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2020年8月14日金曜日

Ghost of Tsushima レビュー

東洋の女形は女性をコピーしない。女性を表徴する。女形はそのモデルへと凝り固まらない。モデルから身をひきはなして表徴する。女形は読みとられるものとして、女性を現前させるのであって、見られるものとして現前させるのではない。つまり翻訳なのであって、変容なのではない。(『表徴の帝国』ロラン・バルト)

ゴースト・オブ・ツシマ(以下GoT)をプレイしていて思い浮かんだのはロラン・バルトの上記の文章である

いわばGoTで描かれている対馬は「表徴の対馬」であり、その主人公が体現しているのは「表徴の侍」である

しかしながら表徴だからといっていい加減な表現をすると日本のユーザーには違和感しか残らない(例えばフジヤマゲイシャのような)

史料を重視し、しかしそれにとらわれることなく表徴にまで昇華させることにより、はじめて日本人からも違和感のない「表徴の対馬」が出来あがったのである

各インタビューからもわかるように製作者は史実を忠実に再現しようとはしていない。ここが一般的な西洋の制作会社との相違であろう

西洋の女形は一人の女性になろうとする。東洋の俳優は、女性の表徴を組みあわせること以外のなにものをも求めない。(『表徴の帝国』ロラン・バルト)

まず時代劇侍映画といった理想(イデア)があり、理想を具象化するために、彼らは侍の表象を丹念に構築することで、表徴の対馬を作り上げたのである

私見だが、学術的な評価はともかく、ただ単に史料を忠実に再現しました、という作品よりも、GoTの方が創作物としては一段も二段も上である

なぜならば、表徴化された物語は普遍性を帯びるからである

例えばトロイア遺跡は地球上の一地域に関連付けられた遺跡でしかないが、その物語『イーリアス』は全人類の財産ともいえるものだからである

トロイア遺跡が早々に忘れ去られたにもかかわらず、『イーリアス』が連綿と語り継がれてきたのは、その物語に人類共通の普遍性が宿っているからである

※考古学や歴史学よりも文学が上と言っているわけではない

同じように「元寇」の惨劇は、GoTによって史実を越えて、普遍的な物語に到達したのである(全世界のユーザーが遊んでいるというのがその証である)

また題材が「故郷を奪われた者の復讐譚」であるところも、さまざまな国、地域に住む人々への訴求力に寄与している

おおよそ歴史上、侵略を受けなかった国は皆無に等しいからである(何ごとにも例外はある)。どこの国の歴史を見ても、それは侵略と虐殺と、あるいは復讐の物語である

要するに、題材がすでに普遍的なのである

よって、極東のあまり知らない国の歴史を題材にしたものであっても、プレイヤーはすぐに感情移入することができるのである

そしてそこで描かれているのは表徴化された悲劇である。人の業と業が絡み合い、骨肉の争いを繰り広げ、容赦のない運命によってもてあそばれる人間たちの悲劇である

これはまさにギリシャ悲劇である。あるいはシェイクスピアの「リア王」である。そしてその翻案である黒澤明の「」である

常に色物(主に洋ゲーで)として扱われてきたという異質な存在は、GoTによって表徴化されることでようやくゲームの中に確固たる、そして正統な地位を築いたのである

ゲームにおける侍の描写は、GoT以前と以後で変わるかもしれないし変わらないかもしれない。しかしユーザーの目は確実に変化したはずである

もはや色物としての侍偽物臭が漂い、しかし史実に忠実なだけの侍には特殊性を感じてしまう。以後の侍に要求されるのは、普遍的価値を帯びた表徴としての侍であろう

※GoTのフォーマット(「故郷を奪われた者の復讐譚」)は日本に限らず様々な時代・国に適用できる。例えば「英仏100年戦争」「イングランドによるスコットランド侵攻」「ノルマンコンクェスト(征服されてしまったが)」「十字軍(聖地エルサレムを廻る戦い)」「アーサー王伝説(史実を元にした)」「ピサロによるインカ帝国征服」「レコンキスタ」等々枚挙にいとまがない


ゲームとして

さてここからはゲームとしてのレビューである

ストーリーを重視したオープンワールドゲームは、ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下BotW)やRDR2ウィッチャー3などなどもはやオープンワールドゲームの主流の観すらある

GoTはそうした流れを汲んだオープンワールドゲームと言えるであろう。しかもこれまで以上にストーリー性が強い(高いではなく強弱)

ストーリー性を重視した作りは一方で自由度の減少も意味する

例えばスカイリムは一応のストーリーはあるけれども、自由な探索の方に重点が置かれている。また、アサシンクリードも大きなストーリーはあれどそれは幕間劇として扱われ、メインはその時代の世界に浸ることである

これはどちらが良いというのではなく、各ゲームのスタイルの違いである。ゆえに同じオープンワールドだからといって、それらの優劣を決めようというのはあまり賢明とは思えない

