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2017年2月9日木曜日

奴隷騎士とグウィンの関係

奴隷騎士とグウィンが同一人物ではないかという仮説は宗教学的な面からもあり得ない話ではない

古代ギリシアにはパルマコスと呼ばれる生け贄が実在した。
パルマコスとは「毒薬」とか「薬」を意味するギリシア語だ。
このパルマコスが供犠で殺害されることで、共同体は穢れや悪、災厄などを祓い棄て、浄化(カタルシス)を得たという。

このパルマコスが常在化して、王のかたわらにはべる道化師となる
「道化は王であり、王は道化である」 
宗教学的にはこのような存在は、似非の王、偽王、仮王(Mock-king)と呼ばれる

偽王になるのは多くは奴隷で、祭りの期間中、奴隷は王と同じ振る舞いを許されたという。王妃とさえ寝たらしい。
祭りの終わりに、偽王は処刑され、その死によって秩序が復活(世界が再創造)される。

つまり、奴隷と王とは置換可能であり、祝祭の期間中、王は奴隷となり、奴隷は王となる。
王であるグウィンが奴隷となり、奴隷であった何者かが王として世界を統治する。
この階級の転倒した時空こそが、新たな世界のために用意される儀礼の舞台(DLC)である。

ここから推測しうる可能性が2つある。
ひとつは、DLC2のラスボスは王であるという仮説だ。
王であるが、彼は仮の王であり、その素性は奴隷か道化師だ。
仮王が殺されたのち、本物の王、つまり奴隷騎士ゲールが王の座に戻る=象徴的に世界が再創造される

もうひとつは、奴隷騎士ゲールが仮王となり、王の代わりに殺害される(おそらくプレーヤーに)可能性だ。
ゲールが仮王となり、王して振る舞い、最後に殺されることで、力を失っていた本物のグウィンが復活する。
この場合、ラスボスはグウィンになるだろうか。個人的にはこちらの方かなと考えている。

奴隷騎士ゲールに関する考察
おそらく力を失ったグウィンの代わりに、世界を再創造するために動いている
自らが仮王となり、殺害されることで、穢れや災厄を祓い棄てようとしている
浄化された世界は活力を取りもどし、本物の王、つまりグウィンが復活する

プレーヤーはグウィンを倒した後、世界をどうするだろうか。

2017年2月8日水曜日

ダークソウルの手法について

結論を先に述べてしまうと「構造主義」の流れを汲む「ブリコラージュ(器用仕事)的」な手法が用いられている

まずブリコラージュについて
ブリコラージュとは人類学者クロード・レヴィ・ストロースが提唱した用語で「器用仕事」と訳されている。
簡単に言うと、「何かの役に立つだろう」と考えて集めてきた物を用いて、何か別の物を作りだすことだ。
冷蔵庫に入っていた残り物の食材を使用して作る料理、というふうに説明も出来るかも知れないが、料理の場合、食材は「食べるため」という目的のもとに集められた物なので、あまり適切な例でないかもしれない。他に日曜大工仕事の例もあるが、それもそれほど適切ではない。

あるいは美術にコラージュという手法がある
カラーチラシなどを細かくちぎり、それを張り合わせてまったく別の絵を生みだしたりするあれだ。
こちらのほうが適切だと思われる。まったく別の用途のもとに作られたチラシを器用に張り合わせて、まったく別の物に再創造する。

とにかくまあブリコラージュというのは、無作為に集められたモノを「器用」に組み合わせて、新しいモノを創造すると考えていいと思われる

構造主義
あらゆる概念、思想、神話、人間の思考には、「構造」がある。確かこんな思想だったはず(うろおぼえ)
これもまたクロード・レヴィ・ストロースが源流に係わっている。

神話において、「ブリコラージュ」の材料(集めてきたモノ)となるのが、この構造だ。
例えばタカを祖霊とする一族と、カラスを祖霊とする一族がいるとする。
(祖霊というのは、一族が特別視している崇拝対象のことだ。多くは祖先が何らかの動物だったという伝説があったりする)
この場合、タカの一族がタカに似ているから、祖霊がタカなわけではない。
同様に、カラスの一族がカラスに似ているから、カラスを特別視しているわけでもない。

タカとカラスの相違点、関係性が、二つの一族の関係性と類似しているゆえに、それぞれタカとカラスを祀るのである。
この関係性こそ「構造」であり、タカとカラスの「構造」が、二つの一族の「構造」に類似しているゆえに、二つの動物が選ばれたのである

