話のベースとなっているのは藤原秀郷(wikipedia)の伝説群であろうと思う
平将門を追討した平安時代の武人・貴族であるが、俵藤太という別名もあり大百足退治をしたことでも有名である
詳細はwikipediaの「百足退治伝説」の項を参照してほしい
簡単にまとめると、龍神一族の娘に頼まれた俵藤太が大百足を退治し、褒美として「米」の尽きることのない俵を与えられたという
藤太伝説の背景には、「日光山に棲む大蛇と赤城山に棲む大百足との戦い」の話があり、Sekiroの物語のモチーフになっているかと思われる
要点を抽出すると、大蛇(竜)/ 大百足(蟲)の構造である
※対比としての竜と蟲であり、必ずしも対立しているということではない
例えば、竜を桜の木とし、蟲を桜の木に寄生する長虫と考える
これはダークソウルにおける、大樹と古竜の関係性に近い
さらにこの構造は、北欧神話におけるユグドラシルとその大樹に巣くうドラゴン「ニーズヘッグ」とも共通する
個人的には竜が人に与えた力が「竜胤」であり、人が竜に見出したのが蟲(それを竜の力と勘違いして、蟲を手に入れた)であるのかなと思う(あるいは変若水を飲んだことで寄生された)
蟲も竜からもたらされたことには違いないが、それは人間が蟲の力を竜の力と勘違いしたことに起因する
書き忘れてたがこの俵藤太、おとぎ話の世界では「竜宮」(wikipedia)に赴く(『俵藤太絵巻』)
源の宮の元ネタはおそらく竜宮なので、ここでも合致している
ちなみに藤原秀郷の先祖は藤原魚名である。魚…
源の宮にいる大鯉は「流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説」(登竜門の故事)から
隻狼のいる時代は戦国末期であり、源の宮は平安時代をイメージしているのであろう
以前にも書いたうえに、あまりにも明白なので書き忘れたが、葦名は戦国大名の蘆名氏
葦名七本槍は『柳生忍法帖』から
内府の赤備えと聞くと、普通は井伊直政を連想する
というか戦国末期のあれこれはほとんどそのままなので、わざわざ指摘する必要性もない気がする
巴は言わずもがな「巴御前」であろう
壺の貴人も源の宮に連なる名前かとも思われる(「維盛(平維盛)」や「春長(藤原家っぽい)」)
源の宮のベースにあるのは、『平家物語』、『源平盛衰記』あたりかと思われる
参考:倶利伽羅峠の戦い
DLCは耳なし芳一的な雰囲気かも
また桜竜は七支刀(Wikipedia)を持っていることから、百済(あるいは百済を経由した東晋)からやって来たと思われる(時代は神代か古代)
丈(たける)はヤマトタケルかとも思うが、「タケル」という名の古代人は他にもいるので特定はできない(クマソタケルとか)
あるいは五十猛神で神族なのかもしれない
ただダークソウル等の例から言うと、丈ポジション=アルトリウス=アーサー王とその国の英雄的な存在が選ばれている可能性も(DLCは闇落ち丈かな)
捨て牢あたりのイベントは全体的に『無限の住人』の「不死実験エピソード」そのものである
またラストで弦一郎の体から一心がムリムリっと出てくるシーンは、『魔界転生』の忍法魔界転生のオマージュである
次にこれはただの感想であるが、「源の宮」は現世とは異質のクトゥルフ的な雰囲気を出そうとしていたし、それも成功しているように見える……のだが、どうしても『瀬戸の花嫁 (漫画)(Wikipedia)』の魚人社会のイメージが頭から離れず、恐ろしいというよりもユーモラスな感じを受けた
2019年3月26日火曜日
2019年3月19日火曜日
Bloodborne 没データ「ヤーナムの石」追記:ゴースの加護あれ
夜半の朋輩よ、朋類よ、走狗の遠吠え、淋漓たる鮮血に満悦する汝、葬地に集う黒影の只中を彷徨う汝、血汐を求め死すべき定めの者に恐怖をもたらす汝、ゴルゴーよ、モルモーよ、千の貌をもてる月霊よ、めでたく我等が生け贄をば照覧あれ。(『ラヴクラフト全集5』「レッド・フックの恐怖」)
謎アイテムだった「ヤーナムの石」の使い道が没データから発掘されたという話と考察
