本稿は考察でも解釈でもない。筆者がゼノ3をプレイして感じたこと(感想)を好き勝手に書き殴ったものである
道徳の系譜
哲学者ニーチェは『道徳の系譜』で君主(貴族)道徳と奴隷道徳を比較し、現代においては後者の奴隷道徳が勝利を収め、社会を毒していることを論じている
二つの道徳の特徴を抜粋すると以下のようになる
君主(貴族)道徳
肯定の言葉、「然り(それでよし!)」で自己を肯定することから生まれる
自発的に行動、成長する能動的なもの
高潔さの道徳
奴隷の道徳
否定の言葉「否(ナイン)」で他者を否定することから生まれる
外部の世界に対する受動的なもの
ルサンチマン(怨恨の念)の道徳
君主道徳を体現していたのが高貴な人々であり、ニーチェによればそれはギリシアの貴族に代表されるという
また奴隷道徳を体現するのは、ルサンチマン(怨恨の念)に毒された者たちであり、苦悩する者たちであり、被支配者なのだという
この二つの“種族”の特徴を抜粋したものが以下である
高貴な人々
みずからを「運の良い者」と感じていた
自分の力で自分の生を切り拓く能動的な人々
行動が即、幸福と一致する
自分たちを良い者と考え、力の劣った者たちを悪い者(軽蔑の意はない)と考える
本当の意味で「自分の敵を愛する」ことが可能
「良い」という根本概念をみずから考えだす(悪はその副産物)
自由な意志の支配者(至高な人間)
ルサンチマンの人々
率直でも素朴でもなく、その魂はもの欲しげ
自分に嘘をついてだまし、偽の幸福を作りだす必要がある
行動を避け、瞑想的、感情的
幸福は、麻酔、失神、休息、平和など受動的なもの
自分を卑下し、謙遜する
最初に「悪しき敵」を考えだし、その対照的な像として「善人」なるものを考え出す
猛禽に襲われる小羊に例えられる
無力さゆえにみずからを善人とすることでおのれを慰める
ルサンチマンの人々についてニーチェは「猛禽に襲われる羊の群れ」のたとえを用いている
強者である猛禽に襲われなすすべのない羊は、みずからの力の無いことを恥じるのではなく、猛禽を悪に仕立てあげるというのである
猛禽に襲われるのは自分たちが力がないからではない。猛禽が「悪」だからなのだと
そして猛禽が悪なのだから、自分たちは「善い存在」なのではないか、とするのである
ここに強い=良い、弱い=悪いという古代英雄的な価値観は転倒され、弱い者=善というキリスト教的な奴隷道徳が発生したのである
現代においてはこの奴隷道徳が社会に蔓延り、全人類を苦悩の病者にしている、とニーチェは言う
禁欲的な司牧者
こうした奴隷道徳に連なるルサンチマンの人々を率いるのが、司牧者たちである
司牧者は人間の自己否定願望が頂点に達した存在である(別の人間になりたい、別の場所に存在したいという願望)
故に彼らもまた「弱き者」ではあるが、強き者としてさらに弱き者を支配する術に長けている
そして苦悩する者たちの群れを本能的に率いる牧者となって、これらの人々を生(偽りの生)にひきとめるのだという
司牧者は苦悩する者の傷の痛みを抑えるが、同時にその傷にルサンチマンという毒を塗りつけることで相手を支配する
司牧者は病める家畜たちの救済者として、牧者として、弁護人として、苦悩する者たちを支配するのである
この司牧者は力ではなく狡智により闘うという。そのために彼らはみずからを新種の猛獣に作り替える、あるいはそのように見せかけるという
そうして畏怖すべき猛獣となり、苦悩する者に秘密の力をひけらかし、代言者となり、世界に苦悩と分裂と自己矛盾の種を蒔こうとするのである
司牧者は相手が苦悩する者であれば、いかようにも主人になれるという手腕と技を持っている
苦悩する者がその苦悩の元を世界に求めるとき、司牧者は苦悩の元は世界ではなく、苦悩する者自身にある、と偽りの台詞を告げるのである
その瞬間、本来は外部の強き者に向けられるはずであったルサンチマンは方向を変える
強き者へと向けられていてルサンチマンは転換され、自己へ向かい、その自己否定が極限に達したとき、苦悩する者は新たな牧者となるのである
ニーチェによれば司牧者は敵としては最悪の者であるという。司牧者は無力であり、それ故に彼らの憎悪は法外にまで強まり、有毒なものに成長するからである
アイオニオン
苦悩する者、小羊に例えられるこの者たちこそ、小羊(子羊)という名をもつケヴェスとアグヌスの兵士たちであろう
※AgnusとKevesはそれぞれラテン語とヘブライ語で「子羊」を意味する
そして苦悩する者たちを率いる者こそ、司牧者の長たるゼットとその彼によってルサンチマンの方向を変えられたメビウスたちである
アイオニオンは、奴隷の道徳を持って世界を支配する司牧者と、君主道徳を体現する者たちとの闘争の場である
