ルマルマは人間の姿をした巨人で同時に鯨でもあるが、海岸からやって来て西へ旅し、途中で出会った人間を皆むさぼり食った。人間に殺されそうになったルマルマは、人間に加入儀礼(秘儀)を教え、鯨となって海に帰った(死んだ)。(オーストラリアの神話『エリアーデ著作集 07巻 神話と現実』)
『Death Stranding』というタイトルは、座礁鯨(クジラの集団自殺)をあらわす英語「Cetacean stranding」からとられたようだ(英語版『Death Stranding』のwikipediaより)
この「Cetacean stranding」であるが、クジラが乗り上げることが多いのは「砂浜」である(グーグルで画像検索するとほぼ全例が「砂浜」である)
この砂浜という地形に何があるのか
宗教学的、神話学的に「砂浜」が何を意味しているのかについて考えてみたいと思う
砂浜という境界
砂浜とは海と陸との間にある、狭く細長い領域のことである古くから人はここを「異界と接する場所」と考えていた
異界とは、人間の世界ではない他界のことであり、古代においてそこは「神々の領域」であった
神々といっても狭義の神(いわゆるキリスト教的な)ではなく、「人間を超越した現象(生命の根源や豊穣)を司る領域」、と考えたほうがいいだろう
要するに海の彼方にある、人の手に負えない世界だ
古代の人々は「海」をそのような「エネルギーに満ちた得体の知れない他界」として見ていたのである
沖縄に伝わる「ニライカナイ」や折口信夫のいう「常世」などが海の彼方にある他界の観念として最も純粋な形を残したものであろう
ニライカナイや常世は、「豊穣(つまり生命の根源的エネルギー)」が充満し、「神々の棲む領域」であると同時に「死者の国」でもある
そうした異界と対峙する形で人間が生きる「陸」が存在する
ここに「陸、土、生/海、水、死」という対比が生まれる
この「陸(生)/海(死)」の狭間に位置し、両者を媒介するのが「砂浜」なのである
こうして「砂浜」には「生と死」という両義的な性質が付与されるのである
この媒介的な性質をよくあらわすものに「産屋」という風習がある
出産をする女性が隔離される小屋のことで、出産の際の血の穢れを共同体に触れさせないため、という説明がなされることもあるが、おそらくこれは後付の説明であろう
古事記においてトヨタマヒメは砂浜に産屋を作り、ウガヤフキアエズ(神武天皇の父)を出産するが、なぜ砂浜かといえば、そこが「生と死の境」であるからだ(ちなみにカニを箒で掃うという儀礼的な所作が登場する)
父が海神であるトヨタマヒメの場合、海神を信仰する部族の神話に影響を受けた可能性もあるが、わざわざ陸でも海でもなく砂浜で出産したのは、そこが「生と死の境」であるからと考えられる
海のない土地でも考え方は同一である。海のない土地では「海」は「山」と置換される
民俗学者の柳田國男が論じた祖霊信仰において、山は死者の還る場所であり、同時に神のやって来る領域でもあるとされる(つまりニライカナイと機能的には同一)
人は産屋という境界に置かれた密閉空間で「死から生」へと変転し、また喪屋という境界に置かれた密閉空間で「生から死」へと変転する、というのが古代の人々の死生観であった
そして、竜は海辺の砂浜に立った(『ヨハネ黙示録』)
砂浜は人の生死に密接に関係するだけでなく、彼方から到来した神が依り着く場所でもある代表的な例が「ヒルコ」である
イザナギとイザナミの最初の子であるヒルコだが、不具の子であったために海に流されたという
そのヒルコが流れ着いたという神話が、日本各地に伝えられている
漂着したヒルコは多くは豊穣の神と崇められたという。やがてそれは恵比寿信仰と習合するが、海岸に流れ着いた「謎の物体」を神と崇める風習が、日本には存在したのだろう
能楽には「翁」という演目がある。
この「翁」は老人の姿をしているが、「神」である
神が寿ぐのでめでたい演目とされ、正月などよくTV番組などで放映される
さてこの翁がいるのは、舞台上に極めて巧みに再現された「砂浜」である
