バルドルは神々の中でもっとも美しく万人に愛された。ある日から悪夢を見るようになると、これを心配した母フリッグは世界中の生物・無生物に彼を傷つけないよう約束させた。そのため、いかなる武器でも彼を傷つけることは出来なくなった。だがこのとき実は、たった一つ、ヤドリギだけは若すぎて契約が出来ていなかった。
傷つかなくなったバルドルを祝い、神々はバルドルに様々なものを投げつけるという娯楽にふけっていた。だが、ヤドリギのことを知ったロキが、バルドルの兄弟で盲目のために遊戯の輪から外れていた神ヘズをたぶらかし、ヤドリギ(ミスティルテイン)を投げさせた。これによりバルドルは命を落としてしまった。(バルドル Wikipedia)
巴と丈の考察を進めるにあたり、まずは常桜とは何だったのか、というところからはじめたいと思う
※今回の考察はかなり飛躍させた部分があるので、この考察のみが正しいと主張する気はない
常桜
香炉の香りを嗅いだあとエマ:常桜のことですね
丈様が故郷より、持ってこられた桜です
隻狼:つまり、仙郷の桜か
エマ:はい、あれは不思議な桜で…
春に限らず、常しえに咲いておりました
ですが…。常桜の木も花も、もうありません
枯れてしまったのです
隻狼:なぜ枯れた
エマ:枝を手折り、花を持ち去った者がいます
花を失くした常桜は、やがて、枯れ果てました
常桜の木、そのものが失われてしまったのです
人返りルート
エマ:常桜とは、丈様が仙郷より、持ってこられた桜です常桜の花
ですが、何者かが枝を手折り、花を持ち去り…
常桜は、やがて、枯れ果てました
常桜の木、そのものが失われてしまったのです
古い記憶の中で咲いていた、常桜の花
丈が仙郷の名残として持ち帰り、
接いで咲かせた花である
以上の情報をまとめると次のようになる
・丈が仙郷から持ってきて、接いで咲かせた
・春に限らず、常しえに咲いていた
・何者かに枝を手折られ、やがて枯れ果てた
このうちで、普通の桜には見られない性質は二番目の、「春に限らず、常しえに咲いていた」である
常桜の常しえに咲く能力は、まるで隻狼の「回生」ひいては桜竜の常しえの力のようである
なぜ仙郷に由来するとはいえ単なる桜が「回生」の力を持つのか。考えるまでもなく、常桜が桜竜の力を秘めているからである
丈という竜胤の御子はもちろんのこと、丈の持ってきた常桜にも、桜竜との繋がりが存在するのである
桜竜には竜と桜という二つの側面がある。このうちの竜の側面の化身が竜胤の御子であり、桜の側面の化身が常桜なのである
つまり丈と常桜とは、桜竜という同一の根から発生した双子のような関係なのである。だが両者の受け継いだ能力は、受け継いだ側面が異なるようにそれぞれ異なっている
以下はその能力をまとめたものである
常桜:足りない生の力を吸い取って花を咲かせ続ける
回生の力あり。不死ではない
竜胤の御子:不死斬りでないと傷つかない。
回生の力なし。不死
桜竜:生の力を吸い取り生き続ける不死
以上のように、本来は完全な不死である桜竜が人と桜に別れてしまったために、丈はついに命を落とすことになったのである。その過程は以下の通りである
まず常桜の枝が何者か(梟)によって手折られる
常桜は不死ではなく、その枝を手折るのは容易いことであった
傷ついた常桜は失った生命力を補充しようと、生の力を強力に吸い取りはじめる
常桜が生の力を奪う対象は、まず縁の深い丈である
丈は不死であるが、常桜の能力「回生」の力はない。ゆえに常桜に生の力を奪われても、不足分を補充することができない
やがて丈は「竜咳」に罹るが、不死であるがゆえに死ぬこともできない状態に置かれる
これが『巴の手記』に記された時の丈の状況である
巴の手記
丈様の咳は、ひどくなられるばかり
仙郷へ帰る道は、どうやら叶わぬ
せめて竜胤を断ち、人に返して差し上げたい
竜咳とは「生の力」を奪われることにより発症する病である。生の力を補充できなければ、不死である竜胤の御子さえも発症するのである
というのも、丈の不死とは以下のようなものであるからだ
小姓の日記
香炉の上で、丈様が刀で腕を斬っておられた
だが、不思議なことに、傷は瞬く間に癒え、
血は露ほども流れぬご様子
例えば回生の力を持つ隻狼が攻撃を受けたとき血が飛び散るのにくらべて、明らかに竜胤の御子の不死は異質である
竜胤の御子の不死とは、回生によるものではなく、常に一定の状態を保ち続けようとする「不変」の力によるものである(常桜の擬似的な常しえではなく、本来の意味での「常しえ」)
※竜胤の雫とは竜胤の御子の体内で生成された「生の力」が、融通の利かない不変の力によって過剰物と判断され体外に排出されたものである
不変であるが、その竜胤に流れる「生の力」は奪われる。御子は不変であるが、その血、竜胤自体は不変ではないからである
不死の契りとは、竜胤を対象に与えることである。与えるというのはその流れを逆転すると奪われることでもある
