2018年5月14日月曜日

Death Stranding 考察2 要点の整理

 わたしの小説の多くで時間が大きな役割を演じるのは、宇宙においてははなはだ劇的で、忌まわしくも恐ろしいものとして、この要素がわたしのこころに大きくのしかかっているからです。(『ラヴクラフト全集4』『怪奇小説の執筆について』H・P・ラヴクラフト)

考察1がかなり冗長になってしまったので、その要点だけをまとめようと思う
ついでに前回の考察ではカットした「遊び」に関する考察も含めた。また蛇足としてティザームービーのシーンごとの自分なりの解説もしてみた

時間の消失による「急激な老化」とタイムフォールの「時間が進む」という現象は、現象としては同一である。時間がないことが「原因」であり、時間が進むことが「結果」である。どちらも同一の現象として観測される

Death Strandingの世界には3つの領域がある


1.人間界
2.異界(赤ん坊、死者、神々の世界)
3.砂浜(人間界と異界の重なる領域)

である

1.人間界とは人間の住む世界である


2.の異界とはニライカナイ的な世界である
ニライカナイの特徴としては以下のものが挙げられる

豊穣(生命の源)が存在する
死者が住む
神々が坐す
時間が存在しない


3.砂浜とは、人間界と異界とが重なった時にだけ出現する「遊びの場」である
砂浜の特徴としては以下のものが挙げられる

・時間や場所が一定でなく、場所や時間は常に不確定である
・人間界の土と異界の水が合わさることで徐々に「砂浜化」する
・人間界と異界の住人の両者が存在することが可能である
・「闘争の遊び(ヘアゾ・ラーク)」の行われる場である

「闘争の遊び」に関しては前回も触れた「タケミカヅチとタケミナカタの力比べ」が参考になるだろう

遊びは闘争であり、闘争は遊びなのである。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

遊びは残酷な、血を見るものでもありうるのである。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

純粋な遊びであるからこそ聖なる祭儀的分野に属しているのだ(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

こうした遊戯的な闘争が行われるのが遊びの場である

 空間的制限。闘技場、トランプ卓、魔術の円陣、神殿、舞台、スクリーン、法廷、これらはどれも形式、機能からすれば、遊びの場である。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

そしてこの遊戯は砂浜という時空でのみ行えるものである

遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)


Death Strandingで演じられる遊戯とは「花いちもんめ」あるいは「鬼ごっこ」である
鬼は異界の神であり、「花いちもんめ」の歌に登場する「子供をさらう鬼」である。

さらわれる子供を助けるための道具が「縄」なのかもしれない


蛇足:ティザームービー考察

第一弾
カニの死骸の散乱する砂浜からスタートする。カニとはきわめて「砂浜の生物」であり、砂浜化した場所には常にカニが登場する

砂浜に怪物の足跡がつけられていくが、姿が見えない。これはこの場所が砂浜化しつつあるか、あるいは砂浜化が終了しつつあることを意味する。この場面では砂浜化が終わり、死者の国である異界に取り込まれてしまったことを意味する。よって、砂浜に打ち上げられた魚類や鯨類はすべて死んでいるのである。


第二弾
土と水の混じり合った場所が映し出され、やはりカニが登場している(砂浜化の影響)。その場所をギレルモ・デル・トロ監督が何かを抱えて、何かから逃げている。キャタピラ音を鳴り響かせて橋の上を戦車が進んでゆくが、随伴しているのは古い軍服を着た骸骨の兵士である。

足下に黒い水(異界の水)が押し寄せてくるのを見たギレルモ・デル・トロはコックをひねる。すると抱えたポッドが透明になり赤子の姿が映る。これは異界に取り込まれつつある世界で、それに対抗することができるのが「生命の根源」を象徴する「赤ん坊」だけだからである

足元を流れてゆくのは、おもちゃの赤ん坊である

おもちゃは現実の世界と想像の世界のあいだをつなぐ媒介物である。(『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』ジャック・アンリオ )

おもちゃの赤ん坊が流れてゆく下水道の先に、近代兵装をまとったマッツが登場する。彼の流す涙が黒いことから、彼は異界の存在(あるいは異界の力を行使できる存在)であることがわかる(骸骨兵を使役してることから)

