2018年5月14日月曜日

Death Stranding 考察2 要点の整理

 わたしの小説の多くで時間が大きな役割を演じるのは、宇宙においてははなはだ劇的で、忌まわしくも恐ろしいものとして、この要素がわたしのこころに大きくのしかかっているからです。(『ラヴクラフト全集4』『怪奇小説の執筆について』H・P・ラヴクラフト)

考察1がかなり冗長になってしまったので、その要点だけをまとめようと思う
ついでに前回の考察ではカットした「遊び」に関する考察も含めた。また蛇足としてティザームービーのシーンごとの自分なりの解説もしてみた

時間の消失による「急激な老化」とタイムフォールの「時間が進む」という現象は、現象としては同一である。時間がないことが「原因」であり、時間が進むことが「結果」である。どちらも同一の現象として観測される

Death Strandingの世界には3つの領域がある


1.人間界
2.異界(赤ん坊、死者、神々の世界)
3.砂浜(人間界と異界の重なる領域)

である

1.人間界とは人間の住む世界である


2.の異界とはニライカナイ的な世界である
ニライカナイの特徴としては以下のものが挙げられる

豊穣(生命の源)が存在する
死者が住む
神々が坐す
時間が存在しない


3.砂浜とは、人間界と異界とが重なった時にだけ出現する「遊びの場」である
砂浜の特徴としては以下のものが挙げられる

・時間や場所が一定でなく、場所や時間は常に不確定である
・人間界の土と異界の水が合わさることで徐々に「砂浜化」する
・人間界と異界の住人の両者が存在することが可能である
・「闘争の遊び(ヘアゾ・ラーク)」の行われる場である

「闘争の遊び」に関しては前回も触れた「タケミカヅチとタケミナカタの力比べ」が参考になるだろう

遊びは闘争であり、闘争は遊びなのである。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

遊びは残酷な、血を見るものでもありうるのである。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

純粋な遊びであるからこそ聖なる祭儀的分野に属しているのだ(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

こうした遊戯的な闘争が行われるのが遊びの場である

 空間的制限。闘技場、トランプ卓、魔術の円陣、神殿、舞台、スクリーン、法廷、これらはどれも形式、機能からすれば、遊びの場である。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

そしてこの遊戯は砂浜という時空でのみ行えるものである

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)


Death Strandingで演じられる遊戯とは「花いちもんめ」あるいは「鬼ごっこ」である
鬼は異界の神であり、「花いちもんめ」の歌に登場する「子供をさらう鬼」である。

さらわれる子供を助けるための道具が「縄」なのかもしれない


蛇足:ティザームービー考察

第一弾
カニの死骸の散乱する砂浜からスタートする。カニとはきわめて「砂浜の生物」であり、砂浜化した場所には常にカニが登場する

砂浜に怪物の足跡がつけられていくが、姿が見えない。これはこの場所が砂浜化しつつあるか、あるいは砂浜化が終了しつつあることを意味する。この場面では砂浜化が終わり、死者の国である異界に取り込まれてしまったことを意味する。よって、砂浜に打ち上げられた魚類や鯨類はすべて死んでいるのである。


第二弾
土と水の混じり合った場所が映し出され、やはりカニが登場している(砂浜化の影響)。その場所をギレルモ・デル・トロ監督が何かを抱えて、何かから逃げている。キャタピラ音を鳴り響かせて橋の上を戦車が進んでゆくが、随伴しているのは古い軍服を着た骸骨の兵士である。

足下に黒い水(異界の水)が押し寄せてくるのを見たギレルモ・デル・トロはコックをひねる。すると抱えたポッドが透明になり赤子の姿が映る。これは異界に取り込まれつつある世界で、それに対抗することができるのが「生命の根源」を象徴する「赤ん坊」だけだからである

足元を流れてゆくのは、おもちゃの赤ん坊である

おもちゃは現実の世界と想像の世界のあいだをつなぐ媒介物である。(『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』ジャック・アンリオ )

おもちゃの赤ん坊が流れてゆく下水道の先に、近代兵装をまとったマッツが登場する。彼の流す涙が黒いことから、彼は異界の存在(あるいは異界の力を行使できる存在)であることがわかる(骸骨兵を使役してることから)

また人差し指を口元に持ってゆく仕草は「沈黙のルール」をあらわすが、これは「言語の遊び」である「詩」を禁じているのである。

詩は言葉、言語の遊びである……まさに言葉の文字通りの意味で、そうなのだ。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

