デススト2(Death Stranding2)をプレイしたのは2025年の12月はじめの頃。実はその少し前に飼い猫が虹の橋を渡っていた(ネコ界隈では飼い猫の死をこう呼ぶ)
だからデススト2をプレイしているときはペットロスの最中だったといっていい。ただ本人としてはそういったことにあまり動じないタイプだと思っていたし、最後の一年ほどの介護で疲れていたことから、悲しいというよりほっとしたという気持ちの方が強かった。
とても賢い猫だったので自分が負担になっていることも理解しているようだったし、とても我慢強い猫だったので辛くても痛くてもあまりそれを表に出すことはなかった。それでも最後まで頑張ってくれたと思う。
飼い猫が虹の橋を渡って少ししてから私は奇妙な症状に悩まされることになった。昼夜問わず、ふとした拍子に死んだ猫のことを思い出すと身体が動かなくなるのだ。それは作業しているときも歩いているときも入浴中でも突然やってきて私の身体の動きを停めてしまう。そして私はあの猫がもういないという事実に心身を打ちのめされ、叩きのめされる。10秒とか15秒の短い時間、私は途方に暮れたように動かなくなり、何も出来なくなる。
デススト2をプレイしていたのはそんな時期だ。そして私はデススト2の世界に危険なほどのめり込むことになった。それはあきらかに現実逃避だった。
偶然にもゲーム内のサムも大事なものを失った直後で、そのPTSDに悩まされているところだった。でもこのときは自分とサムが似たような境遇にあるとは思っていなかった。サムも大変やなぁ、くらいにしか感じていなかったのだ。
あれ? と思ったのはゲームの中盤を過ぎたあたりだろうか。普段の私はわりとクリアを急ぐタイプなのだが、このときは何故か急ぐ気になれなかった。どうしてか非効率なルートを選んで配達していた。でもこの時はまだ自分でもその理由が分かっていなかった。
私はサムを操作してオーストラリアの大地を彷徨い歩いた。ただ無心に依頼人と出会い荷物を預かりプレッパーたちに荷物を届け続けた。可能なかぎり寝食を惜しんでゲームをし続けた。27時間連続でプレイしたこともある。
集中力を欠いて配達物を車に積み忘れたりも頻繁だった。けれどもいらだつこともなく淡々と、まるでそれが敬虔な儀式であるかのように一心不乱にプレイし続けた。
多分このとき私はサムになっていた。サムがBBポッドに入ったルーと共に旅をしたのと同じように、私はBBポッドに亡き飼い猫を入れて旅をしていたのだと思う。クリアしたくなかったのは、まだ飼い猫と一緒にいたかったからなのだ。
サムも同じなのだと思った。彼もルーがもういないことに最初から気がついている。それでもその現実を受け容れられず拒絶するしかない。一作目よりもサムは寡黙であまり喋らない。でも私には一作目よりもサムの感情が伝わってくるような気がした。
亡き飼い猫と共にオーストラリアの大地を気が済むまで歩き、私もBBポッドが空であることに気づいた。もうあの猫がいないことに気づいた。そしてそれを受け容れることができた。
不思議なことにデススト2をクリアしたあたりから、猫のことを思い出すと身体が動かなくなるという症状がでなくなっていた。むしろ楽しかった頃のことが甦ってきて懐かしい気持ちになることが多い。
いま思い返すと私にとってのデススト2は巡礼の旅だったようなような気がしている。それは痛んだ心を癒すための旅であり、別れを受け容れるための旅だったように思う。
デススト2のPC版が発売されるというのを知り、ふと思い出したので書いてみた。飼い猫と最後の旅をさせてくれたデススト2に感謝を込めて。
※一発書き推敲なしなので文章に見苦しいところが多々あると思います。寝かせたり推敲したりすると封印してしまいそうなので勢いでブログに載せることにする
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