DS3のエンディングは全4種ある
1.はじまりの火を継ぐ者END
2.火の簒奪者END(亡者の王)
3.火継ぎの終わりEND
4.火防女殺害END(火の簒奪END)
このうちトロフィー(実績)として設定されているのは、1~3である
4は3の派生エンディングであり、トロフィー(実績)は設定されておらず、その正式名称は不明である
また4はWikiなどでは「火防女殺害END」とされるが、攻略本には「火の簒奪END」と記されている
※実績の並びは1.3.2.4なのだが、分かりやすさを優先させて順番を変更した
1.はじまりの火を継ぐ者エンディング
火を継ぐことで世界を更新するエンディング。ただし継がれた火はDS1の頃に比べると弱々しくなっている
火を継いだ直後、炎が篝火を越えて燃え広がる
DS1の火継ぎ |
直後、爆発的な炎上
DS1の火継ぎ2 |
一方、DS3の火継ぎは比べものにならないほど静かである
かろうじて燃えているという程度で、燃え広がることはなく、世界は明るくならない |
「はじまりの火を継ぐ者END」は、最古の火継ぎの王グウィンが行なった儀式の反復であり、グウィンの意志を継ぐエンディングである
ただしDS1の火継ぎの炎が激しく燃え広がり、さらに爆発的に炎上するのに比べ、DS3のそれは明らかに弱々しい。また火を継いだにもかかわらず、空のダークリングは健在である
火の無き灰がはじまりの火を継いだことは確かであろう。だが、それにより世界が更新されたかについては不明である
火継ぎは火の無き灰のレベルに留まり、かろうじて火が保たれている状態とも考えられる。灰は燃焼物が燃え尽きた後の残骸であり、薪のように炎を燃え立たせるものではないからである
火の無き灰は、かつてあったはじまりの火の熱を、その小さな火をわずかにその身に宿すことしかできないのである
このことが「火継ぎの終わりEND」に繋がっていくのだが、それは後述する
2.火の簒奪者エンディング
火の簒奪はDS1で展開されたカアスの遺志を受け継ぐものである
我カアスが、貴公に、正しい使命を伝えよう
理に反して火を継ぎ、今や消えかけの王グウィンを殺し
そして、四人目の王となり、闇の時代をもたらすのだ(闇撫でのカアス)
貴公こそ、真に人の王、闇の王よ
さあ、進むがよい。消えかけのグウィンを殺すのだ(闇撫でのカアス)
我カアスは、ここで待っているぞ
戻った貴公に仕え、闇の時代をはじめるために…(闇撫でのカアス)
それでは、世界に、真の闇を…
我が王よ…(闇撫でのカアス)
またやや曖昧であった闇の王の意味が亡者の王と限定されている
貴公、我らの王よ
簒奪者におなりください
きたる火継ぎのその時に、火を奪ってくださいませ
…火の時代とは、古い神から続く時代であり、火継ぎとはその継承です
だが、既に神は無く、火の力は、移譲されるべきでしょう
…あるべき人の姿、すなわち我ら亡者の王に(ロンドールのユリア)
生者ではなく亡者こそが、あるべき人の姿であり、亡者の王こそが闇の王なのである
なぜ亡者はあるべき人の姿、とされるのか?
生者と亡者のもっとも大きな差異は、その外見である。生者の肉体が瑞々しい状態に保たれているのに対し、亡者の肉体は呪いが進むと干からびてゆく
ロンドールのユリアは、こうした人の二つの状態に対し、亡者の姿こそがあるべき人の姿である、と断言している
逆に言えば、生者の姿はあるべき人の姿ではない、ということになる
同じことをアン・ディールは次のように表現している
かつて光の王となった者は、
人という名の闇を封じ込め…
そして人は、仮初の姿を得た(アン・ディール)
人という名の闇は神により封じ込められ、生者の姿を得たのである
つまり人の肉体は、神によって与えられた仮初の姿であり、人のあるべき姿「闇」はその中に封じ込められているのである
簡単に言うのならば、神は人という名の闇を「肉体」という器に封じ込めたのである
すなわち、人の肉体こそが「火の封」である
輪の騎士の鎧
古い人の防具は、深淵によって鍛えられ
僅かにだが生を帯びる
そしてそれ故に、持ち主たちと同様に
神々に火の封を施されたという
肉体は物質として目に見える形で存在する。それは火であるが故に明るく輝き、目に見えぬ存在をかき消してしまう
輪の騎士のフード
彼らは深淵に浸された黒布を被り
またその目を幾重にも覆う
火の封がすべての
見えざるものをかき消さぬよう
それは、神々への小さな抵抗である
肉体(火の封)を得た者が、それでもなお「見えざるもの」を見ようとするのならば、強い光を発する肉体を、その目を「深淵に浸された布」で覆わなくてはならない
なぜならば、肉体(火の封)を得た者が「見る」という行為が、見えざるものを、その強い光によってかき消してしまうからである
さて、人の肉体は神に施された火の封であり、人の本来の姿ではない
人の本来の姿とは、「人間性」である
「人のみにある人間性」は逆に言えば人であることの条件である |
人間性
この黒い精もまた人間性と呼ばれるが
詳しいことは分かっていない
ソウルが生命すべての源であるなら
人のみにある人間性とはなんなのか?
