タイトル名からも分かるように、ダークソウルとエルデンリングは異なるシリーズである
プレイフィールは似ているものの、その土台となる創世神話や世界観、設定は同じものではない
しかしながら両者には共通する点が多くある。これをもってダークソウルとエルデンリング神話を統合する意図はないが、通底する思想には類似点が見られるのである
生命
ダークソウルとエルデンリングを通底して流れる思想のひとつが、生命への好奇である
一般に生命は素晴らしいもの、奇跡、輝かしいもの、と表されることが多い。しかし生命は他者を貪り食うことでしか生きられない、という負の側面も持ち合わせている
生命は他の生命を喰らうことでしか生きられない。その貪欲さを加速させていけば、やがて生命は他の生命や世界を貪り尽くし、そのとき生命や世界は滅びることになる
こうして見ると、生命とは世界を侵食する病原菌のようにすら感じられる
生命とは輝く光の存在なのではなく、むしろ光を喰らい世界を深淵に飲み込もうとする闇なのである
この生命を闇と見る姿勢こそが、ダークソウルシリーズに貫かれた思想である
そこで人類はダークソウルの欠片(「ゲームの食卓」より)とされ、光の王である神は人のもつ闇を何よりも恐れている
人の闇は世界を喰らい、神々を喰らい、そして世界を滅ぼしてしまうからである
そこで神々は闇という名の人の欲望を充足させるべく、輪の都という夢の世界を創造し、人の祖である小人の王たちを封じ込める
また人類には肉体という光の枷を与え、内にある闇(ダークソウル)を封じ込むことに成功する
ダークソウルという欲望(煩悩)は、放置しておけば飽くことなく他者の生命や世界を侵食していくからである
このように人の根源的な欲望を悪とするのは極めて仏教的な考え方である
仏教では人の欲望(煩悩)は悪とされ、人は煩悩ゆえに生と死を永遠に繰り返す輪廻に囚われている、と考える
人が本当の意味で救われるためには、欲望(煩悩)を滅却し、生と死を超越したニルヴァーナ(涅槃)の境地に至らねばならない
この涅槃の境地として示されたのがダークソウルにおける古竜崇拝である。古竜は生と死を超越した存在であり、俗世に嫌気のさした英雄たちはそれを求めて古竜の頂へと赴くのである
一方、生命の光の部分を受け継いだ神々は輝かしい秩序を打ち立てるが、やがてそれも衰えていく
なぜならば生命の本質的な部分は「闇」にあるからである。これは王たちが元々闇から産まれた存在であることによって示されている
そして、闇より生まれた幾匹かが
火に惹かれ、王のソウルを見出した(ダークソウル1オープニング)
闇を起源として生じた生命は、闇から離れては生きていけないのである
いかに王のソウルを燃やすことで世界を存続させようとしても、やがて世界を照らす火は衰えていく。なぜならばその火は生命の源であるソウルを燃料として燃える生命の光だからである
人間性
ソウルが生命すべての源であるなら
人のみにある人間性とはなんなのか?
そして生命の本質は光ではなく闇にある。光の存在である神々は闇をもっておらず、生命の火を燃やし続けることが本質的に不可能なのである
グウィンは巨大な王のソウルを燃やし続けることで、火の時代を延命させることには成功したが、新たに火の時代を打ち立てるには至らなかった
不死人が火を継ぐことができたのは、不死人が闇を宿していたからである。その不死人は光の枷たる肉体を持っていた
つまり人類という存在は、光と闇を統合した存在なのである
本来的に混じり合うことのない光と闇が統合されることが薪の王の資格である(このことから巨人とは、巨大な闇(人)を巨大な火の枷により封じた存在である)
※上述したがグウィンは火の時代を延命させただけで、新たな時代をはじめることはできなかった
光と闇が混じり合った存在が薪となり、ソウルを燃料として燃え上がる。しかしやがてソウルを使い果たし、闇だけが残る
燃やされたソウルは消滅することなく世界に離散し、やがて再びソウルを集めたものが火を継ぐ。これが火継ぎの思想である
そして火が継がれる度に、闇は深くなっていくのである
エルデンリング
エルデンリングにおいては光は生、闇は死に換言されている。しかし神が光(生)の永遠を求めるがそれを果たせず、世界が歪んでいく、という構造は同一である
神は闇(死)を否定して、それを封じることで世界に永遠をもたらそうとする。しかし生命とは光(生)と闇(死)が混ざり合うことで生じる現象である
そのどちらか一方を封印することは世界のルールを歪ませることであり、その結果として世界は滅亡に向かうのである