そして最後に笑う。かのアリストテレスは人間を「笑う動物(アニマル・リデーンス)」と呼んだ。笑うのは人間だけなのだ。ゆえに彼が人間であることがわかる

まとめるとマッツは、異界の力を行使することのできる人間、ということになる。彼はこの遊び場のルールに精通している異界側についた人間であると思われる


第三段
やはり大量のカニの死骸からスタートするが、これもまたこの場所が砂浜に関係することを示す。

倒れていたノーマンが目を覚まし、あたりが水に濡れている(砂浜化しつつある)ことに気づく

投げ出された遺体袋のには金色の何かが張り付いているが、これは仮面である。死者が異界に取り込まれるのを防ぐ役目がある。

車の下敷きになった男の顔が水に濡れ、その顔が急激に老化してゆく。これは彼が「時間を失った」ことを意味する(浦島太郎のように)

足跡だけの怪物が登場し、人間たちは沈黙を強いられる。それがこの遊び場のルールであり、破ったものは負けとなる。色鬼高鬼と同様に、喋ったらいけないというルールの鬼ごっこ。実際的にはしゃべると鬼に見つかり殺されると思われる

死体袋が振動し地面に溶けてゆく。これは仮面と顔との間の「遊び」を失ったからである。遊びを失うと「顔と仮面の同一化」が進み、死者は死者として異界に取り込まれてしまう

自分の顔と仮面のあいだの「遊び」。それがなかったら、仮面は顔に張り付いてしまい、役者は人物像とは区別がつかなくなる。同一化が進んで錯乱に達する。(『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』ジャック・アンリオ )

砂浜化が進み、神々が顕現する。ノーマンの左足の赤い色の液体は、血液である。生命(時間)を意味する血液は、異界の水に触れると激しい反応を起こすのであろう(少量の血液なので反応が限定的だが、人が一人取り込まれると大爆発を起こす)

重症を負った男が黒い腕にさらわれる。黒い腕は死者の腕であり、死者たちは生者を貢ぎ物として神のもとへ運ぼうとする。もうひとりの男は生贄を殺害することで破局を防ぐ

マッツの登場により、砂浜化が完全に完了し遊戯が開始されたことが示される(このことからマッツは完全な敵対者というより、通知者あるいは審判的な役割かもしれない)

そして見つかった生者は死者に捕らえられる。男は赤ん坊の入ったポッドをまだ見つかっていないノーマンに投げてよこす。男は自殺することで破局を逃れようとするが、それは果たされない。なぜならば「砂浜」においては「生と死」曖昧であるからだ。

捕らわれた男は神に喰われる。喰われるのは肉体ではなく男の持つ「時間」である。

時間のない異界において、生者のもつ時間は爆発的な効果をもたらす(宇宙が始まり時間が誕生したように、その存在は新たな宇宙を誕生させるほどのエネルギーを持つ)。具体的には人間界に異界の領域を創造することができる(遊戯による創造

大爆発の次の場面でノーマンは海中にいる
この海は異界の海だ(ニライカナイ常世は死や神々と同時に、生命の根源をも包含する複合的な概念である)魚やクジラが生きて泳いでいるのは、ここが豊饒の海であるからだ。

この豊穣の海に属するのが、ノーマンの喉の奥にいる赤ん坊である(赤ん坊は生命の根源を象徴するものとして異界に属する

覚醒したノーマンは黒い水を吐く(このことが豊饒の海もまた異界であることを示す)。この黒い水は「生命の水」でもある

 ペルシア文学では生命の水は乙女の髪の毛のように黒いと表現された。
 黒い死者によって管理された黒い生命の水と泥んこを人々は身体に塗ることによって再生の力を得ようとした。(『神話と民俗のかたち』井本 英一)

再生の力をもつという生命の水に浸ることで復活したノーマンは、右目から透明な涙を流す。これもまた生命の水である。この水が透明なのは、豊饒の海において水が透明だったように、ノーマンが豊穣の海に属する者となったことを現すからだ(飲み込まれた水は異界の水であるゆえに黒いが、さらに豊穣の属性を帯びたノーマンの流す水は透明である)。

要するに、マッツが神々と死者の側の人間であるのと対称的に、ノーマンは豊饒の海側の人間となったのだ

クレーター世界から奪われた土地を現わすものであり、異界化されてしまった世界を象徴するものである

そこは時間が存在しない「異界」であるがゆえに、それ以降の時間そのものが不可能であり、よって「最後の」爆発となるのである

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