砂浜に青い松(「白砂青松」)がある場所に神が降り立つ(依り着く)のである
また『翁』に使われる「翁面」の中には海の彼方から流れ着いた、という伝承を持つものもある(『宗像軍記』)
国譲り神話においても砂浜は重要な場所となる
葦原中国の平定に遣わされたタケミカヅチが降り立ち、コトシロヌシに国を譲るように迫ったのが、「出雲国伊那佐の小濱」なのである(砂浜の持つ境界性ゆえに外交の場に選ばれたのである)
ところが外交が決裂し、その砂浜は一転、戦場ともなる
タケミカヅチとタケミナカタの力比べが行われたのもこの砂浜であった(境界的な領域である砂浜は国境でもあるがゆえに、戦場となる)
砂浜をめぐる物語のうちで最も有名な例が「浦島太郎」であろう
いじめられた亀と出会うのも砂浜であり、帰ってくるのも砂浜であり、玉手箱を開けるのも砂浜である
要するに「異界である海と竜宮城」以外は、すべて砂浜の物語なのである
重要な点は、異界と人の世界では「時間の流れ」が異なるというところだ
より正確に言い表すのならば「異界」は「時間」から隔絶している
というのも、浦島太郎のおとぎ話の中には「四方四季の部屋」というのが登場することがある
この部屋からは四つの季節(春夏秋冬)が同時に見えるという
つまり「時間の流れる速度」が異なるのではなく、異界には「時間が存在しない」
海の彼方にある異界を「常世」ともいうが、常世とは「永久に変わらない神の領域」を意味し、このような時間の超越性こそが「異界」の定義のひとつなのである
(近代における最大の砂浜の物語は、「ノルマンディー上陸作戦」であろう)
(幾度も映像化されたこの第二次大戦最大の作戦において、砂浜は「生と死」の交錯する境界的な時空となる
そこでは神話的な闘争が繰り広げられ、戦争という名の破滅的な儀式が執り行われる)
(生と死が混ざり合い、混沌が極限に達したその瞬間に、名状しがたき何かが異界から到来するかもしれない)
Death Stranding
さてようやく本題に入る上述したように「砂浜」には「境界性」があり、「世界と異界を結びつけ」、「異界との往来」、「生と死の移行」を可能にし「神を降り立たせ」、「神と相まみえる(外交や闘争)」ことのできる性質がある
「砂浜」は「生と死」「陸と海」「土と水」の狭間にある場所であり、それらのどちらにも属さない場所である
「異界」とは、上述したように「生命の根源」が充満する領域で、かつ「神々の住まう領域」であり、そのうえ「死者の国」でもある
「世界」とはもちろん人類が存在する領域である
ティザームービーを見た上で、これらをまとめると以下のようになる
異界には赤子(生命の根源)、骸骨兵(死者)、巨人やクトゥルフ的な神(神々)が属している
海中のシーンは異界であり、黒い水や骸骨の兵士(死者)もまた同じ異界に属している
と、同時に異界にはクトゥルフ的な神々も棲み着いている
これらは何もオリジナルな設定ではなく、ニライカナイや常世と同じ構造を持っているのである
「正と負(生と死)」さらに「神」をも包含した複雑な「異界」が、「砂浜」を挟んで人類の「世界」と向き合っているのだ
ただし「砂浜」は地形的(三次元空間的)な意味での「砂浜」ではない
そこは、土と水の混ざり合う場所、つまりムービーに登場する雨の降る領域である
(世界と異界とが重なった「境界的領域」が「砂浜」となる)
異界からの水が、世界の土と混ざり合ったとき、そこが砂浜と化すのだ(ゆえに異界化した場所には、砂浜の生物であるカニが登場する)
その瞬間、その時空は「世界と異界を結びつけ」、「異界との往来」や「生と死の移行」を可能にし「神を降り立たせ」、「神と相まみえる(外交や闘争)」ことのできる砂浜となる
Death Strandingは「砂浜」で繰り広げられる人類と神々との闘争をプレーヤーに体験させるものかもしれない
「生と死の移行」が可能な境界性を帯びた砂浜においては、人間は生死が曖昧な状態に置かれる(砂浜化が進行すると自殺を試みても、それは果たされない)
さらに世界と異界とが重なりつつある「砂浜」であるため、異界の神が顕現することが可能となる
