは触れないが、「思い出の幻影」をある種の目くらましとして機能させているのは特筆すべきものがある。たとえネタがわかったとしても(同様のネタは有名なホラー映画でも使われている)、VRならではの手法に工夫しているところは感嘆せざるを得ないのである(幻影が虚であるとすれば、現実の人間は実である、とする思い込みを逆手に取った方法である)
登場キャラクターなど。名前が一部覚えにくかった

総評

VR作品としての完成度が高い。ストーリーや設定をゲームシステムとして落とし込む宮崎氏の卓越した手腕が今作でもいかんなく発揮されている

VRだからこその設定でありストーリーであり、それらを統合する形でのゲームシステムである

プレーヤーが妖精で、時間の停止した世界にいて、思い出の幻影が見えて、と一見とっつきにくそうな印象を受けるが、これが不思議とVRと合うのである

そしてその突飛な設定がクライマックスにおいて大きな効果をあげている。ほとんど何もヒントがないにも関わらず、プレーヤーはすぐに正しい選択に気づくであろう(ゲームのシステムを理解しているプレーヤーには、何をすれば良いのかすぐにわかる)

ゲームのシステムとはすなわち、デラシネの世界における妖精のシステムそのものであるからだ

その瞬間プレーヤーは妖精の正体を確信し、ついに「デラシネ」となるのである

最後のヒント



2018年11月1日木曜日

Red Dead Redemption 2 コーヒーの話

RDR2におけるコーヒーを一杯飲むための手順は以下のようなものである

1.雑貨屋で「コーヒー粉末」と「コーヒーパーコレーター」を購入
2.荒野へ行き、L1を押したままR1を押しながらスティックを下に入れながらL1を離し「キャンプを設営」
3.作成/料理(□ボタンを押す)
4.作成ウィンドウでコーヒーを選択し、淹れる(Xボタンを押す)
5.注ぐボタン(Xボタンを押す)
6.飲む(R2トリガー)

なぜこれほどの手順を踏ませるのか

たとえば村上春樹氏の小説を読んでいると、料理を作る場面や着替える場面、身体を洗う場面などの描写が非常に細かいことがある。キャラクターの一挙手一投足をそれこそ微に入り細を穿つような精度で描写しているのである。

実は読者はそうした細緻きわまりない文章を淡々と読むことで、登場人物との同化を果たしているのである。これは感情移入や没入といった心理とは異なる現象であり、ある意味で読経する僧侶や神に祈る神父のような形而上学的な存在への同化を感じてさえいるのである。

仰々しくなったが要するに小説の登場人物という仮想の存在と具体的な行為を介して同一化している、という程度のことである。

さて、この小説技法は村上春樹氏独自のものではない。そしてこの「登場人物の日常的な行為を細部まで記す」という技法をもっとも効果的に駆使したのは、かのレイモンド・チャンドラーであろう。

チャンドラーの小説『The Long Goodbye』の冒頭、探偵フィリップ・マーロウがテリー・レノックスにコーヒーを淹れる場面がある。ここでフィリップは1ページ以上にわたり、コーヒーを淹れるという具体的な行為をこれでもかと描写している。そのすぐあとでチャンドラーはフィリップ・マーロウに託す形で、なぜこれほどまでに細かく描写するのかを説明している。以下引用
 こんな細かい作業に何故いちいちこだわるのか? 張りつめた空気の中では、どんな些細なものごとも演技性を持ち、大事な意味を示す動きとなるからだ。そのときがまさにそれだった。一触即発の空気の中では、すべての決まり切った動作でさえひとつひとつ自立した意思表示になる。どんなに長いあいだ反復され、日常習慣と化したことであってもだ。(『ロング・グッドバイ』47ページ。レイモンド・チャンドラー。村上春樹訳。早川書房)

コーヒーを淹れるという些細であるが具体的な行為こそが、探偵フィリップ・マーロウを最も明瞭に表現すると同時に、読者はフィリップの行為を自らの行為として頭の中で体験することとなる。これは人間の形而上学に関する能力、つまり虚構を現実のものとして感じ取れる、という人類の能力の一端である(吉本隆明氏の『共同幻想論』や最近では『サピエンス全史』などがこの能力について扱っている)