また人差し指を口元に持ってゆく仕草は「沈黙のルール」をあらわすが、これは「言語の遊び」である「詩」を禁じているのである。

詩は言葉、言語の遊びである……まさに言葉の文字通りの意味で、そうなのだ。(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ)

そして最後に笑う。かのアリストテレスは人間を「笑う動物(アニマル・リデーンス)」と呼んだ。笑うのは人間だけなのだ。ゆえに彼が人間であることがわかる

まとめるとマッツは、異界の力を行使することのできる人間、ということになる。彼はこの遊び場のルールに精通している異界側についた人間であると思われる


第三段
やはり大量のカニの死骸からスタートするが、これもまたこの場所が砂浜に関係することを示す。

倒れていたノーマンが目を覚まし、あたりが水に濡れている(砂浜化しつつある)ことに気づく

投げ出された遺体袋のには金色の何かが張り付いているが、これは仮面である。死者が異界に取り込まれるのを防ぐ役目がある。

車の下敷きになった男の顔が水に濡れ、その顔が急激に老化してゆく。これは彼が「時間を失った」ことを意味する(浦島太郎のように)

足跡だけの怪物が登場し、人間たちは沈黙を強いられる。それがこの遊び場のルールであり、破ったものは負けとなる。色鬼高鬼と同様に、喋ったらいけないというルールの鬼ごっこ。実際的にはしゃべると鬼に見つかり殺されると思われる

死体袋が振動し地面に溶けてゆく。これは仮面と顔との間の「遊び」を失ったからである。遊びを失うと「顔と仮面の同一化」が進み、死者は死者として異界に取り込まれてしまう

自分の顔と仮面のあいだの「遊び」。それがなかったら、仮面は顔に張り付いてしまい、役者は人物像とは区別がつかなくなる。同一化が進んで錯乱に達する。(『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』ジャック・アンリオ )

砂浜化が進み、神々が顕現する。ノーマンの左足の赤い色の液体は、血液である。生命(時間)を意味する血液は、異界の水に触れると激しい反応を起こすのであろう(少量の血液なので反応が限定的だが、人が一人取り込まれると大爆発を起こす)

重症を負った男が黒い腕にさらわれる。黒い腕は死者の腕であり、死者たちは生者を貢ぎ物として神のもとへ運ぼうとする。もうひとりの男は生贄を殺害することで破局を防ぐ

マッツの登場により、砂浜化が完全に完了し遊戯が開始されたことが示される(このことからマッツは完全な敵対者というより、通知者あるいは審判的な役割かもしれない)

そして見つかった生者は死者に捕らえられる。男は赤ん坊の入ったポッドをまだ見つかっていないノーマンに投げてよこす。男は自殺することで破局を逃れようとするが、それは果たされない。なぜならば「砂浜」においては「生と死」曖昧であるからだ。

捕らわれた男は神に喰われる。喰われるのは肉体ではなく男の持つ「時間」である。

時間のない異界において、生者のもつ時間は爆発的な効果をもたらす(宇宙が始まり時間が誕生したように、その存在は新たな宇宙を誕生させるほどのエネルギーを持つ)。具体的には人間界に異界の領域を創造することができる(遊戯による創造

大爆発の次の場面でノーマンは海中にいる
この海は異界の海だ(ニライカナイ常世は死や神々と同時に、生命の根源をも包含する複合的な概念である)魚やクジラが生きて泳いでいるのは、ここが豊饒の海であるからだ。

この豊穣の海に属するのが、ノーマンの喉の奥にいる赤ん坊である(赤ん坊は生命の根源を象徴するものとして異界に属する

覚醒したノーマンは黒い水を吐く(このことが豊饒の海もまた異界であることを示す)。この黒い水は「生命の水」でもある

 ペルシア文学では生命の水は乙女の髪の毛のように黒いと表現された。
 黒い死者によって管理された黒い生命の水と泥んこを人々は身体に塗ることによって再生の力を得ようとした。(『神話と民俗のかたち』井本 英一)

再生の力をもつという生命の水に浸ることで復活したノーマンは、右目から透明な涙を流す。これもまた生命の水である。この水が透明なのは、豊饒の海において水が透明だったように、ノーマンが豊穣の海に属する者となったことを現すからだ(飲み込まれた水は異界の水であるゆえに黒いが、さらに豊穣の属性を帯びたノーマンの流す水は透明である)。

