Death Strandingには、解釈や考察を頓挫させるような困難さが存在しているからである
端的に言えば、各キャラクターの証言ならびに信条に相容れない部分があり、また同一の事柄を語っているにもかかわらず、それぞれが完全にすれ違っていたり、ひとつの物語としてうまく再構成できないからである
絶滅体とBT
ひとつ例を挙げれば、ハートマンとスピリチュアリストの絶滅体やBTに対する見解であるスピリチュアリストによれば人の手をもつBTが人類誕生以前に存在していたという。ならば人類はBTを模倣することで人型を獲得した、という推測が成り立つ
※ハートマンによれば哺乳類の臍帯はDSを模倣したもの
そう考えるのならば、空に浮かぶ五人の人影は絶滅体である、という結論までは少々の飛躍があるものの、一応の連繋がつく(BTと絶滅体とを根源的に同じ物と考えるのならば)
だが、ハートマンは体外に臍帯のある生物を絶滅体とし、人型でないそれ(時間の止まった絶滅体)が実際に発見されたと述べているのである。だとしたら宙に浮かぶ黒い影はそれぞれの生物を模していなければならない
※ハートマンの挙げる絶滅体は、三葉虫、アンモナイト、恐竜、マンモス、アイスマンであり、いずれも時間が止まった状態の個体が発見されたという
ところが実際に見ることのできる人影は人型であり、これまでの五回の絶滅と同数の五体である
これは一体どういうことか
いや、そもそもBTや絶滅体が人型で、それを生物が模したとして、ではなぜBTや絶滅体が人型なのか、という疑問が生まれてしまう
つまり、人類はBTを模倣したという説では、人類が人型をしている説明はつくものの、そのひな形であるBTや絶滅体が人型をしている理由は不明のままなのである
スピリチュアリストとハートマンの仮説を破綻なく統合するには、人類が模倣したのは絶滅体ではなくBTであり、空に浮かぶ五体の人影は大絶滅期と同じ数であるが絶滅体ではなくBTであり、絶滅体は時間の止まった状態で地下に埋まっていた、ということになる
ただし絶滅体の体(ハー)と、魂(カー)は分離していると思われ、魂(カー)が人型をしているのだと考えることもできる。この場合絶滅体の魂(カー)が五人の人影の正体となるが、これもまた、ではなぜ魂(カー)は人型をしているのかという疑問は解けない
また、ハートマンによれば人間以外には魂がない。よって三葉虫に人型の魂が宿ることはない
まとめると、スピリチュアリストを信頼するのならば五体の人影はBTもしくは絶滅体であり、BTや絶滅体は人型をしていることになる。そして人類はBTや絶滅体を模倣することで人型となった、という仮説が導ける
だがその場合、ハートマンが主張する「臍帯付きの時間の止まった生物」という存在そのものが仮説と矛盾してしまうのである。なぜならそれらは絶滅体である確たる証拠を有しているが、人類以外には魂が宿らないことから、五体の人影にはなり得ないからである
※人類が模倣したのはBTのみであって、絶滅体は各種生物として誕生し時間が止まったまま地下に埋もれていたと考えることもできる。その場合五体の人影は、人型BTが偶然的に五体、空に浮いていたことになるか、あるいは正体不明の何かとなる
信頼できない語り手
このようにBTや絶滅体をからめて人類の歴史を再構成しようとしただけでも、各キャラクターの証言が食い違い、あるいは完全にすれ違い、解釈が頓挫してしまうのであるどちらかが嘘、あるいは誤りを語っている(信じている)と考えるのならば、その嘘を消去してしまえば、真相だけが残るはずである
しかし、ハートマンの主張には発掘された臍帯つき生物という確固たる証拠があり、一方のスピリチュアリストにも、手形の化石という確実な証拠がある
これはもはや、どちらかが正しいかを究明するよりも、どちらを信じるか、という解釈の問題となってくるのである
もちろん、どちらも虚偽であると解釈することも可能である
両者の信条には誤りがあり、意図的ではないにせよ嘘をついているのである
物語論ではそうしたキャラクターを「信頼できない語り手」(wikipedia)と言うが、Death Strandingにはこうした「信頼できない語り手」が他にも登場する