具体的にいえばダークソウルでは世界の滅亡は火の衰えに例えられ、エルデンリングでは水の停滞として例えられる
またこれらは比喩の域を超えて実際に火が衰えているし、実際に停滞により腐敗(朱い腐敗)が生じている
滅びつつある世界を救うのは、ダークソウルにおいては光の肉体に闇を宿した人類であり、エルデンリングでは死と共に戻ってくる褪せ人である
死と共にある褪せ人とはすなわち、死を宿す生命のことであり、これは闇を宿した光の存在、人類のことである
このようにダークソウルとエルデンリングでは、世界の構造やその滅亡する理由、神々の関与、救済者の性質などがほぼ同じ構造を持っている
ソウルとエルデンリング
同じ構造を持つのは物語や世界だけではない。両作品の最も神秘的な概念であるソウルとエルデンリングもまた似たような構造を持っている
端的に言えば両方とも賢者の石である
ソウルは光と闇という相反するものの統合(循環・相克)により生じるものであり、またエルデンリングは生と死というやはり相反するものの統合(循環・相克)によって生じるものである
ダークソウル1のオープニングでは、はじめての火がおこり様々な差異が生じた後に、王のソウルが見出されている
つまり王のソウルとは、様々な差異が統合(循環・相克)することで生じたものである。二つの概念の衝突がソウルというエネルギーを生じさせたのである
これはエルデンリングにおいて、生と死が統合(循環・相克)することでエルデンリングという黄金の律が生じたことと類似している
ダークソウルとエルデンリング
以上のようにダークソウルとエルデンリングは、その根柢となる思想が共通している
その思想とは相反するものの統合(循環・相克)により、奇跡的な現象(物質)が生じ、それによって世界や生命が創造される、ということである
このとき創造されたのは錬金術でいう賢者の石であり、それらはそれぞれソウルとエルデンリングと呼ばれ、そのどちらもが世界と生命をもたらすのである
このときもたらされた生命は正の面と負の面を兼ね備えている。簡単にいうと光と闇、生と死である
しかし生命の長である神(グウィン、マリカ)は生命の負の面を拒絶し、それを封じてしまう
結果、世界は歪み、衰え、そして滅亡に向かっていくのである
このように生命をもたらしたものの創造方法や、生命に対する神の態度や対応、そしてその滅びという結果はダークソウルとエルデンリングで同じ構造を持っている
いわばエルデンリングは、ダークソウルを換骨奪胎して語り直した物語である
GRRM
しかしここで疑問が生ずる。エルデンリングの神話はGRRM(ジョージ・R・R・マーティン)の創作したものなのではないか、と
GRRMの創作神話がなぜダークソウルと同じ構造を持つのか
おそらくGRRMの神話と宮崎氏の神話がたまたま一致していたわけでも、宮崎氏の希望を汲み取ってGRRMがそれに沿うような神話を創作したわけでもない
端的に言えば、上述したようなフロム的神話構造は、ほとんどの創世神話に適用することが可能なのである
ほとんどの創世神話には神と人、という構造が見られる。この構造に対してフロム的神話構造は言い方は悪いが寄生することができるのである
この点でフロム的神話構造はグノーシス主義の思想と同じ性質をもっている
グノーシス主義とはユダヤ・キリスト教の異端のひとつである
その特徴のひとつに、今ある神は偽物であり実は悪の存在であり、人という光は偽の神により肉体という監獄に囚われているのだ、とするものがある
つまり既存の神話の善と悪を反転させることで、現実にある不幸や悪を理解しようとしているのである
このグノーシス主義的な思想は、原理的にほとんどの一神教に効果がある。なぜならば世界の起源を善なる神に求める一神教では、現実にある不幸や悪を完全に説明することができないからである(不幸や悪の存在を神が許していることになる)
複雑になるのでこれ以上の言及は控えるが、グノーシス主義は一神教に原理的に付随する宿痾のようなものであり、あらゆる一神教に感染可能な寄生宗教思想である
つまり、どのような神話であれ、それが一神教的な形態を持っているのであれば、グノーシス主義的な神話に書き換えてしまうことが可能なのである
フロム的神話構造はこれと同じ性質を持っている
上でグノーシス主義神話の特徴のひとつに、今ある神は偽物であり実は悪の存在であり、人という光は偽の神により肉体という監獄に囚われているのだ、とするものがあると述べた
フロム的神話構造では、このグノーシス主義的神話をさらに反転させている
