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2021年8月23日月曜日

Dark Souls シリーズ考察19 シン・ダークソウル

ダークソウル

まずは基本的な情報のおさらいからはじめたい


ダークソウルはダークソウルという単語に分けることができる


このうちダークは、ソウルは「王のソウル」などとして使われるソウルのことである


端的にいえばダークソウルとは「闇のソウル」のことである


古い王たちの後に、四つ目のソウルを見出した

闇のソウルだ(闇撫でのカアス)


しかし「闇のソウル」と定義はできても、それがどのようなものであるのか未だはっきりしない。特には使用法や定義が曖昧である。一方でソウルはアイテムテキストによってかなり明確な定義が与えられている


そこでひとまずは置いておいて、ソウルから考えてみたい


ソウル

ソウルの中でもひときわ巨大なものとして「王のソウル」がある


王のソウル(墓王ニト)

最初の死者、墓王ニトのソウル

火の時代の最初に見出された王のソウルの1つ


あらゆる生の死を司る墓王ニトは

その力のほとんどを死に捧げている

それでもなお、そのソウルは大きく

王の器を占めるに足るものだ


オープニングでは闇から生まれた幾匹かが王のソウルを見出したことによって、になった経緯が語られている


そして、闇より生まれた幾匹かが

火に惹かれ、王のソウルを見出した


最初の死者、ニト

イザリスの魔女と、混沌の娘たち

太陽の光の王グウィンと、彼の騎士たち

そして、誰も知らぬ小人


それらは王の力を得、古竜に戦いを挑んだ


ソウルには闇から生まれたもの王にする力がある。なぜならばソウルとは生命の象徴であり、生命すべての源だからである


誘い頭蓋

ソウルとは生命の象徴であり

それに餓えた亡者などを誘い寄せるが

すべての敵に有効なわけではない


人間性

ソウルが生命すべての源であるなら

人のみにある人間性とはなんなのか?


巨大なソウルを獲得したものは、巨大な生命となる。それは他の小さな生命たちを率いる者、つまり「」と呼ばれるのである


王とは何より巨大なソウルの持ち主のことである。宿しているソウルが巨大であれば、そのものはより大きな生命体になるからである


これに対し、朽ちぬ古竜たちは生命すら超越した存在である



古竜の瞳

古竜に祈り、それに近づこうとする超越者たちの業

生とは弱さであり、火の者である神々も例外ではない

超越者の目標は、生命とは別のあり様なのだ



呪い

一方で火の者である神々を筆頭とした生命は、生命であるが故に弱さも持ち合わせている


弱さとは「死」のことである


死を宿命づけられた生命に対して、朽ちぬ古竜は死すら存在しない


ソウルを源とする「生」には同時に「死」内包されていたのである。生命である限り逃れることのできない宿命、それが「死」である


ソウルから生まれる「生と死」については「墓王ニトの考察」で詳しく述べている


ソウルとは生と死を内包するものであり、生命は生命である限り「死」からは逃れられない


いわばソウルとは生命という呪いである



ソウルと呪いは、同一のもの(緑衣の巡礼)



生命は生命であるがゆえに「生」に惹かれ魅せられ、そして囚われる



生は眩く、美しい

そして誰もが、それに囚われている(アン・ディール)



死を拒否し、生に固執する状況が「呪い」である


不死人が呪われた不死人と呼ばれるのは、死んでもなお生に執着し、死を拒絶しているからである(心残りのある幽霊は成仏できないみたいな)。ダークリングはそのような者たちに現われる



ダークリング

呪われた不死人の証

このリングが現われた者は、死んでも蘇り

やがて心をなくした亡者となる



だが、絶望あるいは望みを叶えた亡者は、蘇ることなく死ぬ


例えばビアトリス四人の公王が死ぬことで、死体となって飛竜の谷に現われる


絶望により心をなくし生への執着を捨てた亡者や、悲願を成就した亡者死を受け入れ死ぬことができるようになるのである


やがて火が絶える生と死という差異は消失する


すべての生命は生でも死でもない曖昧な状況に置かれ、言うなればすべての生命が呪われた状態になるのである


しかしそれも「死から解放された」ひとつの形ではある



やがて火は絶え、闇は呪いとなる

人は死から解き放たれ、永劫を得る(ヴァンクラッド)