神話に出てくる動物、自然現象というものは、常にこうした「構造」を内包するために、神話に登場するのである。
「構造」を「器用」に「組み立て」て「神話」を創り出す。この手法が、ダークソウルの手法と同じなのである。

具体例
さてようやく本題に入る。といってもまずはダークソウルと関係のないイギリス史上の人物の紹介からだ。

11世紀のイングランドに、エドワード証聖王と呼ばれる人物がいる。
ウィキペディアからの引用抜粋によると
>>エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。聖公会・カトリック教会で聖人。白子(アルビノ)で柔弱な性格であったといわれる。

さて、ここに出てくるエドマンド2世、これがどんな人物であったか。
再びウィキペディアからの引用抜粋

>>「剛勇王(Ironside)」という異名はクヌート(後のデンマーク王クヌーズ2世)率いるデンマーク軍の侵略に立ち向かった奮闘ぶりから名付けられたもの。

ダークソウル3をプレイした人ならば、あれ? と思うかも知れない。
勇猛な兄と、生まれつき病弱な弟。ローリアンとロスリックに「関係性」が似ている。
さらにロスリックの母親であるエマだが、英語の綴りは「Emma」であり、これはヨーロッパ人命語源事典によると「エンマ」と読む。
DS3には乳母として登場するが、母親と乳母という地位は、女性的庇護者という意味で王子との「関係性」が「類似」している。

ここで重要なのが「モチーフ」ではないということ。
あくまでエドワード証聖王、エドマンド2世、エマという三者の「構造」のみを抜き出して、DS3の舞台上に「組み立て」直している。
なので、エドワード証聖王に関連するイングランド史上にDSのストーリーを強引に重ねることはやめたほうがいい。
ここがややこしいところなのだが、この違いを理解できないと、牽強付会、我田引水の罠にはまる。

ではなぜ、エドワード証聖王を選んだのか。
この王子は、ノルマン・コンクエスト以前のイングランドにおける「最後の王」として知られている。
「最後の王」と「国家」という「構造」をDS上に組み立てなおしているのだろう。
ただし、プロデューサーが漫画「ヴィンランド・サガ」でも読んでたのかな、という身も蓋もない説明が最もしっくりこないでもない。

発展
さて上記のような「ブリコラージュ」がDSには数多く見受けられる。
 無縁墓地の英雄グンダと、結晶の娘クリエムヒルトは『ニーベルンゲンの歌』に登場する兄妹の「構造」を「組み立て」直している
 ただし、その組み立て直し方はわからない。
 兄妹の構造を保ったままなのか、あるいは別に構造に「変化」しているのか判断にするには与えられる情報が足りない。


シリーズを通して同じ「構造」を少し変えて再登場させていたりもする。
 例1:デモンズソウルのアストラエアとガル・ヴィンランド→フリーデ&ヴィルヘルム
 聖女と従者、そして赤子という「構造」は、そのまま女主とその騎士、赤子のようなアリアンデルに「組み立て」直されている


 例2:ユーリアとその弟子(プレーヤー)と太った公使
 カルラとプレーヤー、アルバ
 呪われた女と、弟子、さらに女を求める男という「構造」が踏襲されている


「構造」は柔軟であり、「関係性」そのものが逆転していても(仲良し→敵対とか)、構造は保たれる。

  カリムのイリーナとイゴンは、どちらかというと捕囚とその監視役のような「構造」だが、
  最終的にはアストラエア&ガルの「構造」に落ちつく(ただしそれは破滅を意味する)
  「赤子」がいないので歪んだ「構造」になっており、それが意味不明なストーリーラインの直接的な原因だと考えられる

あまり本気にしないように

創造神話とダークソウル

ダークソウルのストーリーをひと言で言い表すと「創世神話」の反復となる

宗教学者エリアーデによれば、あらゆる儀礼は、「原初に行われた神々による天地開闢」の模倣、繰りかえしである
プレーヤーの旅は、衰えて活力を失った世界を復活させるための儀礼そのものなのだ
>>「世界を更新する唯一の方法は、かの時に神々がしたことを繰り返し、創造を反復することである」(『エリアーデ著作集、神話と現実』)

新年儀礼
日本では一年の始まりに新年の儀礼を執り行うが、この儀礼は原初に行われた神々による創造の、その模倣である。
そのとき、年は新しくなり、同時に世界は再創造される。