すなわち、神は光の存在であり、人という闇は神により肉体という光(火)の枷に囚われている、となっているのである
なぜこのように反転するかというと、ダークソウルがダークファンタジーだからである
基本的に宗教は自らの宗派の神や教義の正しさを証明しようとする。ユダヤ・キリスト教ではヤハウェやキリストの善性を証明しようとするし、グノーシス主義においては現神を否定することで教義の正しさを反証しようとする
どのような宗教であれ、信徒を救うという大義名分がなければ成り立たないのである
よってどのような形であれ、人は救われる存在であり、信仰によってのみそれが可能となるのである
だがダークファンタジーにおいては、その限りではない
人が世界を滅ぼす闇であったとしても、構わないのである。またこの観念は露悪趣味からのものではなく、生命現象を透徹に見通した結果として導き出されたものである
つまり生命は他者の生命を犠牲にすることでしか生きていけない、という現実である
生命が生きようとする限り、欲望を持つ限り、煩悩を持つ限りにおいて、生命は互いに喰らい喰らわれるという無間地獄のなかにあり続けることになる
その無間地獄こそ生と死の永遠の繰り返しである輪廻である
神話
神話というように、神話は神や神的な存在が登場する物語である。逆に言えば神の存在しない物語は神話とは呼べない
よって神話の定義のひとつに「神」が登場することが挙げられる
そして基本的に神話は世界の創世を物語るものが多い(あらゆる神話は創世神話に起源を持つ)
神に創造された世界にいるのは生命であり、そこには人や動物、他の神々も含まれている
つまり神話の基本要素は、神、世界、生命(人)ということになる
そして神、世界、生命(人)が登場する物語であれば、その神話をフロム的神話構造に書き換えてしまうことが可能である
つまり神を光(生)、人を闇(死)とし、世界をその両者が相克する場とすることで、ダークソウルやエルデンリングの基本構造が構築されてしまうのである
よってGRRMがどのような神話を創造しようとも、エルデンリングは今あるエルデンリングのような物語構造になったはずであるし、実際そうなっている
ダークソウルとエルデンリング
神は自分たちを永遠のものとするためにあらゆる手を尽くす(闇の封印や運命の死の封印)。しかし神の行為は世界を歪ませる結果にしかならない(火の衰えや水の停滞)
なぜならば世界は光と闇、生と死の相克や循環によって維持されているからである
そのどちらかを取り除いてしまうことは世界の維持を難しくすることにしかならないのである
そして一方を封じたことで一時的に勢力を増した強い光は、今度は濃い闇を生じさせ、それはやがて神々や世界を喰らい尽くすのである
このような光と闇のバランスが崩れた時に現われるのが世界の救世主たる不死人であり褪せ人である
彼らは光(生)と闇(死)を統合した存在であり、故に世界を調律する力を持つのである
熱と冷たさ
ダークソウル1のオープニングには、はじめての火と共にもたらされた差異として、熱と冷たさ、生と死、光と闇が挙げられている
だが、いつかはじめての火がおこり
火と共に差異がもたらされた
熱と冷たさと
生と死と
そして、光と闇と(ダークソウル1のオープニング)
これらの差異が生じさせる力はダークソウルの作中でイザリスの魔女、最初の死者ニト、光の王グウィン、誰も知らぬ小人のもつ王のソウルとして表現されている
しかしダークソウルにおける最大のテーマは「光と闇の相克」である。他の差異は王のソウルという重要なものとして登場するものの、作品の中心テーマからはやや外れている
つまりダークソウルは光と闇の物語だったのである
対してエルデンリングは生と死の物語である
ではもし仮に次の物語があるとして、最大のテーマは何になるか?
熱と冷たさであろう
これまでの構造を当てはめるとしたら、熱の神(太陽神)による絶対零度(冷めゆく宇宙)との絶望的な戦いになるだろうか
熱と冷たさというやや具体性に欠ける概念の衝突なので、その物語はかなり抽象的なものになるのかもしれない
それはファンタジーでもなく、あるいはSFという可能性もある。例えば熱を発する機構と冷めた鉄の物語である
エルデンリングは生の視点がやや強めであり、新鮮味もありましたが、ダークソウルのほうが好みでした。
返信削除非常によくまとめられており、多くの人の目に触れてほしい考察です。
ブラッドボーンは何の相克を表現してたんだろう。理性と本能?
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