動画:Bloodborne Cut Content - Yharnam Stone Purpose - Fishing Hamlet Priest Unused Dialogue
ヤーナムの石
没データ
考察
「ヤーナムの石を渡す」
ヤーナムの石とは「トゥメルの女王、ヤーナム」を倒すことで得られる貴重品である
グラフィック的には赤く石化した胎児のようなものが見える
かつて考察でも述べたが、石/意志/遺志/遺児とは言葉遊び的に繋がっている
つまり「ヤーナムの石」とは「ヤーナムの遺児」であると考えると、このアイテムのグラフィックの意味が飲み込めると思われる
さて、没データでは、この「ヤーナムの石」を漁村民に渡すと次のようなセリフが聞ける
「ゴース!ゴースの赤子っ…」
「ヤーナムの石」を「ゴースの赤子」として“認識”しているらしいことがわかる
このことからやはり、ヤーナムの石とは「ヤーナムの遺児」との言葉遊び的な名称であることがわかる
ここで重要なのは、「ヤーナムの石=ゴースの赤子」となるのは、あくまで漁村民の“認識上”のことである
というのも、漁村民が女王、ヤーナムを知っていた可能性は低く、彼が「ヤーナムの石とはゴースの赤子である」と断言したわけではないからだ
事実は「ヤーナムの石を渡された漁村民が、それをゴースの赤子である、と“認識”した」以上のものではないのである
ではなぜ漁村民は「ヤーナムの石」を「ゴースの赤子」と認識したのか
これもかつて考察で述べたが、ヤーナムの地には「母胎に異物を移植し、産み直させる」という儀式(冒涜的代理母システム)があると思われる。この儀式というか思想は、ヤーナムからゴースを経て、ミコラーシュが「再誕者」として結実させている(ミコラーシュのは失敗作であったようだが。「腐ってやがる早すぎたんだ」)
つまるところ、ヤーナムの身に執行された儀礼と、ゴースに執行された儀礼とは、同一の思想の基に執り行われた同一の儀礼なのである
この儀礼(「再誕の儀」)によって得られるものとは、「特別な赤子」である(メルゴーは奪われ、悪夢に囚われている。ヤーナムの石は、現実世界においてメルゴーの肉体となるべき器であろう)
ゆえに漁村民は、ヤーナムの石とゴースの赤子を混同して認識したのである
なぜならば、どちらも同じ「特別な赤子」であるからだ
こう考えると、没になった理由もわかる
一言でいうと、「わかりにくい」からである
ユーザーも漁村民と同じ混同を犯す可能性が高い。つまり「ヤーナムの石=ゴースの赤子」と認識してしまうのだ
だが、女王ヤーナムとゴースとは、生きていた時代も場所も全く異なる。
一方はヤーナムの地であり、もう一方は深海である
『…ああ、ゴースの赤子が、海に還る…』(DLCのナレーション)
還るというからには、そこから来たと考えることができる(正確にはその母だが)
もし仮に「ヤーナムの石=ゴースの赤子」であったのなら、女王ヤーナムが赤子を求めて漁村に姿を見せないのは少々おかしい。さらにいえば、ゴースは老いた赤子であるが、メルゴーはそのような描写はない(小さな乳母車に乗る赤子という示唆)
しかし、この誤解を解くためには、ゲーム自体から排除され、秘匿された儀礼、つまり「再誕の儀」に触れねばならず、その社会通念上冒涜的ともいえる思想を明らかにするのは、ゲーム会社としてリスクが高すぎるのである
よって、ヤーナムの石とゴースの赤子との類似性はDLCからも完全に秘匿されてしまったのであろう(没になった)
では次のセリフに移ろう
「時もなく、海は遠く。それでも腐臭、母の愛は届いたか」
ヤーナムの石とゴースの赤子を混同していると考えると、このセリフも意味がわかる
「時もなく、海は遠く」と表現されたのは、漁村民のいる時空が、時間がなく空間も異なる「悪夢の場」であるからである
「それでも腐臭」、そうした隔絶した時空にあっても、ゴースの愛、つまり「腐臭」が感じられる。腐臭を放っているのは「ヤーナムの石」であるが、両者ともに「特別な赤子」であるがゆえに、「同じ臭い」をまとっているのである。
そしてその「臭い」とは、母から与えられた「愛」のことである
『憐れなる、老いた赤子に救いを…