まとめると、ソウルとは万物に生命をもたらすものであり、生命とは生と死の両面を備えたひとつの現象である



では、闇の考察に移る


カアスによれば、グウィンは闇を恐れていた



グウィンは、闇を恐れた

火の終わりを恐れ、闇の者たるを恐れ

人の間から生まれるであろう、闇の王を恐れ

世界の理を恐れた(闇撫でのカアス)



闇撫でのカアスによれば、人と闇とは同一である



やがて火は消え、ばかりが残る

さすれば、貴公ら闇の時代

(闇撫でのカアス)



英文で「Thus began the age of men, the Age of Dark.」とあるように、それは人の時代であり、また闇の時代なのである


すなわち闇とは人のことである


つまりここに言われるとは、光がないゆえの暗闇のことではなく、「」という生命体のことを指すのである


しかし現在の人がそのままということではない。人はグウィンによって火の封を施され、仮初の姿を得ているからである



だから奴は、火を継ぎ、自らの息子たちに、人を率い、縛らせた

(闇撫でのカアス)


輪の騎士の鎧

そしてそれ故に、持ち主たちと同様に

神々に火の封を施されたという


かつて光の王となった者は、人という名の闇を封じ込め

そして人は、仮初の姿を得た(アン・ディール)



神々に火の封を施され仮初の姿を得た、それが今現在の「」である



はダークソウルを見出した小人の裔である



貴公らの人の先祖は、闇のソウルを得て、火の後を待った(闇撫でのカアス)



また宮崎英高氏は「ゲームの食卓」において、人はダークソウルの断片であると述べている


人類そのものが断片化されたダークソウルなのである



ここで最初の問いに戻る。ダークソウルとは何か?



ソウルとは万物に生命(生と死)をもらたらすものである。そして王のソウル幾匹かを王という生命にしたように、ダークソウルは誰も知らぬ小人闇の王という生命にしたのである


闇の王とは人の王の意であり、闇とは人のことである(人類は小人が断片化したダークソウルの欠片)


すなわち生命としての闇、それが人の本性なのである



人間性

ただしそれは神に火の封を施される前の状態である


かつての人は人間性の姿をしていた


生命を持った闇「人間性」


人しか持たぬ人の本性、それが人間性である



人間性

この黒い精もまた人間性と呼ばれるが

詳しいことは分かっていない

ソウルが生命すべての源であるなら

人のみにある人間性とはなんなのか?



人間性とは闇が生命をもったもの、すなわちダークソウルであり、その断片である


人間性貪欲執着愛慕や郷愁といった強い感情の塊である



深淵の主マヌスのソウル

それは尋常のソウルではなく

どろりとして生あたたかい、優しい人間性の塊である


マヌスは、古くとも明らかにであった

人間性を暴走させ、深淵の主となった後も

ずっと寄る辺、あの割れたペンダントを求めていた


割れたペンダント

今人が知らず、扱えもせぬその力は

とても強い郷愁、愛慕の類だ



深淵とは人の内に封じ込まれた人間性が溢れ出して生まれる、闇溜りである。そこは無数の感情が渦巻き、深淵が砕かれた後も滅びることなく、やがて形を成す


彼女たちはマヌスの負の感情が形をなしたものである



煩悩

人間性は愛慕や郷愁と言った肯定的な面も持つが、しかし強すぎる人間性はあらゆるものへの執着、欲望となる


仏教ではこれを「煩悩」と呼ぶ


仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。(Wikipedia)



煩悩の根源には三毒があり、これが人間の諸悪・苦しみの根源である


三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。(Wikipedia)


三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされている。(Wikipedia)


愛情や郷愁、あるいは生きようという意志すらも執着であり、苦しみの原因なのである


仏教ではあらゆる執着を捨てることで、輪廻から解脱し、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に至るとされる(涅槃wikipedia)