婚姻
婚姻もまたイザナギとイザナミの国産み神話にあるように、天地の創造(天地開闢)を意味する
すてべの婚姻儀礼は宇宙開闢的構造をもつ。

戦争
怪物に対する英雄の勝利は、混沌に対する秩序の勝利を意味し、そのとき世界に今ある秩序がもたらされたのである
バビロニアの正月の儀礼アキーツ祭では、マルドゥクとティアマトの闘いの場面が読誦されたという。

例を挙げていくと切りがないが、要するに神話的な思考において、世界はつねに再創造されるものらしい

では再創造の前の世界の終わりはどういった祭儀で実現されたかというと、エリアーデによれば
>>火を消すこと、死者の魂の帰来、社会的階級の混合、性愛の自由、乱痴気騒ぎ
などだという。これらはみな、秩序(コスモス、宇宙)への混沌(カオス)への帰入を象徴するという
>>歳の最後の日に宇宙は原水の中に融没した。闇、形なきもの、未だ顕れざるものの象徴たる海の怪物ティアマトが復活し、再び脅威を与える。
>>そしてマルドゥックはそれを今一度再創造するために、ティアマトを改めて征服しなければならなかった

なぜ宇宙の再創造を求めるかというと、
>>宇宙創造は神的なものの最高の顕現であり、力、充実、創造性の最も強力な表現である。

なぜDSの主人公たちが火を継がねばならなかったかというと、上記のような事情があるからだ。
衰えた世界を再び活気づかせるには、宇宙エネルギーを象徴する火を絶やしてはならなかった。
火を継ぐことでどうにか終末を先延ばしにしてきたのだが、DS3においてその儀礼も限界を迎えつつある
儀礼は儀礼であって、本物の宇宙開闢ではないからだ。

そこでDSの世界の人々は、火を継ぐ以外の方法を求め始めた

植物
>>宗教的人間にとっては、植物のリズムのなかに生命と創造の秘密、また同時に復活、青春および不死の秘密が啓示される
周期的な宇宙再生の奥義を、樹木のなかに見出そうとした者たちがいた。呪腹の大樹、巡礼の蝶、巡礼者。


>>水は可能性の総体を象徴する。それは一切の存在可能性の源泉であり、貯蔵タンクである。すなわち水はあらゆる形態に先立ち、あらゆる創造を担う。創造の一つの原型は、大水のなかに突如顕現する島である。逆に水中に沈むことは無形態への回帰、存在以前の未分の状態へ戻ることを象徴する
付け加えることもないが「深海の時代」のことだろうか。エルドリッジは水に世界の再創造を見出した、のかも。


>>この天の象徴はまた多数の祭儀(上昇、梯子のぼり、成年式、即位式)、神話(宇宙の木、宇宙の山、天地を結ぶ矢の鎖)および伝説(魔法の飛行)に生命を与え、かつそれらを支える。
天の神聖性に活路を求めたのが無名の王なのかもしれない。飛竜に乗り(魔法の飛行)、古竜の頂き(宇宙の山)にいる。

偽王(モック・キング)
世界を再創造する直前に、社会階級の混濁を引き起こすための儀礼が存在する
>>サトゥルヌス祭の期間中、奴隷は主人となり、主人は奴隷に仕える。メソポタミアでは、王が王位を追われ、辱められる
>>(『エリアーデ著作集、聖なる空間と時間』)
偽王につくのは多くは奴隷で、期間中、奴隷は王と同じ振る舞いを許された
祭りの終わりに、偽王は処刑され、その死によって秩序が復活(世界が再創造)される。

奴隷騎士の正体がよくわらかないが、あえて「奴隷」とへりくだった階級を名乗るところを見ると、何か思惑がありそうな気が

その他
おそらく絵を描くことも世界の再創造の象徴。
生地を織る行為も創造的行為。織姫が登場してないのが気になる。
卵もまた創造の象徴。DLC2で王妃らしき女性が卵を持っているのもそういう文脈だろう

罪の都については、考察不足。神官が仮面をつけてるから、あれは「死者」を表すのだと思う。
となると罪の都は冥界、罪人の行く地獄を示し、巨人ヨームは閻魔大王(もっと古くヒンドゥーのヤマ)なのかも
そのヤマといえば、巨人で、人類の祖であり、「最初の死者」なので……ニト?

終わりに
思いつくままに書いていたらぐだぐだに