要するに、マッツが神々と死者の側の人間であるのと対称的に、ノーマンは豊饒の海側の人間となったのだ

クレーター世界から奪われた土地を現わすものであり、異界化されてしまった世界を象徴するものである

そこは時間が存在しない「異界」であるがゆえに、それ以降の時間そのものが不可能であり、よって「最後の」爆発となるのである

2018年5月12日土曜日

Death Stranding 考察1 時間と砂浜

ルマルマは人間の姿をした巨人で同時に鯨でもあるが、海岸からやって来て西へ旅し、途中で出会った人間を皆むさぼり食った。人間に殺されそうになったルマルマは、人間に加入儀礼(秘儀)を教え、鯨となって海に帰った(死んだ)。(オーストラリアの神話『エリアーデ著作集 07巻 神話と現実』)

Death Stranding』というタイトルは、座礁鯨(クジラの集団自殺)をあらわす英語「Cetacean stranding」からとられたようだ(英語版『Death Stranding』のwikipediaより)

この「Cetacean stranding」であるが、クジラが乗り上げることが多いのは「砂浜」である(グーグルで画像検索するとほぼ全例が「砂浜」である)

この砂浜という地形に何があるのか
宗教学的、神話学的に「砂浜」が何を意味しているのかについて考えてみたいと思う


砂浜という境界

砂浜とは海と陸との間にある、狭く細長い領域のことである
古くから人はここを「異界と接する場所」と考えていた

異界とは、人間の世界ではない他界のことであり、古代においてそこは「神々の領域」であった
神々といっても狭義の神(いわゆるキリスト教的な)ではなく、「人間を超越した現象(生命の根源や豊穣)を司る領域」、と考えたほうがいいだろう

要するに海の彼方にある、人の手に負えない世界
古代の人々は「」をそのような「エネルギーに満ちた得体の知れない他界」として見ていたのである

沖縄に伝わる「ニライカナイ」や折口信夫のいう「常世」などが海の彼方にある他界の観念として最も純粋な形を残したものであろう

ニライカナイ常世は、「豊穣(つまり生命の根源的エネルギー)」が充満し、「神々の棲む領域」であると同時に「死者の国」でもある

そうした異界と対峙する形で人間が生きる「陸」が存在する
ここに「陸、土、生/海、水、死」という対比が生まれる

この「陸(生)/海(死)」狭間に位置し、両者を媒介するのが「砂浜」なのである
こうして「砂浜」には「生と死」という両義的な性質が付与されるのである

この媒介的な性質をよくあらわすものに「産屋」という風習がある
出産をする女性が隔離される小屋のことで、出産の際の血の穢れ共同体に触れさせないため、という説明がなされることもあるが、おそらくこれは後付の説明であろう

古事記においてトヨタマヒメは砂浜に産屋を作りウガヤフキアエズ(神武天皇の父)出産するが、なぜ砂浜かといえば、そこが「生と死の境」であるからだ(ちなみにカニ箒で掃うという儀礼的な所作が登場する)

父が海神であるトヨタマヒメの場合、海神を信仰する部族の神話に影響を受けた可能性もあるが、わざわざ陸でも海でもなく砂浜で出産したのは、そこが「生と死の境」であるからと考えられる

海のない土地でも考え方は同一である。海のない土地では「海」は「山」と置換される
民俗学者の柳田國男が論じた祖霊信仰において、山は死者の還る場所であり、同時に神のやって来る領域でもあるとされる(つまりニライカナイと機能的には同一

人は産屋という境界に置かれた密閉空間で「死から生」へと変転し、また喪屋という境界に置かれた密閉空間で「生から死」へと変転する、というのが古代の人々の死生観であった


そして、竜は海辺の砂浜に立った(『ヨハネ黙示録』)

砂浜は人の生死に密接に関係するだけでなく、彼方から到来した神が依り着く場所でもある

代表的な例がヒルコである

イザナギとイザナミ最初の子であるヒルコだが、不具の子であったために海に流されたという
そのヒルコが流れ着いたという神話が、日本各地に伝えられている

漂着したヒルコは多くは豊穣の神と崇められたという。やがてそれは恵比寿信仰と習合するが、海岸に流れ着いた「謎の物体」神と崇める風習が、日本には存在したのだろう

能楽には「翁」という演目がある。
この「翁」は老人の姿をしているが、「神」である
神が寿ぐのでめでたい演目とされ、正月などよくTV番組などで放映される

さてこのがいるのは、舞台上に極めて巧みに再現された「砂浜」である
砂浜に青い松(「白砂青松」)がある場所に神が降り立つ(依り着く)のである

また『翁』に使われる「翁面」の中には海の彼方から流れ着いた、という伝承を持つものもある(『宗像軍記』)