生命とは眩く美しいものである。しかし生命が生である限りそれは人にとって呪いと同じ苦痛をもたらすのである



生は眩く、美しい

そして誰もが、それに囚われている(アン・ディール)


ソウルと呪いは、同一のもの(緑衣の巡礼)


神々や魔女煩悩を持つが彼らのそれは生命を持っていない。ゆえに彼らの煩悩は闇ではない。対してはその本性が生命を得た闇である


はその本性(煩悩)故にあらゆるものに貪欲に喰らいつき執着する。それは相手がであっても例外ではない


闇を持たぬ者たちは闇に抗うことができずやがて闇に取り込まれ、闇に堕ちる



騎士アルトリウスが、これを留めに向かいましたが

英雄とて、所詮は闇を持たぬ身(霊廟の守護者エリザベス)



涅槃

仏教における涅槃とは煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のことである


密教において煩悩を滅尽する儀式を「内護摩」と呼ぶ(Wikipedia)


自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩とがある。 (Wikipedia)


篝火とはこの内護摩を具象化したものである


篝火人間性を投じることで亡者が生者に戻ることができるのは、人間性とはダークソウルの断片、すなわち闇が生命を持ったものであり、ソウルも宿しているからである


つまり人間性を炎に投じることでソウルのみを取り出すことができ、亡者はそのソウルを吸収することで生者に戻ることができるのである


だがこのとき、人間性内の煩悩は完全には消滅せず篝火の化身である火防女に溜められる



火防女の魂

火防女とは篝火の化身であり

捧げられた人間性の憑代である

そのは、無数の人間性に食い荒らされ

不死の宝、エスト瓶の力を高めるという



人間性は火防女に寄り憑き、その魂を食い荒らす。なぜならば篝火に投じられたことで人間性はソウルの大部分を失い、その代償を求めているからである


注ぎ火が篝火の火を盛んにするのは、投じられた人間性が火防女の魂、すなわちソウルを喰らい、自身もろとも燃え上がるからである


生きることへの強い執着、それが人間性の根本には存在する


そしてその強い執着が、火防女をおぞましい姿にするのである


火防女の魂(アナスタシア)

火防女の魂は人間性の憑代であり

それは彼女たちの体においても変わらない

あらゆる皮膚の下に無数の人間性が蠢き

その姿は、大抵おぞましいものとなる


言うなれば、火防女とは人の煩悩や欲望を背負う者である



古竜崇拝

涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと(Wikipedia)


この涅槃の思想を作中で体現するのが古竜ならびに古竜崇拝である


輪廻とは繰り返す再生、すなわち生と死の循環であり、涅槃とはその輪廻を断ち切った境地のことである



古竜の瞳

古竜に祈り、それに近づこうとする超越者たちの業

生とは弱さであり、火の者である神々も例外ではない

超越者の目標は、生命とは別のあり様なのだ



つまり涅槃とは古竜崇拝と同じく生命とは別のあり様に至ることである


そしてまた作中の古竜崇拝には仏教的な要素が見出される


まず内部名リストによれば、石の古竜は「座禅ドラゴン」という名前である


加えて古竜の頂にいる竜体座禅を組み、その姿は釈迦苦行像と酷似している




このように古竜崇拝とは仏教やヒンドゥー教における涅槃思想を、西洋ファンタジーに落とし込んだものである



DS1のエンディング

仏教からの影響はエンディングにも見られる


火を継ぐ者ENDは、生と死の輪廻を続けることを選択したエンディングである。


表面的には世界は復活したことになるが、しかし生と死がもたらす苦痛は続いていくのである


闇の王ENDは、火を継がないことを選んだエンディングである。ただし火を継がないだけであって、火を消すことを意味するのではない


闇撫でのカアスが言うように、闇の王ENDは人の時代、闇の時代である


とは上述したように、人の煩悩のことである


よって闇の王ENDとは、火が消えたことによる完全な闇を意味するのではなく、人の煩悩の時代を意味するものである。(闇の王とは、人の王のことに他ならない)