顕現した異界の神は生者を喰らおうとする。より正確に言えば生者の「時間」を喰らう
この時、世界からも「時間」が消失する(生者は世界に属しており、彼の持つ時間は元は世界のものであるがゆえに、彼の時間が喰われた時、世界からもその時間が失われる)
この時なぜ爆発という激しい反応を伴うかというと、ビッグバンによって時間が始まったように、異界の神が得た時間によって新たなビッグバンが引き起こされるからである(そうして誕生した領域は、異界と融合し、異界は拡大してゆく)
人類が出現するわずか五千万年前まで生息していた種族。この種族は、時間の秘密をつきとめた唯一の種族であるが故に、最も偉大な種族であるとされている。(『時間からの影』大いなる種族について『ラヴクラフト全集3』)
人類世界に属する者の時間が喰われることで、世界は時間を失い、人類は陣地を失う
砂浜における闘争はそこが2つの世界が接する境界であるがゆえに領土争いの色を帯びる(国譲り神話にあるように)
こうして誕生した新たな異界領域であるが、異界には時間が存在しないため、異界化された新しい領域にも時間は存在しない(ちなみに近代的兵装のマッツが第二次大戦中に出現できるのも、異界が人類世界の時間とは無関係に存在するからである)
また、浦島太郎が玉手箱を開けたときに起きた現象は、老化ではなく「時間の喪失」である。急激な老化という激しい反応は時間を喪失したことによる現象である。(ムービーで黒い雨に濡れると急激に老化するのは、同じ現象であると考えられる。
人類の最後の爆発は、世界から時間が消失するという、世界の異界化によって発生すると考えられる(時間が存在しなくなるので、「それ以降の爆発」は原理的に不可能となり、それゆえ「最後」なのである)
無垢の予兆
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時のうちに永遠を握る。(『ブレイク詩集』)
さて闘争に破れたノーマンであるが、赤子の力で復活する
なぜ復活が可能かというと、赤子が「生命の根源」であるからである
この生命の根源という属性もまた、ニライカナイや常世といった異界の属性の一つである
おわりに
本来であれば「軍事」「歴史」「社会情勢」「科学」を絡めて語りたいところだが、ムービーがあまりにも非現実的であり(それさえもミスリードかもしれないが)、また実は小島秀夫という人物をあまり詳しく知らない(ゲームとしてプレイしたのはMGS5ぐらいである)ため、無責任かつ悪ふざけも込めて、思い切った妄想を爆発させてみた次第である考察するうえで困ったのが、赤子とクトゥルフ的神々、さらに死者の軍勢を統合する原理が見つからないことである。各々に別々の設定があるのではないかと思われるほど各要素に統一感がなく、一つの作品としてイメージできなかったのである
しかしながら各要素を「異界」というパースペクティヴから俯瞰した時に、意外に馴染みのある概念が想起されたので、それを起点にいつものようにダラダラと連想しつつ書き連ねていった次第である
またredditの古代エジプト神話説をすでに読んでいたので、あえてちょっと日本神話にこだわってみたところもある。エジプト神話については全く詳しくないため(「アサシンクリード オリジンズ」をプレイした程度の浅い知識)、古代エジプト神話説がどれくらい蓋然性があるのかすらわからないが、一読するかぎりかなり説得力があるように感じた。とはいえ、異界観(他界観)は世界どこに行ってもだいたい似通っているので、日本神話から語っても、もしかしたらまぐれでカスることもあるかもしれない
ただし時間の相対性、つまるところアインシュタインの相対性理論等の科学的知見を完全に無視しているので、全くの見当違いという可能性も高い
本音を言えば、テロリズム、難民問題、AI、VR、ヒッグス粒子、統一理論、SNS、LGBT、言語学あたりに触れてくると思っていたので、現在発表されているティザームービーはやや予想外であった。
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