つまり、竜胤は「回生」による生の力収奪の対象となりうるのである。そうでなければ、不死の契りという儀式自体が成り立たない
ややこしいが、これは『小姓の日記』の記録と「不死の契り」という儀式から帰納的に導き出される法則である
また、竜咳快復の儀式とは、竜胤の御子の従者が奪った生の力を、その主人である竜胤の御子が代わりに与えることである
たとえていうのなら、息子の借金を父親が立て替えるようなものである。息子が借りた金をそのまま返すわけではない
常桜の枝を手折る
では次に、常桜の枝を手折ることに何の意味があったのかを考察してみたいと思うフレーザーはその著書『金枝篇』において、ネミの森の儀式に焦点を当てた
この神殿では、男は誰でもその祭司となり、「森の王」の称号を得られるというしきたりがあった。ただし祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から一本の枝――「金枝」――を手折り、それで時の祭司を殺さなければならなかった(『図説 金枝篇 上』39ページ 講談社学術文庫』
そして二つの疑問に答えるために、全13巻にわたり延々と論を述べている。その二つの疑問とは以下のようなものである
祭司になるのになぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか? この二つの疑問にたいする答えを求めるのが本書『金枝篇』の目的である。(『図説 金枝篇 上』39ページ 講談社学術文庫』)
長くなるので結論を述べる
まず、聖なる樹の枝を手折らなければならないのは、「祭司(森の王)」とは聖なる樹の化身であり、祭司の命は聖なる樹に宿っているからである。聖なる樹を手折り、その命を奪わなければ祭司を殺せないからである
そして、祭司を殺さなければならないのは、以下のような理由からである
「森の王」は人間の姿をしたオークの神であり、その王が継承者の手にかかって死ぬのは、植物の死と再生という自然界の秩序を反映したものであり、自然界を存続させるためなのである。「王は死に給う。とこしえに王の生き給わんことを」(ル・ロア・エ・モール、ヴィーヴル・ル・ロア)(『図説 金枝篇 上』232ページ 講談社学術文庫』)
さて、SEKIROにおいて常桜の枝を手折ったのは梟である。彼はその後どうなったか
新たな竜胤の御子の庇護者となったのである
つまり、竜胤を祀る祭司となったのだ
※ネミの森における祭司(森の王)が、祭司(従者)と森の王(竜胤の御子)として役割が別れたのである
常桜の枝を手折り、結果的に丈を死に至らしめることで、梟は新たな王を得たのである。新たな王を見いだした時、梟は大いなる野望を抱いたのである。枝を手折った彼にはその資格もあった
丈の死
竜咳に罹った丈だが、不死であるがゆえに死ぬことが出来ない。人返りや不死断ちの望みも立たれた。もはや苦しみから逃れる方法は一つしかない。子をなすことである
※黒の不死斬りによる殺害、黄泉返り説は後述する
竜胤の御子は子をなすことで、子に竜胤を受け継がせ、自身は竜胤ではなくなる。というのも、竜胤の御子は常に一人である。もし子々孫々が竜胤の御子となるのであれば、葦名中に竜胤の御子がいておかしくはないからだ。
丈と九郎の乏しい例から推察するに、竜胤の御子は一世代につき一人しかいない
これは、例え竜胤の御子が子をなすことができても、竜胤の御子は常に一人であることを示している
また公式サイトで九郎は「葦名の地に、古くより続く一族の末裔」と紹介されている
桜竜に連なる竜胤の御子である丈はもちろん、淤加美一族である巴も、「古くより続く一族」に適合する
逆に、それ以外の「古くより続く一族」が見当たらないほどである
さて、そのようにして竜胤の御子でなくなった丈は死んだ
巴
母となったのは巴である巴は竜胤の御子を産み、それから仙郷へと帰った。仙郷へ帰るためには竜胤の御子の血が必要であるが、やはり不死斬りがない。しかしながら、不死斬りを用いずに竜胤の血を手に入れる方法がひとつだけある
それは竜胤の御子の「へその緒」である
母と繋がる臍帯には、竜胤の御子の血が含まれている
その血を使い、亡き丈を悼むために巴は仙郷へ戻っていったのである
隻狼が対峙した桜竜は、巴の記憶のなかの、あるいは空想のなかの桜竜である。それは枝を手折られた常桜と竜咳に罹った丈、つまり片手を失い、胸を抉られた姿の桜竜である
また右眼はかつてもとの桜竜が行った「拝涙」の傷が残っている。
巴の記憶の桜竜とは、これまで存在した桜竜を融合させた姿である
※丈の遺言である「源の香気をまとい仙郷へ帰る」を巴は果たしたことになる。またそのために九郎を置いていったのである
梟
さて、一方で誕生した九郎はどうなったか。竜胤を祀る資格は、常桜の枝を手折った者にある