国譲り神話においても砂浜は重要な場所となる
葦原中国の平定に遣わされたタケミカヅチが降り立ち、コトシロヌシに国を譲るように迫ったのが、「出雲国伊那佐の小濱」なのである(砂浜の持つ境界性ゆえに外交の場に選ばれたのである)

ところが外交が決裂し、その砂浜は一転、戦場ともなる
タケミカヅチとタケミナカタ力比べが行われたのもこの砂浜であった(境界的な領域である砂浜は国境でもあるがゆえに、戦場となる)

砂浜をめぐる物語のうちで最も有名な例が「浦島太郎」であろう
いじめられたと出会うのも砂浜であり、帰ってくるのも砂浜であり、玉手箱を開けるのも砂浜である
要するに「異界である海と竜宮城」以外は、すべて砂浜の物語なのである

重要な点は、異界と人の世界では「時間の流れ」が異なるというところだ
より正確に言い表すのならば「異界」は「時間」から隔絶している

というのも、浦島太郎のおとぎ話の中には「四方四季の部屋」というのが登場することがある
この部屋からは四つの季節(春夏秋冬)が同時に見えるという
つまり「時間の流れる速度」が異なるのではなく、異界には「時間が存在しない」

海の彼方にある異界を「常世」ともいうが、常世とは「永久に変わらない神の領域」を意味し、このような時間の超越性こそが「異界」の定義のひとつなのである

近代における最大の砂浜の物語は、「ノルマンディー上陸作戦」であろう)
(幾度も映像化されたこの第二次大戦最大の作戦において、砂浜は「生と死」の交錯する境界的な時空となる
そこでは神話的な闘争が繰り広げられ、戦争という名の破滅的な儀式が執り行われる)
(生と死が混ざり合い、混沌が極限に達したその瞬間に、名状しがたき何か異界から到来するかもしれない)


Death Stranding

さてようやく本題に入る

上述したように「砂浜」には「境界性」があり、「世界と異界を結びつけ」「異界との往来」「生と死の移行」を可能にし「神を降り立たせ」「神と相まみえる(外交や闘争)」ことのできる性質がある

「砂浜」「生と死」「陸と海」「土と水」狭間にある場所であり、それらのどちらにも属さない場所である

「異界」とは、上述したように「生命の根源」が充満する領域で、かつ「神々の住まう領域」であり、そのうえ「死者の国」でもある

「世界」とはもちろん人類が存在する領域である

ティザームービーを見た上で、これらをまとめると以下のようになる

異界には赤子(生命の根源)骸骨兵(死者)巨人やクトゥルフ的な神(神々)が属している
海中のシーンは異界であり、黒い水や骸骨の兵士(死者)もまた同じ異界に属している
と、同時に異界にはクトゥルフ的な神々も棲み着いている

これらは何もオリジナルな設定ではなくニライカナイや常世と同じ構造を持っているのである
「正と負(生と死)」さらに「神」をも包含した複雑な「異界」が、「砂浜」を挟んで人類の「世界」と向き合っているのだ

ただし「砂浜」地形的(三次元空間的)な意味での「砂浜」ではない
そこは、土と水の混ざり合う場所、つまりムービーに登場する雨の降る領域である
世界と異界とが重なった境界的領域」が「砂浜」となる)

異界からの水が、世界の土混ざり合ったとき、そこが砂浜と化すのだ(ゆえに異界化した場所には、砂浜の生物であるカニが登場する)

その瞬間、その時空は「世界と異界を結びつけ」、「異界との往来」や「生と死の移行」を可能にし「神を降り立たせ」、「神と相まみえる(外交や闘争)」ことのできる砂浜となる