つまり、「登場人物の日常的な行為を細部まで記す」という技法は、具体的な行為を介した登場人物と読者の同一化と、具体的な行為によるキャラクターの表現という二つの効果があるということになる

言うまでもなくレイモンド・チャンドラーといえば、「ハードボイルド」という概念を創出した作家の一人である。そして上記の技法は、ハードボイルドという舞台において最大の効果をあげる技法なのである。なぜならば具体的な行為を積み重ねることで、何故かそこに哀愁(ペーソス)のようなものが発生するからである。このペーソスがなければ、ハードボイルドは野卑で粗雑なピカレスクに堕してしまうであろう

おそらくロックスターは西部開拓時代の終焉を描くにあたり、チャンドラー的な文体をゲームに導入したかったのであろう。もしハードボイルド的な哀愁がなければ、ただの暴力的なゲームになってしまうからだ

ゆえに、アーサーは朝起きて水をくみ干し草を運ぶ。さらに馬に乗っては装備をひとつひとつ取り出し、銃弾を装填していくのである。この行為の反復が、哀愁を感じさせるような人物像を明瞭に表現するからである

そしてもうひとつ。日常的な行為をプレーヤーに行なわせることで、プレーヤーはアーサーと徐々に同一化していくのである。この行為は無意識に出来てはいけないし、かといって難しすぎてもいけない。少し頭を使いながら、それこそフィリップ・マーロウがテリー・レノックスのために淹れるコーヒーのように、繊細に慎重に行なわなければならないのである

おそらく、この行為の積み重ねはプレーヤーとアーサーの同一化を推し進め、最終的には同化するであろう。これは一種の(そして本物の)仮想現実(バーチャルリアリティ)である

ロックスターはHMDや錯視の力を借りず、古来からの方法をゲームとしてアップデートすることで本当の意味での仮想現実、つまり読者とキャラクターの同化を成し遂げたのである

とはいえ、やはり毎度毎度、馬の鞍から武器を取り出すのは面倒くさい。しかしそれでいいのである。きっとアーサーも「面倒くせーな」と思いながら取り出しているからである。この段階ですでにプレーヤーとアーサーは同じことを感じている(同化している)と言えるのかもしれない

スクリーンショット


 Rockstar Gamesに乾杯

PS4でこれほどの表現ができるとは

例のキャンプ

いい顔のアーサー

サンドニの夜がとてつもなくきれい

イカした婆さんキャラクターが多い

たぶんいちばん美人のペネロペ嬢


2018年10月15日月曜日

デラシネ 予習セット

もしかしたらデラシネに関係するかもしれない作品群
まったく関連がない可能性も高い
電子書籍版がアマゾンで99円で買える(三冊まで)

トーマの心臓

トーマ・ヴェルナーの自殺から始まる物語。ただしトーマの自殺はプロローグであり、いわば劇外の出来事である

 本筋はシュロッターベッツ高等中学(ギムナジウム)におけるユリスモール・バイハン(ユーリ)を巡る物語である

 しかしながらトーマの死は劇中において絶対的な不合理として通奏低音のように流れ続け、学内に不穏な空気を醸しだし、さまざまな騒動を引き起こしていくこととなる

 例えるのならば、舞台の下(奈落)に死体があることを知りつつ、舞台上で演技する俳優たちのようなものである

 彼らは平然と演技をしようにもやがて破綻することは必定である
 
 この緊張感がこの作品を名作たらしめているのであろう

 そもそもなぜ、トーマの死は劇外にあるのか。

 アリストテレスは悲劇について次のようにいう

 しかし劇の出来事のなかにはいかなる不合理もあってはならない。それが避けられない場合には、ソポクレースの『オイディプース王』におけるように、悲劇の外におくべきである。(アリストテレース『詩学』60頁。岩波文庫)

 なぜかというとあまりに大きな恐怖に襲われると、人はおそれもあわれみの感情も持てないからだ(そのため既存作品の多くでも大きな恐怖、殺人や自殺は劇外に置かれる)(参考:アリストテレース『詩学』138頁 第6章 訳注3 岩波文庫)