ついにゴースの腐臭、母の愛が届きますように…』(漁村民のセリフ)
「母の愛は届いたか」
ゆえに、この愛(臭い)をまとう石を渡された漁村民は、母の愛(腐臭)がゴースに届いたと認識したのである
「ああ、ありがとう。使者よ、感謝します」
母の愛(腐臭)に包まれた赤子(石)を受け取った漁村民は、老いた赤子に救いがもたらされたことを確信し、礼を述べるのである。
「彼方からの使者に、ゴースの加護あれ」
「彼方」という言葉には、漁村民のいるこの時空が、すでに現世ではない(悪夢である)ことの自覚が反映されている。そうした彼方からの使者に与えられるゴースの加護とは、おそらくではあるが、遺児戦におけるプレーヤーが有利になるような何らかのギミックが存在した名残なのではないだろうか
本来であれば、ゴースを倒した時に得られる「ヤーナムの石的なアイテム」を漁村民に渡すことで最後のムービーが流れる、というプロットだったのではないだろうか
つまり元のシナリオでは、「ゴース撃破」→「ゴースの石的な何かを取得」→「漁村民に渡す」→「遺児が海に還るムービー」であったのだが、何らかの理由により変更されたのである
何らかの理由とは、「石を渡しに漁村民に会いに行く」という行程を経ると、ムービーの劇的な感じが薄まってしまうからだろうと考える(漁村から海を眺める感じになってしまい、臨場感が薄れる)
より印象的なシーンにするために、「漁村でムービーを見る」はずだったのが「海岸でムービーを見る」演出に変更されたのであろう
つまり元のシナリオでは、「ゴース撃破」→「ゴースの石的な何かを取得」→「漁村民に渡す」→「遺児が海に還るムービー」であったのだが、何らかの理由により変更されたのである
何らかの理由とは、「石を渡しに漁村民に会いに行く」という行程を経ると、ムービーの劇的な感じが薄まってしまうからだろうと考える(漁村から海を眺める感じになってしまい、臨場感が薄れる)
より印象的なシーンにするために、「漁村でムービーを見る」はずだったのが「海岸でムービーを見る」演出に変更されたのであろう
よくよく考えてみれば、海岸でゴースの影を斬ったときに漁村民の声が聞こえるというのは、おかしな話である(元のシナリオでは漁村民が隣にいるはずだったからであろう)
蛇足
※あれやこれや書きましたが、「イベントテスト用のダミーアイテム」として「ヤーナムの石」が便宜的に使われたということで自分の中では落ち着きました
2019年3月8日金曜日
隻狼 竜
※発売前の考察です
※たぶん「柿のあれ」に関する攻略情報を求めてる人が来てる気がするのでソレに関する情報は削除しておきます(検索妨害になるので)
竜胤(りゅういん)
回生とは「竜胤の御子の力」であるという。この「胤」という言葉は「将軍の御落胤(ごらくいん)」や「後胤」として使われるように、血筋や血を受け継ぐものという意味を含んでいるよって、御子は竜の血を受け継ぐ存在である、と考えられる
この竜の御子を葦名の家臣である平田家が軟禁していたことを考えると、葦名一心の国盗りによって滅ぼされたのは「竜の国」であると思われる
旧主である竜の御子を「殺せなかった」のか「その力に眼をつけた」のか不明だがとにかく、御子はその血筋ゆえに生かされた。
竜退治
さて、竜の国というのはもちろん、竜が王であるここに、「竜退治をする英雄」の構造が見受けられるのである
聖ゲオルギオスや『ニーベルングの指輪』のジークフリートが退治するファフニール、ギリシャ神話のヘラクレスに退治されるヒュドラや、インドラに倒されるヴリトラ、日本でいうのならスサノオの退治したヤマタノオロチ等々、世界中に伝えられる神話である
さらにさかのぼればメソポタミア神話のマルドゥックによるティアマト退治がある
これら「竜退治の物語」が象徴的に語るのは、「混沌の死による秩序の誕生」である。ここで竜は混沌の象徴であり、英雄は秩序の象徴である。英雄は混沌を象徴する竜を倒すことで、世界に秩序をもたらすのである。
原初の混沌を殺すことで、秩序が誕生し、世界は今のように形作られた、というこの構造は、ダークソウルと同じである