Death Stranding「砂浜」で繰り広げられる人類と神々との闘争をプレーヤーに体験させるものかもしれない

「生と死の移行」が可能な境界性を帯びた砂浜においては、人間は生死が曖昧な状態に置かれる(砂浜化が進行すると自殺を試みても、それは果たされない

さらに世界と異界とが重なりつつある「砂浜」であるため、異界の神が顕現することが可能となる

顕現した異界の神は生者を喰らおうとする。より正確に言えば生者の「時間」を喰らう

この時、世界からも「時間」が消失する生者は世界に属しており、彼の持つ時間は元は世界のものであるがゆえに、彼の時間が喰われた時、世界からもその時間失われる

この時なぜ爆発という激しい反応を伴うかというと、ビッグバンによって時間が始まったように、異界の神が得た時間によって新たなビッグバンが引き起こされるからである(そうして誕生した領域は、異界と融合し、異界は拡大してゆく)

 人類が出現するわずか五千万年前まで生息していた種族。この種族は、時間の秘密をつきとめた唯一の種族であるが故に、最も偉大な種族であるとされている。(『時間からの影』大いなる種族について『ラヴクラフト全集3』)

人類世界に属する者時間喰われることで、世界は時間を失い人類は陣地を失う

砂浜における闘争はそこが2つの世界が接する境界であるがゆえに領土争い色を帯びる(国譲り神話にあるように)

こうして誕生した新たな異界領域であるが、異界には時間が存在しないため、異界化された新しい領域にも時間は存在しない(ちなみに近代的兵装のマッツが第二次大戦中出現できるのも、異界人類世界の時間とは無関係に存在するからである)

また、浦島太郎玉手箱を開けたときに起きた現象は、老化ではなく時間の喪失」である。急激な老化という激しい反応は時間を喪失したことによる現象である。(ムービーで黒い雨に濡れると急激に老化するのは、同じ現象であると考えられる。

人類の最後の爆発は、世界から時間が消失するという、世界の異界化によって発生すると考えられる(時間が存在しなくなるので、「それ以降の爆発」原理的に不可能となり、それゆえ「最後」なのである)
無垢の予兆
一粒の砂にも世界
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限
一時のうちに永遠を握る。(『ブレイク詩集』)

さて闘争に破れたノーマンであるが、赤子の力復活する
なぜ復活が可能かというと、赤子が「生命の根源」であるからである
この生命の根源という属性もまた、ニライカナイ常世といった異界の属性の一つである

おわりに

本来であれば「軍事」「歴史」「社会情勢」「科学」を絡めて語りたいところだが、ムービーがあまりにも非現実的であり(それさえもミスリードかもしれないが)、また実は小島秀夫という人物をあまり詳しく知らない(ゲームとしてプレイしたのはMGS5ぐらいである)ため、無責任かつ悪ふざけも込めて、思い切った妄想を爆発させてみた次第である

考察するうえで困ったのが赤子とクトゥルフ的神々、さらに死者の軍勢統合する原理が見つからないことである。各々に別々の設定があるのではないかと思われるほど各要素に統一感がなく、一つの作品としてイメージできなかったのである

しかしながら各要素を「異界」というパースペクティヴから俯瞰した時に、意外に馴染みのある概念が想起されたので、それを起点いつものようにダラダラ連想しつつ書き連ねていった次第である

またredditの古代エジプト神話説をすでに読んでいたので、あえてちょっと日本神話にこだわってみたところもある。エジプト神話については全く詳しくないため(「アサシンクリード オリジンズ」をプレイした程度の浅い知識)、古代エジプト神話説どれくらい蓋然性があるのかすらわからないが、一読するかぎりかなり説得力があるように感じた。とはいえ、異界観(他界観)世界どこに行ってもだいたい似通っているので、日本神話から語っても、もしかしたらまぐれでカスることもあるかもしれない

ただし時間の相対性、つまるところアインシュタインの相対性理論等の科学的知見完全に無視しているので、全くの見当違いという可能性も高い

本音を言えば、テロリズム、難民問題、AI、VR、ヒッグス粒子、統一理論、SNS、LGBT、言語学あたりに触れてくると思っていたので、現在発表されているティザームービーはやや予想外であった。


2018年4月15日日曜日

ゼノブレイド2 考察8 グノーシス主義と超人思想

キリスト教グノーシス主義と主流派キリスト教の最も根本的な差異は、創造主の捉え方である。

創世記にあるように、主流派キリスト教は世界を創造した神こそが善であると考える。
一方でグノーシス主義では、世界を創造した存在こそが悪の根源とし、悪の創造主の上位に善なる神がいると考える。