人間性という闇を恐れた神が、その闇を封じた器こそ人の肉体なのである
だが火が陰ったとき、肉体という火の封は破れ、そこから人の本性たる闇が漏れ出す。この時、火の封が破れことで生じるのがダークリングの炎である
生者の瑞々しい肉体は神に与えられた仮初の姿、神に施された火の封であり、人のあるべき姿ではない
人のあるべき姿とは、火の封を破り、本性である闇を取り戻した亡者なのである
少々ややこしいのだが、ユリアが人のあるべき姿と言ったときの、あるべき姿とは、干からびた亡者の姿ではない
干からびた亡者の姿は、単に神に施された火の封が綻びた結果そうなっているだけであり、真に彼女が指し示しているのは、干からびた肉体を破って漏れ出ようとする「人間性」の方である
ロンドールにとって、肉体(外見)はすでに「どうでもよいもの」となっている。重要なのは内に宿る闇(人間性)であり、そのためロンドールは偽りの指輪を使うことをためらわないのである
暗い偽りの指輪
ロンドールの亡者たちが用いる
偽りの指輪のひとつ
亡者でない実体の外見となる
非力に老いさらばえ、欺瞞に満ち己を見せぬ
故にロンドールの亡者は忌み嫌われるのだ
神は肉体という器に人間性という闇を封じ込めた。結果、人には肉体を持ったことから生じる食欲や性欲が発生した。また肉体が「火」を根源とするものであるために、死が生まれ、同時に生も誕生したのである
古竜の瞳
古竜に祈り、それに近づこうとする超越者たちの業
生とは弱さであり、火の者である神々も例外ではない
超越者の目標は、生命とは別のあり様なのだ
人は仮初の姿のまま生き、子孫を残し、死んでいく。それが神の火の封の正体である
だが火が陰り、火の封が綻びると、闇の本性がダークリングとして現われる
ダークリングは、人に宿る闇が肉体から漏れ出ようとする際に、火の封が破れて燃え上がることにより発生する炎の輪である
ダークリングが現われた人は不死となる
だが、そもそも人が死ぬのは、神に施された火の封が原因である
本来不死である闇は肉体(火の封)という枷によって縛られ、囚われたことで不朽性を失い、必滅の存在となったのである
よって、火の封が破れた今、闇が枷から解き放たれた今、人は死から解放されて「不死」となるのである
人が人の本性のまま生きるという意味において、ロンドールの思想は正しいのである(それが世界に災厄をもたらすものであれ)
3.火継ぎの終わりエンディング
火継ぎの終わりENDは、火(光)はもちろん闇すらも存在しない世界に至ろうとするエンディングである
なぜ火継ぎの終わりにより闇すらも存在しない世界となるのかというと、闇もまた「はじめての火」により生じた差異であることが、DS1のオープニングに語られているからである
だが、いつかはじめての火がおこり
火と共に差異がもたらされた
熱と冷たさと
生と死と
そして、光と闇と(DS1オープニング)
火(光)や闇さえ存在しない先に何があるのか、それを探究しようとしたのがアン・ディールである
光すら届かず、闇さえも失われた先に
何があるというのか
だが、それを求めることこそが
我らに課せられた試練(アン・ディール)
いわば「火継ぎの終わりEND」は、アン・ディールの意志を継ぐ「探求者END」であるともいえる
かつてアン・ディールは、火と闇の因果を越えるために「竜の子」を生み出した
私は人によって生み出された竜の子
かつて定められた因果を越えようとした者たち…
その者たちが私を生みました(緑衣の巡礼)
その試みは失敗に終わったが、その宿願はDS3の火防女により、部分的ながらも成就したのであろう
部分的、というのはアン・ディールの求めた「光すら届かず、闇すら失われた先」と、火継ぎの終わりにより至る火の消えた世界は、微妙に異なるからである
あの瞳の見せる、火の消えた世界は、
永遠に続く暗闇です
アン・ディールの望み通りに火は消え、光は失われた。しかし火防女の目はまだ永遠に続く暗闇を見据えている
あるいはアン・ディールは、その永遠に続く暗闇の先に何があるのかを求めたのかもしれない
だが、その先にあったのは、小さな火たちであった
どこかずっと先に、小さな火たちがあるように思えるのです
