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2020年4月26日日曜日

Sekiro 考察59 砕動風鬼 死なず半兵衛

死なず半兵衛の物語は作中や『Sekiro ―外伝― 死なず半兵衛』で存分に語られている。また『外伝』そのもののレビューは過去にしてあるので、今回はそこから漏れた小話などをしたいと思う

『外伝』に登場する正吉の「心は 人であると知っている」というセリフは、半兵衛の本性を的確に言い表した心に残るセリフである

ここにいう「姿は化け物でありながら、人の心をもつ」という思想は、世阿弥の説いた鬼の演じ方の一つ「砕動風(さい どうふう)」と通じるものである

砕動風とは、「姿は鬼の形をしていても、心は人のように演ずること」の意である。ここにいう鬼とは人の怨霊や霊のことであり、妄執を抱えた怨霊を演ずる際の心得のようなものである

蟲憑きでありほぼ不死でありながら戦いに敗れ、世捨て人のように葦名をさまよっていた半兵衛は、まさに妄執を抱えた人の心を持つ「鬼」だったのである

また、世阿弥は鬼の風姿(あるべき姿)を大きく二つに分け、砕動風と力動風を挙げている

詳細は以下のサイトに詳しい
『二曲三体人形図』(東京国立博物館)

力動風とは姿形も心も鬼であり荒々しく演じることとされているが、SEKIROにはこの風姿に当てはまるキャラクターがいる

怨嗟の鬼である

つまり半兵衛と怨嗟の鬼は世阿弥の砕動風と力動風を体現するキャラクターなのである

砕動風鬼である半兵衛と力動風鬼である怨嗟の鬼の違いは、人の心を持つか否かである
そしておそらくこれが、修羅になる者と修羅にならない者の差なのである

どれほど恐ろしい鬼になろうとも、人の心を持ち続けることが修羅に落ちない唯一の手段なのである

ゆえに葦名一心は修羅に落ちなかったのである

その名に「」が用いられているのも、あるいは砕動風の思想をこめたものかもしれない

2 件のコメント:

  1. 一心の名前は修羅に堕ちない、ブレない心のことって解釈熱いですね。まさに名は体を表すって感じです。
    ちょいとお耳に入れてほしいのですが、名は体を表す繋がりで半兵衛について。「知らぬ顔の半兵衛」って言葉があるそうです。意味はそのまま知らんぷりをするということなのですが、ひょっとしたら死なずの半兵衛の名の由来はこれなのかなと思いました。半兵衛も狼の事情を深く聞いたりせずに修練に付き合ってくれたりしますし、不死斬りをただの刀だと嘘をついた時も、見抜いた上で知らんぷりしているような雰囲気がありますから。まぁこれは私のそうだったらちょっと面白いって程度の妄想なのですがね。

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    1. ありがとうございます。人の心の有無が人間をやめた弦一郎との言動の差にもなってくるのかなと思います
      半兵衛の名前の由来については考えてませんでしたが、作中の言動を見る限り当てはまってると思います。とくにコミカライズを読んだ者からするとその印象が強くなります

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