ダークソウルにおいては、グウィンという名の英雄が、古竜という名の混沌に戦いを挑み、勝利することで世界に火(差異=秩序の象徴)をもたらしたわけである
デモンズソウルにおいては、ソウル(認識の力)が衰えることで混沌に還ろうとする宇宙を、獣のデーモン(認識のデーモン)を復活させる、あるいは自身が認識のデーモンとなることで、再生させようとする(秩序を取り戻す)わけである
※あらゆる竜退治譚に共通するが、混沌といっても完全な混沌ではない。マルドゥックやグウィンの存在が許される程度には混沌度は減っているのである
※デモンズソウルはちょっと記憶が薄れてるので自信がない。
竜咳(りゅうがい)
本作では本当の死をくり返し、竜胤の力を使って復活し続けると、竜咳という病が世界に振りまかれるという上記のように竜=混沌と考えると、竜咳とは混沌の病であると考えられるように思える
混沌とは生と死すら曖昧な状態である。その混沌の力を使って生き返るというのは、「新たな生命を得る」のではなく、「隻狼を混沌の状態に置く」ことで、その生と死を曖昧なものとし、死を無効にしているのである
この混沌の力を使えば使うほど、世界の混沌度が高まっていく。なぜならば、この世界における生と死という絶対的な秩序が乱されるからである
御子
さて、回生をくり返し、世界の混沌度を高めていくと、当然ながら混沌を象徴する御子にも変化が現われる混沌度が高まれば高まるほど、御子は竜に近づいていくのである
それは最終的には不死の竜と化すであろう。その竜を殺せるのは、不死斬りを持つ隻狼だけなのかもしれない
ファフニールがそうであったように、不死の竜とはいえ弱点がある。「竜の逆鱗」というのがそれである。おそらく葦名一心もそうやって倒したのだと思われる
※ダークソウルにおいてウロコのない竜シースの裏切りによって古竜が倒されたというのは、その弱点をグウィンに教えたからであろう。竜の弱点を教えることが出来たのは自身が「ウロコのない竜」であるからに他ならない
※御子が竜となった姿は、おそらく一般的な竜とは異なると思われる。たとえそれが窮極の混沌のただ中にいる「外なる神」であっても。
蛇足
※以下は完全な蛇足であり、読んだところで何らかの益があるものではない「混沌に還ろうとする世界に秩序を取り戻そうとする」というのが、ソウルシリーズの大まかな物語構造である
英雄による竜退治がその始端だとすると、ソウルシリーズは、その終端に位置する物語であろう。これは北欧神話におけるラグナロクと類似した構造であり、またベルセルクにおける蝕と同じようなシステムである(混沌をその極みに至らせることにより、鷹という闇の秩序を打ち立てる)
つまるところ物語全体は、衰えた太陽の復活の復活を目的とする冬至の祝祭であり、物語の始まりは冬の始まりを告げるハロウィンであり、「冬来る」(ゲーム・オブ・スローンズ)なのである
Sekiroの物語も同様の構造を有していると思われる。
英雄が竜を討伐することで葦名の国は打ち建てられた。混沌は去り秩序がもたされたのであるが、秩序はやがて衰えてゆく。現在の葦名の国は危急存亡のときにあり、英雄の打ち立てた秩序が失われようとしている。
この危機的状況にあり葦名一心の孫が目をつけたのが御子であるが、彼はおそらく竜の御子の力が混沌であることを知らない。たんに不死の軍団を作れる便利な力だと考えていると思われる
しかしながら、混沌を象徴する竜の御子の力は、人の手に負えるものではない。国勢は復活するどころか、誰も彼もが混沌の力に惹きつけられ、魅入られ、狂っていく。徳の高い僧侶ですらあらがえない魅力が、混沌にはある。
それは闇の力とでもいうべきか、深淵に取り込まれたアルトリウスのように、彼もまた闇に堕ちるであろう
回生の数が少なければ御子は人の姿を保っていられる=かろうじて残った秩序により葦名の国は続いていく。
回数の数が多く御子が竜となった場合=隻狼が竜を倒すことで新たな秩序を生み出すか、あるいは御子を闇の王として立て、混沌の国を建てるか(闇の王エンド)
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