カバーストーリー
デッドマンがその一人である。彼は自らの経歴を「カバーストーリー」だとサムに打ち明けるまた、彼の収集した情報や打ち明け話の「情報源」や「確度」は故意に隠されている
例えば、BBの脳死母はキャピタル・ノットの集中治療室にいる、とさらりと情報を明かすものの、後には、「おれたちが使っているBB-28の履歴がまるでわからないのは~」と言い始める
これはBBという単語に、「BB技術」「BB-28」「一般的なBB」など複数の意味を持たせていることからくる錯誤と、悪意の無い虚偽から発生する「プレイヤーの混乱」を企図したものである
つまりデッドマンというキャラクターもまた、「信頼できない語り手」の一人なのである
嘘
作中で最も信頼できないのは「アメリ」である当人も「アメリカは嘘から始まった」といい、自らの名を「Ame(魂)とlie(嘘)」と意味づける
その名のとおり、Death Strandingという物語はアメリの嘘によって始まり、嘘によって続けられているのである
テロリストからアメリを救い出すという目的そのものが嘘だったのであり、サムは「信頼できない語り手」の嘘によって北米大陸を引きずり回され、やがて嘘を打ち明けられ、人間不信の極地へとたたき落とされる
少年時代からアメリを姉と慕っていたサムはともかくとして、プレイヤーはこの時点でアメリという人間の一切を信じられなくなる
その後にアメリの側の事情も明かされ、その絶望的な理由を聞いてアメリに同情するプレイヤーも少なくないであろう
だが、本作におけるアメリの嘘は大きすぎた
多くの人にとってはアメリの語る真相すらも、嘘のように感じられてしまったのである
これはおそらく意識的な仕掛けであり、その目的はアメリを「信頼できない語り手」のままにしておくことなのである
メール・文書
本作における「信頼できない語り手」を象徴するアイテムとしてメール、文書が挙げられるプレッパーたちの多くはサムと直接会おうとせず(仲良くなれば泊まれるが)、その信条の多くをメールや文書として、あるいはホログラムとして表明する
こうした方法で表明されるのは、シェルターに閉じこもった人々の見るそれぞれの「世界」である
彼らにとっては真実であり、それをサムに知らせてくるのは善意でしかない
だが閉ざされた世界であるがゆえに、それは独我論の影響から脱することができない
どれもこれも、彼らにとっての真実、でしかなく、ゆえに現実世界における事実とは齟齬やすれ違いが生じてしまうのである
現実世界を歩むサムにとってそれは、「信頼できない語り手」から発せられる「虚偽」の情報に過ぎず、つまるところ「フェイクニュース」の類なのである
けれども作中ではそれは「真実を表明した情報」として提示され、プレイヤーもその通りに受け取ってしまう。事実、重大な点を除けば「彼らの真実」は本作の世界観を理解するうえで大きく間違ってはいないのである
だが、それはやはり真相ではない
羅生門
こうした、「信頼できない語り手」たちによる多元焦点化を芸術の域にまで引き上げたのが、黒澤明監督による『羅生門』である※その原作は芥川龍之介の『藪の中』(+『羅生門』)であり、その芥川もビアスの『月明かりの道』といった先行作品に強い影響を受けている
※90分ほどの作品であり、あらすじを読むよりも実際に映画を観たほうがよい
『羅生門』においては、「殺人」というひとつの事実に対し、登場人物たちの証言がそれぞれ食い違い、あるいはすれ違い、真相だけがまるで「藪の中」にあるようにつかめない
おのおのがそれぞれの思惑のもとに、まったく別のストーリーを物語り、ひとつの事実に対する複数の真相という矛盾した構造が生じるのである
※この手法は羅生門効果(Rashomon effect)として様々な作品で使われている
多襄丸はおのれの蛮勇を曲げぬために、武弘は武士の名誉を毀損せぬために、真砂は女の矜持を守るために、杣(そま)売りはある秘密を隠すために、それぞれが「信じたい真相」を語るのである
真砂は二人の男を争わせ、真砂の「言葉」に翻弄されて、二人の男は殺し合う