 この『トーマの心臓』は悲劇作品の要諦を備えている物語であるといえるだろう
 
 一方、救いの物語でもある
 ただしこの救済に関して最大の疑問がある

 なぜキリスト教における最大の罪である「自殺」によってユーリが救われるのか
 
 わたしはここに宮沢賢治の思想との類似性を見いだすのである
 冒頭に記されるトーマの手紙には以下のような言葉が綴られている

 今 彼は死んでいるも同然だ
 そして彼を生かすために
 ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない

 わたしはこれを読んだとき、銀河鉄道の夜のあるセリフを想起した

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」(『銀河鉄道の夜』)

 言うなれば、自己犠牲による救済である

 この思想はさらにさかのぼれば、仏陀の本生譚(ジャータカ物語)にまで通じるであろう(捨身飼虎、あるいは自らの身を火に投じ、食料として捧げたウサギの話)

 ではトーマの心臓は仏教的な物語なのか、というとそうではない。新約聖書ローマの信徒への手紙には、アダムをキリストの予型として論じる節がある(5章12節)

 つまりアダム=キリストであり、「アダムは死し、キリストに生きる」という構図には、「死ぬことによって生きる」という思想が包含されている

このことは、新約聖書ヨハネによる福音書にも現われている。

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(新約聖書ヨハネによる福音書第12章24節)

 さて、最初の疑問に戻ろう。なぜトーマが死ぬことでユーリが救われるのか

 簡潔に言えば、トーマとユーリは魂を共有する同一存在として創造されている。同一と言っても完全に融合しているわけではない。彼らは光と影(金髪と黒髪)がひとつの魂を共有する双子的な存在として描かれているように思える

 双子の片割れであるユーリは神を棄てたことで翼を剥ぎ取られ、魂が死にかけている。その彼に翼を与えられるのは、トーマしかいないであろう。彼は自ら命を絶つことで、その翼をユーリに与えたのだ。魂の双子であるがゆえに、それは可能だったのだ

 一つの魂が「死ぬことによって生きた」のである(キリスト教においては再生、仏教においては見性という)

 タイトルのトーマの心臓とは、つまりユーリの心臓のことである。心臓とは「心」であり「魂」のことである。ユーリがそれを拒絶したのは、殺したはずの自分の魂をトーマの心臓に見いだしたからであろう

 ユーリの「許し」がトーマを「救った」のは、その「許し」が自分自身のものであったからである。神を棄てたことを最も許せなかったのは、ユーリ自身であった。だが、その怒りは自己への執着そのものであって、その肥大した自我の醜さに気づいたとき、ユーリは自分自身を許し、世界と和解を果たしたのだ

 思春期特有の自分と世界との格闘を描いた作品と言えば『伊豆の踊子』があげられるであろうが、『トーマの心臓』もまたそれに匹敵する傑作であると断言できる


11月のギムナジウム(短編集)

『11月のギムナジウム』
 表題作の『11月のギムナジウム』は、トーマの心臓の原型ではなく、その後に再構成された作品。トーマの心臓が難しすぎたと思ったのか、小著ながらも分かりやすい作品となっている

 物語の構造は『トーマの心臓』と同一である
 やはりこの作品の背景というか、舞台の下には「悲劇的な死」が横たわっている。

 物語は瓜二つの二人の少年が、「悲劇的な死」に徐々に影響を受けていく構造となっている。
 よりわかりやすく、魂を共有した二人の少年は双子となり、やがて「死によって生きる」こととなる


『塔のある家』
 一冊の古い本に住んでいる三人の妖精と少女の話。
 少女の成長を妖精たちが見守るという形をとっているところが、デラシネと似ているかもしれない
 
『セーラ・ヒルの聖夜』
 悲劇的な死と、双子という『トーマの心臓』『11月のギムナジウム』と類似した構造を持つ物語
 こちらは男女の双子であり、舞台もギムナジウムではなく田舎の村である


ポーの一族

デラシネに登場する少女のキャラクターの参考になったのは、メリーベルかリデルではないかと推測。トーマの心臓の寄宿舎は男子校であるし、ユーリには妹がいるが登場する機会がほとんどない。

 その点、メリーベルは登場する場面が多いうえに、性格も火防女的なところがある(人を誘う)。リデルはキャラクターとして強い個性があるし、語り部としても適している(フロム的な語り部)