それはまるで、王たちの継いだ火の証、残り火のように
だからこそ、私はその暗闇に惹かれるのでしょうか?(火防女)
アン・ディールの探究は、その問い自体に誤りがあったのである
すなわち、光すら失われた世界においても闇は失われることはないのである。闇すらも失われる、とするアン・ディールの問いは間違いであったことになる
それどころか、そもそも光が完全に失われるという状況すら、訪れないのである
なぜならば、その果てには「小さな火たち」が存在するからである
因果を越えようとしたアン・ディールをあざ笑うかのように、世界はどこまでいっても光と闇の因果から脱することができないのである
すなわち、一度でも火の灯った世界は、二度とそれ以前の火の無い世界に回帰することはないのである。そしてまた火と共に生まれる闇も存在し続けるのである
小さな火たちがある限り、その予兆がある限りにおいて、世界から闇が失われることはなく、世界は永遠に光と闇とを循環していくのである
そしてこの小さな火たちは、「王たちの継いだ火の証、残り火」である。すなわちDS3の火を継ぐ者ENDに到達した灰の、そして無数のプレイヤーたちの継いだ火である
このエンディングの最後に火防女の声が聞こえる
灰の方、まだ私の声が、聞こえていらっしゃいますか?(火防女)
篝火の化身たる火防女の声こそ、闇の世界に篝火が存在することの確かな証である
火の無き世界の声、あるいはそれこそが光と闇とが失われた先にアン・ディールが見出そうとしたものなのかもしれない
火防女殺害END(火の簒奪END)
実際に火防女が死んでいるかはともかくとして、火防女からはじまりの火を奪った灰はそれを空のダークリングに捧げている
ナレーションの内容から「火の無き灰END」とするのが適切かと思う
名も無く、薪にもなれなんだ、呪われた不死
けれど、だからこそ
灰は残り火を求めるのさね
薪の王になるのでもなく、亡者の王になるのでもなく、火を終わらせるのでもない、第四の選択である
薪にもなれぬ呪われた不死は、はじまりの火を宿す灰としての道を選んだのである
このエンディング後の世界については情報が少なすぎて推測すら難しい
はじまりの火を得ながらも火を継ごうとしない灰に対して、火継ぎを目指す別の灰が現われるのかもしれないし、神のようになった灰が新たな世界を創るのかもしれない
はじまりの火は差異の象徴であることから、それがある限りは世界は存続していくと思われる
熱と冷たさと
生と死と
そして、光と闇と
ある意味で灰は自分だけのはじまりの火を得たのだから、DS1の魔女イザリスの宿願を成就したとも言える
…そして母は、その力で自分だけの炎を熾そうとして…それを制御できなかった(イザリスのクラーナ)
イザリスが自分だけの炎を得て何をしようとしていたのかは不明だが、はじまりの火が「火の時代」をもたらしたことや、暴走した混沌の炎がデーモンを生み出したことなどから、火には世界や生命を生み出す力がある
あるいは灰はその名のとおり、灰の時代をもたらすのかもしれない
ダークソウル
闇とは光の欠如である。と、同時に光なくして闇は認識し得ない
光の欠如としての闇は、認識不能の闇として光のない世界を満たしている。この闇を光が画すことにより、はじめて闇は認識可能なものとなる
つまり闇はそれ単体として存在しているのではなく、光によって現前されるところの、ひとつの概念である
端的に言うのならば、闇は存在せず、それは光との差異化としてのみ認識可能な概念である
ダークソウルは、概念に過ぎない「闇」がソウルによって「生命」を得たとする物語である
すなわち、誰も知らぬ小人が見出したダークソウルとは、「闇の生命」のことである
光が世界を照らすように、闇は世界を闇に沈める性質がある
生命を持った闇は周囲の物を次々と侵食してゆき、やがて世界そのものを闇へと沈めてしまう
それを恐れたのが光の神グウィンである。彼は闇の生命を肉体の檻(火の封)に封じ込め、また火継ぎにより世界から闇を退けようとした
だが火はやがて衰え、闇は再び勢力を盛り返す。火の封は破れ、肉体の檻から封じたはずの闇の生命が漏れ出てくる
それは病原菌のように世界や生命体を侵食し、狂わせ、壊していく