それを見ていた杣売りは、三人の矛盾する証言を聞いて人間不信に陥ってしまう
そして、その杣売りから真相を聞いた旅法師もまた人間不信に陥ってしまう
ここにあるのは、嘘から人間不信が生まれ、その人間不信が感染し、さらなる嘘を生むという現代の「炎上」にも似た悪循環である
この人間不信という悪循環を断ち切るのは、一人の赤子なのである
雨
『羅生門』の冒頭は雨のシーンである人間不信に陥った杣売りは豪雨を避けて羅生門で雨宿りをしている
そこにはまだ赤子はおらず、旅法師と下人がともに雨宿りをしている
そしてクライマックスもまた雨のシーンである
雨があがり、太陽光が射すなかを杣売りは赤子を抱いて羅生門から歩き出すのである
これらの場面は、Death Strandingのそれと状況や人物設定などが構造的に類似している
冒頭、サムは時雨を避けるように洞窟で雨宿りをする
この時のサムはもちろん人間不信の状態にあり、まだBBはいない
クライマックス、サムは赤子を抱いて焼却所から出てくる
外は雨があがり、日が射していることを示すように虹が出ている
この場面において、焼却所とは羅生門である
冒頭、羅生門の上階には引き取り手のない遺体が捨て置かれていると明かされるが、物語の初め、サムは大統領の死体を焼却所に運んでいく
羅生門と焼却炉にはまず「死」があったのである
だが物語の終わり、杣売りが赤子という希望を抱いて羅生門を出るように、サムはルーという希望を抱いて焼却所を出てくるのである
羅生門と焼却所とはともに生と死の交錯する場として設定され、人間への不信という死を、希望という生に転換する機能を担わされているのである
ここでサムは杣売りと旅法師、両者の役割を兼任している
人間不信に陥った者が、ひとりの赤子により人間への希望を取り戻したのである
人間不信
焼却場にBB-28を廃棄しに行くとき、サムはフラジャイルからの誘いを断るサムはその理由を「ずっと繋がっていたものを失くした」と説明するのだが、ではアメリのビーチに行く直前にブリッジズのメンバーたちと芽生えた絆はどこいったのか、という疑問が浮かんだのは私だけではないだろう
しかしここでサムはアメリとの繋がりを言っているのでも、メンバーとの絆を忘れているわけでもない。それ以前の人類への希望という細い繋がりを失ったといっているのである
なぜならば、その直前に人類の総意として「赤子殺し」を命じられたからである
これは『羅生門』でいうのなら、杣売りが赤子を抱き上げた時の旅法師と同じ心境である
アメリとの絆を断たれ、またダイハードマンから父親を殺したことを打ち明けられたサムは、人類への希望を失いかけていた
そこへ「ルー」という亡き我が子の名前までつけていた「BB-28」を廃棄せよ、という命令が下ったのである
その瞬間に、サムは人類への希望の一切を棄てたのであろう(デッドマンの言葉の真意はまだ気づいていない)
だが、杣売りが赤子を育てるつもりだと打ち明け、その言葉を聞いた旅法師が人間への信頼をふたたび取り戻したように、サムもまたデッドマンの言葉の真意に焼却所で気づき、そうして人間不信を克服するのである
蛇足
Death Strandingを考察するうえでの困難さはもうひとつあって、それは作品ではなく小島監督本人を考察してしまう、というものである監督は何を考え、何を伝えたいのか、というものを作品を飛び越して小島監督という人物から考察してしまいそうになるのである。これは小島監督という強大な個性を考えれば仕方の無いことなのかもしれない。本考察も『羅生門』という映画作品を引用したのは、小島監督が映画通だから、という点は否定できない
素晴らしいレビューだと思います
返信削除最近監督が黒澤監督の「羅生門」で雨宿りしているGIFアニメーションをRTしていました。
僕の中でより信憑性が高まりました。
悲報:ヒロインのアメリさん。嘘つきすぎ問題・・・なんでなんすかね・・・そりゃサムも壊れものになりますよね・・・。
返信削除トレイラーからの考察全て読ませて頂きました。
返信削除短いトレイラーで考察をして、その殆どが的を射ている事に驚かされました。
DS2の考察はされないのでしょうか?