 さて、ポーの一族はバンパネラと呼ばれる人の血を吸う者たちの時代を超えた物語だ
 ポーの村という故郷があるが、エドガーたちは帰れない。つまり故郷喪失者(デラシネ)である

 が、彼らが失ったのは地理的な故郷だけではない
 彼らは時間をも失っている 

 成長しないために、二年と同じ土地にいられず、そうして彼らは人の世界を根無し草(デラシネ)のようにさまよい続ける

 小鳥の巣と題された作品はギムナジウムが舞台で、やはりここでも一人の少年の死が学園生活に影を落としている。『トーマの心臓』や『11月のギムナジウム』と類似した構造であるが、吸血鬼物としての完成度も高いのは脱帽である

 デラシネに関係ありそうな概念を抽出すると、「マザー・グース」「バラの花」「ギムナジウム」「時間」「永遠の人々」「双子」などが挙げられる

 あえて共通する構造を持ち出すとするのなら、「デラシネの舞台の下には、悲劇が横たわっている」というところだろうか

 何者かの死、愛された少年の死。少年の死によって生きることになった存在。妖精とは、少年が魂になったものであろうか


 また花嫁にするために少女を育てているバンパネラが登場するが(それも二人も)、それをゲームにするとジャンルが変わってしまうので違うか

蛇足

デラシネと関連した話を書くはずが、萩尾望都作品の感想文のようなものになってしまった
 ポーの一族の項から軌道修正をしたが、しなかったらおそらくポーの一族がもっとも長い記事になっていたと思われる

2018年9月24日月曜日

Death Stranding 考察10 エジプト神話 TGS Trailer

エジプト神話はまったく詳しくないので浅い考察

建物

まずはエジプトと関係ない部分から
奥にある建物はアールデコ様式のビル建築で、この様式のビルはかなり多い。あえて似ているのを探せば「エンパイアステートビル」である

しかしながら、ビルの背景には山塊が連なっているのが見える。「エンパイアステートビル」のあるニューヨークにはこれほど高い山脈はないので、単純に「エンパイアステートビル」であるとはいえない

ではアメリカの山に囲まれたような都市はどうだろう
シアトルやサンフランシスコ、バンクーバーなどいろいろ挙げられるが、カメラがノーマンから黄金仮面の男にパンする時に一瞬だけ映る巨大な山影に匹敵するような山はアメリカには無いように思える

黄金仮面の男がいる場所も、火星の表面のような荒れた土地であり、地球上とさえ考えにくいような荒涼とした場所だ

もしこれほどの山が隆起したのだとしたら、奥に見えるビルなどは跡形もなく消し飛んでいるだろう

ここで何が起きたのか、そもそもここはどこなのか?

完全なる推測だが、奥のビルはやはり「エンパイアステートビル」であろうと思う
だが、場所はニューヨークではない。ここは冥界や煉獄と称されるような場所なのだ

巨大な山脈が延々と続くような低温の山間部(イメージとしてはヒマラヤあたり)である。その煉獄へ、都市ごと転移したか落ちてきたのだ

おそらくアメリカ全土がバラバラになり、この時空へと転移してしまったのだ
そのようにして、エンパイアステートビルと山脈が合成したような風景が生まれたのである

赤ちゃん

左目をつむっているのは、セトとの闘争で左目を失うホルスを象徴していると思われる(セトとの闘争神話 wikipedia)
また、指を口にくわえるポーズは「子供のホルス」「ハルポクラテス」をあらわすと思われる(wikipedia ハルポクラテス)


赤ちゃん人形

片足がなく、左目をつむっている
エジプト神話において左目をつむった姿というのは、ホルス(wikipedia)を象徴し、片足がないのはセト(wikipedia)を象徴するものである。おそらく、オシリスとセトを象徴的に合体させた形象なのではないかと思われる

黄金仮面の男

では、黄金仮面の男トロイ・ベイカーは何者か
デル・トロのもつ赤ちゃんがホルスであり、それがノーマンに受け継がれたとすると、ノーマンはホルス側勢力だと思われる。また人形がマッツを示すのだとしたら、ホルスとセトとの闘争においてマッツは中立の立場を意味するのかもしれない