つまり闇の王ENDは、人が煩悩に塗れて生きることを選択したエンディングである


ある意味で最も人らしい選択であるといえる


※記憶が曖昧だが宮崎英高氏は「ゲームの大晩餐会」か「ゲームの食卓」で闇の王エンドは、人のエンディングと述べていた


とは煩悩、すなわち飽くなき欲求と満たされることなき渇望生命を与えたものだからである


闇の王END王のソウルの力人間のために使うENDといっていいだろう。それはDS3の火の簒奪者の元型であり、それ故にどちらも世界蛇の意志が反映されている



DS3のエンディング

DS3のエンディングには、DS1の火を継ぐ者に対応する火継ぎEND闇の王ENDに対応する火の簒奪者ならびに、それらとは一線を画す火継ぎの終わりがある(火防女殺害ENDはやや特殊なので除外する)


火継ぎENDに関してはDS1とほぼ同じである(輪廻は続く)


次の火の簒奪者火継ぎの終わりは似て非なるものである


火継ぎの終わり

まず火継ぎの終わりは、永遠に続く闇をもたらす。これは苦痛の根源である火が完全に消えたことを意味する



あの瞳の見せる、火の消えた世界は、永遠に続く暗闇です(DS3火防女)



ある意味で涅槃思想に近いエンディングである


闇は安息であり、安らぎの領域であり、そこに苦痛は存在しないのである


深淵の印

とはなんであろうか

あるいは、それは誰もが知っているのかもしれない

人は闇を恐れつつも、そこに安らぎを見出す


だが、やがて王たちの継いだ火がふたたび熾るという


はじまりの火が、消えていきます

すぐに暗闇が訪れるでしょう

…そして、いつかきっと暗闇に、小さな火たちが現われます

王たちの継いだ残り火が(DS3の火防女)


世界は復活するという希望のエンディングに見せかけて、これは再び世界は苦痛に塗れるという絶望を示すエンディングである



火の簒奪者

火の簒奪者はDS1の闇の王エンディングをより洗練させたエンディングである


神の持つ火を奪いながらも火を継がず、亡者の王として亡者の時代をはじめるものである



簒奪者よ、どうか火を奪ってください

その力を、あるべき人の姿、すなわち我ら亡者の手に(ロンドールのユリア)



闇の王ENDでも触れたように、火の簒奪は完全に火を消すのではなく、火の力を人のために使うことを選択したエンディングである


安らぎである闇(完全な暗闇)にも拠らず、といって光の王である神にも拠らない選択である


言うなれば、人自身が煩悩に塗れて生きる、すなわち苦痛の中で生きることを選択したのである


亡者の世界は神が存在せず、また苦痛に満ちている。しかしその選択をしたのは人自身である


亡者とは神に拠らず闇の安らぎにも拠らないあるべき人の姿なのである



簒奪者よ、どうか火を奪ってください

その力を、あるべき人の姿、すなわち我ら亡者の手に(ロンドールのユリア)



そのためには、火と闇とを完全に調和させなければならない


というのも、火が強ければ神が蘇り、闇が強ければ世界は闇に覆われてしまうからである


つまり、闇の力たる暗い穴が8個あってはじめて、火の力と闇とが調和し、完全なる平衡に至るのである


そしてそれを成す者こそが、ソウルから人を解放する亡者の王なのである



火を以って闇を統べる

それはふたつを諸共に、引き受けること

それを成す者こそが…(ヴァンクラッド)



なぜならば底なしの暗い穴ソウルを無限に焼尽することができるからである。すなわち世界からソウルを消滅させることが可能なのである



暗い穴

その暗い穴に底は無く

人間性の闇が徐々に漏れ出し

引き替えに呪いが溜まっていく



人間性の闇とはダークソウルのことであり、それは闇が生命をもったものである。ダークソウルのソウル部分を燃やすのが火である。漏れ出る人間性のソウル部分は火によって燃やされ、残された暗い穴に溜まっていくのである


これは篝火と火防女の関係に近い


亡者の王とは神に拠らず闇に拠らずソウルにも拠らないあるべき人の王なのである



暗い魂の血

闇の生命である人間性が、火の封により仮初の姿を得たものが「」である(小人も含む)