現実世界においては奴隷道徳が勝利し、ニーチェが嘆くように西洋社会はかつての良いと悪いの価値観が転換してしまった
アイオニオンではみずからを善とし、外部の者を敵とするルサンチマンに汚染された者たちが相争う
それら子羊たちを率いるのが苦悩する者たちの牧者たるメビウスである
ゼットは司牧者の長として、苦悩する者の傷の痛みを抑えると同時に毒を注ぎ込み、彼らを自己否定の極限へと引きずり込む
ルサンチマンの方向を変えられた者は必然的に自己否定の極へと至り、新たな牧者として、新種の猛獣(メビウス)へと変化する
ノア
ノアたちは君主道徳を引き継ぐ者たちである
苦悩する者たちへの同情の響きを残しながらも、貴族的な者たちのように〈良い〉という根本概念をみずから考え出す
そして運が良いことを自覚した彼らは、その行動が幸福に繋がることを確信しながら戦い、ついに自由な意志の支配者となる
Nに関して言えば、牧者によってルサンチマンの方向を変えられた典型的な苦悩する者である
ゼットが体現するのは、禁欲的な理想である。閉ざされた世界においてはあらゆる欲望を捨て去ることが、苦しみから逃れる一つの方法である
ただしそれはただ生きているというだけの生であり、生を根本から否定する姿勢であり、虚無への意志である
ゼットの「面白いものなあ」に関しては、ニーチェは同じ『道徳の系譜』において、人間には他人の苦悩は楽しいものである、という根源的な命題があると述べている
トロイア戦争が神々のための祝祭劇であったように、祝祭とは苦悩や残酷さがつきものであり、それ故に神々を喜ばせたのである
そしてそれを歌う詩人たちの祝祭である限り、そこに描かれた苦悩は詩人たちのための祝祭でもあった
すなわち、苦悩する者を率いるルサンチマンの詩人たるゼットにとって、苦悩は面白いものなのである
またニーチェによれば禁欲への理想と司牧者の精神がなければ、人間の歴史はきわめて面白みのないものになったに違いない、と述べている
上述したがアイオニオンは君主道徳と奴隷道徳の戦い、すなわち貴族的な者と司牧者との戦いの場と考えられる
しかし現実世界においてこの戦いは司牧者の勝利となっている。すなわち現在は良いと悪の転倒した世界である
よって禁欲的な司牧者を克服するためには、君主道徳ではない別の価値観なり道徳観を考え出さなくてはならない
禁欲的な司牧者とは、禁欲的理想に仕える僧侶である。理想すなわちこうあるべきだという姿である
ならばこの司牧者を克服するためには、禁欲的な理想を求めることを拒絶しなければならない
理想とは未来においてこうあらねばならぬという呪いである。つまり確定されているべき未来の姿を希求する態度に他ならない
そこで禁欲的な司牧者に抗する一つの答えとして未来を未確定なものとし、未確定ゆえに先に進む価値があるのだ、という道徳を示す必要があったのである
つまり神無き世界、苦悩と悲しみに満たされ、虚無へ至ろうとする世界において、それでもなお不確かな未来に足を踏み出そうとするノアたちの能動的行動である
ここに君主道徳と奴隷道徳の対立(強き者と弱き者の対立)を乗り越える第三の道徳、「超人」の萌芽を見るものである
エンディング
エンディングの最後にノアのモノローグが挿入される
これが 俺達の世界のすべてだ
思い出は朝陽に溶けていき
そして 新しい一日が始まる
俺達の前には道がある
沢山の道が
どれを選ぶかは 自分次第
時には 迷うことだってあるだろう
立ち止まって 泣くことだってあるだろう
だけど それでいいんだ
道は 彼方まで続いてるんだから
さぁ 前を見て――
目指した地平に向かって――
進め
ノアは自由な意志の支配者として、自分の力で自分の生を切り拓こうとしている
前に見えるのは無数の道、それはすなわち不確かな未来である。その道を選ぶことは迷い、悲しみをもたらすかもしれない
だがその道は確かに前にあり、その地平に向かってみずから進むことが、虚無へ陥ることなく、生きることへと繋がるのである
蛇足ながらこのモノローグにひと言だけ応答するとしたら次の一語になる
然り!(それでよし!)
蛇足
ゼノブレイド3が社会風刺的な色彩を帯びるのは、アイオニオンと現実世界がともに司牧者に支配された奴隷道徳が蔓延る世界だからであろう
『道徳の系譜』のなかでは「第三論文 禁欲の理想の意味するもの」の「14節 悪しき空気」のあたりの病者による「正しい」中傷の議論などは、現在のSNSが陥った状況そのものであるとも言える
参考文献
『宗教学の名著30』(ちくま新書)
『道徳の系譜学』(光文社古典新訳文庫)
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