であるので、黄金仮面の男はセト側の勢力に属すると思われる

肩口のマークはファラオのマークだと思われる
このファラオのマークで最も有名なのがツタンカーメンであろう
このツタンカーメンの父は、アメンホテプ4世(wikipedia)であり、
多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた事が挙げられる。
という人物であるが、このアテン神は数多くの手を持った姿で描かれる

下エジプトはホルスを、上エジプトはセトを崇拝する傾向にあり、アテン神を崇拝するアメンホテプ4世が造ったアマルナは上エジプトに位置する。つまりセトの勢力圏にある

歴代王朝のファラオは、自身がオシリスとセト二人の最強神兄弟の相続人であり、セト(上エジプトの守護神)とホルス(下エジプトの守護神)、つまりは上下エジプトの地位の合体であるとして、その権威を民衆に誇示していた。(セト wikipedia)

セト・アニマル

 セトはまた多くの合成獣と結びつけられる神である
想像上の動物(合成獣)をわざわざ作ってセトに充てたとする説も存在する。この正体不明な動物を英語では「セト・アニマル」と呼ぶ。(セト wikipedia 外見の項)
またその咆哮はセトの声である
敗れたセトは、地上の世界を去り地下世界に隠遁した。地上には、雷の声として響くだけである。(セト wikipedia 登場神話の項)

リンゼイ・ワグナー

太陽を背負う女神、ということでおそらくハトホル(wikipedia)だと思われる

ハトホルはホルスの母とも妻ともいわれる女神であり、セトとホルストの闘争では、ホルスを治療し、また死者を冥界に導くという

オシリス

オシリスもまた殺されてバラバラにされる神である(wikipedia)。セトに殺されたオシリスは14の部位に分けられてエジプト中にばらまかれたという。

妻のイシスはバラバラになった夫の遺体を集めてオシリスを復活させようとする

このばら撒かれた「神の遺体」をノーマンは運んでいるのではないだろうか
もちろん「神の遺体」というのは象徴的な意味で、実際に神の肉体があるということではない

それはおそらく「神に等しい存在」「神に属性を受け継ぐ人」「神的な物質や生命」といった形で全米に散らばっているのではないだろうか




2018年9月18日火曜日

ゼノブレイド2 考察 終 金の瞳の一族

最初に言い訳をさせていただくと、ゼノブレイド2本編の記憶が薄れてきているうえに、DLCもコンプリートしていないため、いつも以上に雑である(何か根本的な錯誤をしている可能性が高い)


英雄アデルの物語

まず前提として、英雄アデルの物語はマルベーニが都合よく改ざん、脚色したものであるとする
英雄アデルの物語を利用し、世界を自分の望む方向へ誘導しようとしたのである

実際のアデルの物語はDLCをプレイすればわかるように、バッドエンドである
また、ミノチによるアデル劇は、現実があまりに悲劇的すぎた結末だったために、少しでもそれを和らげようと真実を隠蔽したものであろう


金の瞳の一族

さて、この考察の結論から述べさせてもらうと、
「レックスは金の瞳の一族の末裔である」
である

レックスは「どこにでもいる少年」ではなかったのか? という疑問を抱かれるかもしれないが、アルストにおいては「金の瞳をもつ人間」はどこにでもいる程度に多いのである。要するに程度問題になってくる。

例えば日本において「どこにでもいる少年」と言えば、黒髪に黒い瞳の少年を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、これが金髪碧眼の多い国、例えばドイツだったら事情が異なってくる。かの国においては「黒髪黒瞳の少年」は「どこにでもいる少年」ではない

つまり、周囲の環境によって「どこにでもいる」の基準が変わってしまうのだ

そしてアルストでは「金色の瞳をもつ人間」は「どこにでもいる」程度に「多い」のである
(ルクスリア王、マルベーニ、マルベーニの母親、レックス、ラウラ、アデル等、珍しいとはいえないレベルに多い)

これら金色の瞳をもつ人間の共通点としては「ブレイドと親和性が高い」というのが挙げられるだろう
天の聖杯と同調した人間は例外なく(といっても3人だけだが)金色の瞳を持っている(マルベーニ、アデル、レックス)
ある意味で、ブレイドと強い絆を結ぶことの出来る「印」あるいは「烙印」のようなものなのである

ではこの「金色の瞳」はどこからきたのか?