その闇の生命たる人間ダークソウルを断片化したものである


DS3DLCに登場する画家が求めていたのは、この暗い魂の“血”である



暗い魂の血

奴隷騎士ゲールの、虚ろに生じた暗い魂の血


アリアンデルの「お嬢様」が

絵画世界を描くための顔料となる


ゲールが小人の王たちに見えたとき

彼らの血は、とうの昔に枯れ果てていた

そして彼は、暗い魂を喰らった



人喰いによって人間性を増大させられることはエルドリッチに前例がある。彼は人喰いにより人間性を貯め込み薪の王になる力を得ている


彼は人を喰らうことで深みというに近い属性を獲得し、同時に人間性に含まれるソウルも取り込み薪の王の力を得たのである


同様にゲールは小人の王を喰らうことで人間性を取り込み、自身の虚ろに一つの大きな人間性を生じさせた。それは断片化されたダークソウルを再び一つに融合させる試みである


それはある意味で、真ダークソウルと言えるものであろう


ゲールが殺されたとき、その内に宿っていた真ダークソウルもまた生命を失い血を流したのである


真ダークソウルから流れ出る血は熱を失っている。なぜならば熱とは生命であり、生命の失われた血は熱を帯びないからである


画家によって描かれる世界が「ずっと寒くて」と言われるのは、その顔料に熱が含まれていないからである


またそれが暗い世界であるのは、人間性という闇によって描かれるからである


そして優しい世界でもある


…ありがとう、灰の人

必ず、私は描きます

ずっと寒くて、暗くて、とっても優しい画

きっといつか、誰かの居場所になるような(画家)


画家の描く世界が優しい画であるのは、顔料が人間性の血であるからである



深淵の主マヌスのソウル

それは尋常のソウルではなく

どろりとして生あたたかい、優しい人間性の塊である



生あたたかい人間性が、ずっと寒くて、と言われるのは、顔料が暗い魂そのものではなく、それが流した血だからである(上述したように生命の熱が失われ、その血は熱を失っている)


さて、世界を描くことができるのは火を知り、しかし火に惹かれない者とされる


…火を知らぬ者に、世界は描けず

火に惹かれる者に、世界を描く資格はない…(画家)


火とは生命のことである


古竜の瞳

古竜に祈り、それに近づこうとする超越者たちの業

生とは弱さであり、火の者である神々も例外ではない

超越者の目標は、生命とは別のあり様なのだ


火を知る、とはだから生命を知ることである


火に惹かれる者は、火のもたらす生命に惹かれる者であり、それは上述したように「呪い」なのである


よって生命という呪いから解放された新しい世界を描くためには、呪いをもたらす生命(熱)を含まない顔料が必要なのである


それこそが暗い魂の流す“熱のない血”である


そしてそれはゲールの虚ろに結実した真ダークソウルを殺すことで流れ出る


言うなれば、ダークソウルシリーズ最後のボス真の意味でのダークソウルそのものであったのである

2 件のコメント:

  1. わたくし、闇にまつわる考察を見てふと思い出すは闇の謎キャラ「闇潜み」
    闇に潜んでいるから闇術を使うのはわかる。でもこいつ「火球」も撃ってくるんですよね…分身するし翼生えてるし顔見えないし…
    そういえばDS3にも分身してて翼も生えてて顔見えなくて闇と火っぽい攻撃を使ってくる法王いましたね…

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    1. 火球は呪術ですが、呪術とは炎への憧憬とザルマンは言っています
      憧憬、とはつまり憧れることであり、羨望や嫉妬、渇望に繋がります

      強い闇を持つものは同時に呪術の炎への親和性もあるということなのかもしれません

      サリヴァーンは絵画世界出身なので、罪の女神ベルカや黒教会に
      近い存在と考えられます

      サリヴァーンの翼は、渇望や欲望を象徴する木の根状をしています
      人の限りない欲望(煩悩)を形にしたものが、サリヴァーンなのかもしれません

      また彼らが分身するのは、人の二重性(光と闇)の現われとも解釈できます
      抑えきれない闇の部分が分身として具現化したものなのかもしれません

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