ストーリー性を重視すれば自由度は減るし、自由度を重視すればその分だけストーリー性は薄くなる。これはオープンワールドの構造上の宿命であろう

※ブラッドボーンに例えるのならば、啓蒙が上がれば獣性が下がり、啓蒙が下がることが獣性を上げる

GoTはそういう意味では極めてストーリー性の強いオープンワールドゲームである。世界の自由な探索はイベントとイベントのあいだに息抜きに過ぎず、その多くは基本的にプレイ感が似ている(敵の拠点を滅ぼすか、あまり印象の残らないサブクエストを繰り返す)

また、ボス戦に関しても最初から最後まで基本的に同じである。通常戦闘に関しても一騎打ちという特殊なものも含めて、途中からは同じ敵と同じように戦い続けることになる(つまり単調)

しかしオープンワールドであまり凝った戦闘を強制されても疲れるだけであるし、ある程度サクタクと倒していける方がストレスは少ないのも確かである

また時代劇の主人公であれば、あまり負け続けるのもロールプレイとして如何なものかと思われる(座頭市のように強くありたいものである)

GoTの戦闘はそのあたりのバランスを熟慮した末のものであろう。つまるところGoTは強敵と戦い苦難の末に倒す、というふうには設計されておらず、あくまでも主人公は侍として侍らしくまた冥人らしく戦えるように考慮されているのである

これもまたどちらが優れているというのではなく、スタイルの違いに帰結する

ストーリー性を重視した結果として、オープンワールドにありがちな「どこへ行ったらいいか、何をやったらいいかわからない」というプレイヤーは存在せず、誰もが仁の物語を追えるようになっているのである(親切設計はGoTのすべてに貫かれている)

とはいえ世界を探索するというオープンワールドゲームの真骨頂的なものを考えるとやや物足りないようにも感じられる

しかし、代わりにといっては何だが、GoTには「フォトモード」がある。私的にはサブクエストよりもむしろこちらの方がメインである

サブクエストが単調なら風景を撮れば良いじゃない、とばかりにダイナミックに変化する天候や風景が用意され、フォトモードでは時間や気象まで変えられる親切設計である

GoTの世界で遊ぶとはそこに用意されたサブクエスト潰しに躍起になることではなく、世界そのものに浸り、世界を写すことなのである

また上述したようにこの世界は「表徴の対馬」である。ゆえに現実や史実の風景とはやや異なるが、表徴であるがゆえに全世界のプレイヤーの心に訴える普遍的魅力が宿っているのである

現実と寸分違わぬ風景は確かに驚異的なものであろう。だがそれならば現実でいいし、実際の感覚までは再現できず、ゆえに決して現実は越えられない

だがGoTの風景は、現実の模倣ではなく表徴である

つまり偽物ではなく、本物なのである



SS

というわけで撮りためたスクリーンショットから極一部を載せる

ネタバレあり


ミニチュア風



誰かに聞かせたい言葉である








巴は美人だと思います

影の薄いラスボス


堅二のこの姿勢すき





4 件のコメント:

  1. 普遍的な侍の誉と故郷を奪われ復讐者としての誉が入り乱れ、最後まで苦悩しながらも己の誉を捨てなかった仁さんに感動しました。個人的な感想ですみません。

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    1. 仁の葛藤とプレイヤーの葛藤が最後の選択で交わる点がとても秀逸でしたね
      あの瞬間に誉れに板挟みにされてきた仁の苦悩の深さを、ああこういうことだったのか、と腑に落ちた人も多いかもしれません

      ちなみに私はL2を選択しました

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  2. いつもブログ面白く拝見してます。
    GoTで描かれる侍が「表徴としての侍」という指摘はとても納得がいく一方で、そうした表現の仕方がいわゆる「文化盗用」みたいな批判とも結びついているのかな、と思いました。
    GoTに出てくる侍は史実にあえて忠実では無いからこそ普遍的なエンタメの中心に位置できるものになったとして、一方でそこにはどうしても史実を娯楽の婢にしているという側面もありますよね(「ポカホンタス」とか、こういう指摘のある作品は無数にありますが)。
    個人的には、こういった指摘は当然あるべきで、しかしその問題があるからと言って史実をベースにした創作が無くなるべきとも思わないため、批判を意識して続けていくしか無いのかなと思いますが、シードさんはどう思われますか?

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    1. コメントありがとうございます

      私は創作者ではないので完全に外部からの視点になりますし
      おおよそ正義や品行方正とは縁遠い人格をしているので破綻した意見しかできません
      と先に断っておきます

      私の創作に対する考えとしては、本考察でも取り上げたロラン・バルトの「作者の死」に近いものです
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%BB

      作品は作品であって、その解釈は創作者と完全に切り離されていると考えます
      当然ながら創作者の人種、国籍、信条などからも自由であり、一言でいえば無関係です
      ですので、誰がどの文化を扱って作品を作ろうとも問題とは思いません

      またそもそも「文化」という確固たるものがあるとも思いません
      ほぼすべての文化は衝突と混交を繰り返してできた、いわばごった煮です

      文化盗用の文脈で語られる純粋な形の「文化」は、共同幻想的とも感じられます

      ※他文化への敬意は必要ですし、悪意ある扱い方は批判されるべきだと思いますが

      以上が私の意見ですが、この傍若無人の意見のために何か問題が起きたら削除します(申し訳ない)

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