まずイーラ人ではないのは、作中のセリフから明らかである(イーラ人は碧眼)
また、インヴィディア人でもグーラ人でも、スペルビア人でもない

となると残りは一つである。「ユーディキウム」である(シヤに関しては情報が少ないので割愛)

このユーディキウムは作中において、マンイーター技術の発展した国とされている
マンイーター技術とは人とブレイドを細胞レベルで融合させた存在であるが、裏を返せばこれはブレイドイーター技術でもある
「人とブレイドの細胞レベルでの融合」という点において、マンイーターもブレイドイーターもそう違いはないのだ

つまりユーディキウムにおいて、ブレイドイーターがすでに誕生していたとしても不思議ではない

人がブレイドを喰らう、おそらく喰われたブレイドは金色の瞳を持つブレイドだったはずだ
そうして人とブレイドの融合したブレイドイーターは、基体が人であるがゆえに、伴侶を得て子を作れただろう
生まれた子供は、ブレイドの血を四分の一受け継ぐクォーターであり、その完全優性遺伝により金色の瞳を発現したはずである

こうして誕生した金色の瞳をもつ一族は、祖先にブレイドがいるがためにブレイドとの高い親和性を発揮する一族となったのである

ここでもやはり「どこにでもいる少年」でなくなる気がするが、しかしながら「金色の瞳をもつ人間」は「どこにでもいる程度に多い」ので、やはり「どこにでもいる少年」と表現しても問題はないのである

やがて金の瞳の一族は世界中に広がっていった。血を受け継ぐ者は残らず金の瞳をも受け継ぐゆえに、その数はかなりの速度で増えていったと推測される。その時期はおそらく500年前の聖杯戦争のさらに遙か昔であろう(種族に関係なく子を成せたと思われる)

その血脈の果てに、どこにでもいる少年レックスが位置するのである

またレックスはイーラの血を引く少年でもある
エルピス霊洞がイーラ王家の霊廟であることが明かされるが、その扉が開く理由として、イーラの血を受け継いでいるとするのが、最もシンプルであろう(墓守を新たに登場させるのはオッカムの剃刀的にあまりよろしくない)

ここでも「どこにでもいる少年問題」が登場するが、イーラの血はリベラリタスの住人ほぼすべてが受け継いでいると思われるので、リベラリタスにおいてはやはりレックスは「どこにでもいる少年」なのである

またレックスはアデルの血を引く少年でもある
レックスという名がラテン語で「王」を示すように、本作は貴種流離譚の一種であると考えるのが妥当であろう。イーラ本家ではなく、アデルをして「王」とするのは、ルクスリア王国がアデルの末裔を名乗っている(偽称であるが)ためである。本来であれば正統な王は、レックスなのだ(アデルの妻が妊娠しているという作中の情報が何かの意味をもつのであれば、その血を受け継ぐのがレックスであるとするのがシンプルだと思われる)

ここでも「どこにでもいる少年問題」が登場するが、アデルの血は「何の力も持たない」ので、「どこにでもいる少年」の範疇を超えてはいないのである。また理屈上はレックスはルクスリアの正統な王位継承者であるが、実際はルクスリア自体アデルが関わっていないのでレックスとは無関係である。よって、「どこにでもいる少年」以外の何者でも無い

アデルが天の聖杯と同調できたのは「金の瞳」の力ゆえであり、アデル自身の力ではない。そして「金の瞳」をもつものは、アルストには「どこにでもいる」程度に多い

まとめると、レックスは、
1.金色の瞳の一族の末裔である(しかしながら金の瞳をもつ人間は「どこにでもいる」程度に多い)
2.イーラの血を引く(しかしながら、リベラリタスの住人はほぼすべてイーラの血を引いているため、リベラリタスならば「どこにでもいる」程度の希少性しかない
3.アデルの血を引く(しかしながら、アデルの血は何の力も権利も有さない。よって「どこにでもいる少年」以上の力は持っていない