梟は祭司王として、竜胤を祀る、つまり九郎の庇護者となったのである
表向きは九郎の庇護者、しかしその真の目的は竜胤の力を使い、己の名を日の本に轟かせることであった
しかし、目的を果たすためには何人かの邪魔者がいる
まず、お蝶である。丈が死んだ際に、不死の契りが解除された巴から「丈の竜胤」つまり「桜雫」がこぼれ落ちた。巴は我が子の守護を条件に「桜雫」をお蝶へ与えたのである
※「桜雫」は「不死の契約成らざる時に、引き換えに残ると伝わる桜色の結晶」である。丈とお蝶が契約しようとして失敗したと考えると、なぜ丈は残った「桜雫」を再度、取り込まないのか、という謎が残る。つまり、九郎がやったように再利用するために自分が持っているか、あるいは再吸収すればよいのである
※しかしながら、なぜか「桜雫」は丈には戻されず、その形のままお蝶が所有している
※つまるところ、「桜雫」が残ったとき、丈は死んでいたのである。丈の死と同時に巴と結んでいた「不死の契り」が強制的に解除され、巴の血とともにあった丈の竜胤(「桜雫」)が残されたのである
お蝶は梟と違い、忍びとして生き、忍びとして死ぬつもりであった。主を裏切ることなど考えていないのである(「桜雫」を所持し続けていることがその証である)
ゆえに梟は平田屋敷を襲撃することでお蝶を誘き出して亡き者にしようとしたのである
もう一人は隻狼である。隻狼もまた「死を偽装」しようとする梟にとっては邪魔者であった
しかし梟は、「卓越した忍び」となっていた隻狼をなんの犠牲もなく殺せるとは思わなかったのである
そこで隻狼とお蝶を戦わせ、良くて同士討ち、悪くともどちらか生き残った方は手負いの状態にしようとしたのである
そして最も重要な一人は、一心である。一心の忍びとして生きてきた梟にとって、最も敵対したくない相手である。ゆえにただ抜け忍となるだけでなく、死を偽装する必要があったのである
※忍軍襲来時、一心に手を出さないのも、かつての主を恐れてのことか、あるいはわずかに残った忠誠心ゆえであろう
そうして梟は王になろうとした。常桜の枝を持ち、間接的に丈を殺した梟にはその資格があったのである
梟が常桜の枝を持ち続けたのも、常桜の枝を持つものが王であることを知っていたからである
※ちなみに、常桜の枝には赤い紐が結ばれているが、「大曽根八幡神社 赤い紐」あたりで画像検索すると、まったく同じ結びの紐が見つかる。これは魔除けの紐であるが、金枝、つまりヤドリギの枝も魔除けの護符になると信じられていた
とすると、丈が常桜を持って葦名の地に降りてきたのは意味深長である。常桜の枝を手折り、王であった桜竜を殺害したことで丈は竜胤の御子となったのかもしれない
常桜の枝を持ち先代の王を殺した者だけが、葦名の王となるからである
※実際に枝を手折り、手を下したのは巴であろう。九郎でなく隻狼が桜竜と対峙したように、桜竜殺しは従者の役目である
黒の不死斬り
黒の不死斬りにより丈を殺害。それに伴って黄泉返りにより九郎を誕生させたとする説がある。まず黒の不死斬りによる丈殺害であるが、あるとすれば梟が殺したか、あるいは巴が介錯したか、それとも一心が情けにより斬ったか、といったことが考えられる
ただしその場合、開門によって何者かが黄泉返っている気もするが、該当する人間が見当たらない。例えば丈を黄泉返らせたとして、なぜ丈という名前じゃないのか、とか巴と不死の契りを結び直さなかったのは何故なのかという疑問が残る
別のまったく知らない第三者が黄泉返ったとすると、黄泉返らせる意味も不明であるし、平田家の養子として丁重に扱われる理由もない。またどうしても黄泉返らせたかった誰か(一心や梟や巴にとって)だったとすると、今度は平田家に養子に出す理由がない
つまり、誰を黄泉返らせようとも、九郎の存在が浮くのである
竜胤とは竜の血のことである。血とは親から子に、子から孫へと受け継がれてゆくものである。あえて血脈とは無縁の存在を竜胤の御子として登場させるよりも、血に連なる存在であると考える方がより自然だと思われる
このあたりは竜胤システムがまったく明かされてないので各々の解釈しだいなところもあるかと思う。今回の考察全般もそうだが、強く主張する気はない
蛇足
神域の巫女が巴だったら、という前提のもとに考察を進めたが、いつも以上に飛躍したものとなった。またその前提ゆえに「巴の墓」は虚偽であるという結論に至らざるを得なかったただ丈の竜咳に関しては、一応の解答が出せたのかなと思う(エマが覚えてないのはお蝶の幻術をかけられていたとする)
竜と蟲もそうであるが、SEKIROは常に二つのものが重なったり分離したりしている。登場する人なり概念なりは常に二つの面を持ち、そのどちらもが強い個性を持っているので、どちらかに気を取られていると、もう一方が意識からするりと抜け落ちる
どうやらSEKIROは二重構造をもつ物語らしい(ソウルシリーズは螺旋構造)