ダークソウルの物語は、単に火が衰えて熱や光が失われてゆき、世界が静かに滅んでいく、ということだけが主題ではない
もっと差し迫った危機に直面しているのである。闇の生命という悪夢的な存在による侵食である
闇はあらゆるもの、炎や光(奇跡)、死(ニトの災厄)、古竜さえ侵食し、それらを狂わせ、壊してゆく
その結果、ダークソウルの世界は幾度も滅びの危機を迎え、そのたびに火継ぎによって復活してきたのである
だがやがて、火継ぎの火すら衰える時がくる
火の時代の終わりである
大変興味深い考察をありがとうございます。
返信削除今回の記事に関して私は結構疑問に思う点があります。
まず、人の本来の姿が人間性(輪の都で擬態したときの姿や、深淵の穴の雑魚人間性)であるという点は、いくつか疑問があります。
初代のOPで「そして、名の知れぬ小人」とナレーションしている場面で、人の手が炎を持っている図が示されるています。
ここから、闇のソウルを得る前の小人はある種の肉体を持っていたと考えられます。また、「闇から生まれた幾匹」という部分でも人の形の肉体を持った存在が何人か表れているため、手が二つ、足が二つ、頭があるという形の生物は、グウィン神族、イザリスの魔女一族、人間に共通と推測できます。
同様に、作中火の時代の人間の肉体になにがしかのグウィン神族による調整が加わっていると考えられますが、調整なしでも手が二つ、足が二つ、頭があるという形が自然な姿だと思います(火が陰った場合にどうなるかは断言できませんが)。
また、別の反証として、マヌスを挙げることができると思います。マヌスは人間性のような姿ではなく、明らかに肉体を持っています。マヌスは古い人と呼ばれますが、これが神による調整前の人のことを指しているとするならば、記事の説では巨大な人間性(輪の都で擬態したときの姿や、深淵の穴の雑魚人間性)のような姿となるはずです。しかし、マヌスは肉体を持っているため、人間の肉体が完全にグウィン神族の製作によるものというこの記事の主張には納得できません。
私の考えでは、人間性の姿(輪の都で擬態したときの姿や、深淵の穴の雑魚人間性)は、人間を構成する臓器の一つではありますが、それが本来の姿というのは疑問です(内臓付き骨格標本を人間の真の姿とは言わないでしょう)。
また、初代のOPなどから、生者の姿がアン・ディールの言う仮初の姿であるという点は否定しませんが、肉体すべてや実体すべてが完全に仮初のものとするのは正しくないと思います。
まず返答が遅れたことをお詫びします。年末年始にこのPCに触れられる機会がありませんでした
削除コメントありがとうございます
小人はある種の肉体を持っていたのだから人の本性は人間性ではないのではないか、という疑問についてですが、そもそも小人と人とは同一存在ではないと考えます
小人は人の祖先ではありますが、小人そのものでないことは「人」という名前からも明らかかと思われます(同じ存在ならば「小人」という種族名のはずです)
小人やグウィン、イザリス、ニト等は「闇から生まれた幾匹か」であり、これらが人に似た姿をしていたことはオープニングからも分かります
しかしながら人は「ダークソウルの欠片(ゲームの食卓によれば)」であり、闇から生まれた幾匹か、とは種の起源が異なります
またマヌスについてですが、マヌスは「古くとも明らかに人であった」とマヌスのソウルにはあります
よってマヌスが人間性を暴走させようとも、神の枷(火の封)を外せない限りは肉体から解放されることはないと思われます
深淵の主マヌスのソウル
マヌスは、古くとも明らかに人であった
人間性を暴走させ、深淵の主となった後も
ずっと寄る辺、あの割れたペンダントを求めていた
マヌスは人間性を暴走させ、深淵の主となったと記されていますが、火の封を破ったとは記されていません
神の枷を外していないのだからマヌスが人間性の姿をしていないことは不自然ではありません
また深淵は人のみが持つ人間性が暴走して生まれたものとされます。人のみが持つ、とはつまり人を定義づけるもののことです
逆に言えば人間性さえあれば、それは人なのです。肉体や社会、社会的地位を剥ぎ取った果てに、最後に残る人である証、それが人間性です
よって人間性こそが人の本性であると考えます