結論として、金の瞳の一族の血、イーラの血、アデルの血を受け継ぎながら、レックスは「どこにでもいる少年」以上の存在ではないのである


アデルの行方

第三の剣とホムラを封印した後、アデルはどこへ行ったのか

シンプルに考える+レックスがアデルの血を引いていると考えると、まずリベラリタスではない。レックスの両親はイーラの民族衣装を着ており、リベラリタスの風俗とは異なるし、その温暖な気候とはそぐわない。
また鎖国中のルクスリアではない。グーラは温暖であり、隠れ住む場所もないことから可能性は低い。皇帝に統治され治安もわりとよさそうなスペルビアでもない。

とすると、残るはインヴィディアである
なぜミノチがインヴィディアにいたのか、それはおそらくインヴィディアがマルベーニの目の届きにくい国だったからであろう。つまり身を隠すには最適の場所なのだ

ホムラを封印した後、アデルが隠遁するにふさわしい場所だと思われる
おそらくアデルはその際には妻子を伴っていたとであろうし、数少ないイーラの生き残りを引き連れてきたと考えてもおかしくはない

こうしてインヴィディアの辺境にアデルの村が隠れ里のように誕生したのである
ルクスリアと同じく、この村でもアデルの血筋は主家として続いていっただろう(ルクスリアと違いこっちは本物のアデルの末裔だが)

ところでミノチは一人の孤児を保護している。イオンである。このイオンもまた金の瞳を持つ人間である
ミノチがイオンをことさら大事にしているのは、イオンもまたアデルの血を引く可能性があるからだろう

500年も経つとアデル村とミノチの繋がりはほとんど消えかけていたと思われる。その折にアデル村は戦火に巻き込まれる。スペルビアとの小競り合いか、あるいはマルベーニの刺客か。

アデル村は壊滅し、アデル直系の血を引くレックスの両親は、イーラ王家にゆかりのあるリベラリタスを目指したのだろう

一方、アデルの血を引くが庶民であるイオンはそのまま孤児となり、ミノチに保護されたのだ(あるいはミノチはアデル村のことを覚えていて、だからこそ積極的に孤児を保護したのかもしれない)

およそ500年という時間は、人が歴史を忘れ、現実が神話になるのに充分な長さなのだろう
作中では史実と物語が同時に語られるので、英雄アデル物語や聖杯戦争の何が真実で何が嘘であるのかわからなくなってしまう
おそらくそれは作中の人物も同じことで、500年も経つといろいろ忘れたり、思い違いをしたりしているのだ(ということにしておく)


以上、ゼノブレイド2の考察終わり


蛇足

そもそもDLCは考察するつもりはなかったのだが、金色の瞳の謎がどうしても気になったので考えてみた次第である
レックスの出生については、最もシンプルでわかりやすい仮説を採ったが、私個人としてはレックスが特殊な血筋ゆえに活躍できた、とするのは本意ではない

しかしながら、特殊な血を受け継いでいないただの少年、とするにはエルピス霊洞の封印が解けたことやリベラリタス出身者として選ばれている時点で多少無理があるように思われる。よって様々な血を受け継ぎつつも、「どこにでもいる」程度の希少性しかもたない少年としてのレックスを想定してみたものである

ブレイドイーターが子を作れたという仮説に関しては、金の瞳の人間とブレイドとの特別な関係を鑑みると、そうなのではないかという妄想に近いものである。もともとブレイドとの絆を結びやすい金の瞳の種族がどこかにいた、という仮説のほうがよりシンプルであるが、ユーディキウムと絡めたかったのでブレイドイーター説を採用した次第である

極論すれば最もシンプルなのは、金の瞳に意味はなくレックスはただの少年である、とする説であろう

ただしこの場合、なぜレックスがアデルの紋章の封印を解けたのか、両親がイヤサキ村にやって来たのはなぜか、なぜありえない再同調が起きたのか、唐突に出てきたアデルの妻子の情報は何なのか、といった点について考えなくてはならず、かえって複雑になってしまう気がするのである

すべてを偶然とするのももちろん可能であるし充分に蓋然性が高いと思う
が、とりあえず自分は考察をそれほど深めようとは思わなかったので、とりあえず出てきた情報をすべて繋げてみた、という次第である