主流派キリスト教
 善なる神(創造主)→世界
 
グノーシス主義
 善なる神・・・・・・→悪の根源(創造主)→世界

なぜグノーシス主義がこんなにややこしい構図を創出したかというと、悪の起源の問題を解決するためである

ドストエフスキーはその著作『カラマーゾフの兄弟』において、イワンに反カトリック的な教説を述べさせているが、そのうちのひとつに「悪の起源の問題」がある

イワンは「両親に虐待された末に死んだ幼児の話」をする
何の罪もない幼児両親はただ邪魔だからという些細な理由から虐待し、幼児は糞塗れで死んでいくのである

なぜこれほどの「悪」がこの世界に存在しているのか
善なる神が作ったはずの善なる世界に、なぜ「悪」が存在しているのか
もし本当に神が世界を造ったのだとしたら、「神はこの幼児に加えられた窮極の悪」を許していることになる

いや、許しているどころか、神がその意志により世界を造ったのだから「悪を望んで」さえいる

善なる神がなぜ悪を許すのか
なぜ人類は悪によって苦しみ続けなければならないのか

この難問に対するキリスト教、ユダヤ教側からの一応の回答として『ヨブ記』がある

神とサタンとの賭けの対象となってしまったがために、義人ヨブが様々な苦難を受けるという話である
苦難は理由もなく突然、何の前兆もなしにヨブを襲い、ヨブは家族や財産をすべて失う
なぜ自分がこれほどの禍いを受けなければならないのか、ヨブは苦悩するが神を信じ続ける
サタンや友人たちによる説得や誘惑をはねのけ、神への信仰を捨てなかったヨブは最後は神によって報いられる

つまるところ偉大なる神の意図矮小な人間は理解することができず、すべては神の不可知の意思によるところであり、人間が可能なのは神を信じることだけである、となる

なんだか煙に巻かれた感は否めないが、まさしく問題を有耶無耶にしているのである

実は、この根源的な問題をキリスト教は未だ完全に解決できていない
それほどこの問題はキリスト教にとってクリティカルな問題なのである

なので、キリスト教ができてから遙かに下ったドストエフスキーにも突っ込まれているのである


一方グノーシス主義者は、世界に悪があるのはこの世界を創造した者が悪であるからだ、と単純に考えた
善なる神ではない悪の体現者(デミウルゴスとかサバオート、ヤルダバオトなどと呼ばれる要するに悪魔)が世界を造ったのだから世界に悪があるのは当然である

とはいえ、善なる神と悪魔との間に繋がりがないわけではない(悪魔も神の要素を微かに有している)

宗派によっても異なるがグノーシス神話における善なる神は「何もしない」か「消極的」である
ただし善なる神を仰ぎ見る天使的な存在がいる

そのうちの最後列にいる天使(男性的天使と女性的天使の対存在であることが多く、女性的天使はソフィアと呼ばれることが多い)が、好奇心から神を直接知りたいと望む

この好奇心による過ちが、重大な事件を引き起こす
あまりに不遜な試みゆえに、ソフィアは神のいる世界から弾き飛ばされそうになる(落下する)

このとき、ソフィアは自らの内にある「情念」を切り離して神のいる世界にとどまるが、一方切り離された情念は、神の世界からこぼれ落ちる
どこへ落下するかというと、暗い水面(創世記に対応)、深淵等のはっきりしない時空である

この「情念」こそが、創造主デミウルゴスとなり、世界を創造する悪魔となったのだ
神との繋がりを保ちつつ、悪の起源天使の好奇心(「情念」)と位置づけることで、グノーシス主義者は「世界に悪が存在する理由」について応えようとしたのだ。


ややこしいというかひどく迂遠な思考法であるが、すべての一神教は構造的にこの問題を避けて通れない

善と悪の神を前提とする「二元論宗教(例えばゾロアスター教)」ならば答えはもっと簡単で、人間は善と悪との闘争に巻き込まれており、人は悪と戦わなければならない、となる



なぜこの世界に悪が存在するのか?
この疑問は、日々報道される忌まわしい事件を思えば現代人にも通用する問いである

この難題に対する明快な答えを人類はまだもっていない現代人の多くが神を信じていない現状で、神を前提として道徳を語られても、説得力がない

ただし、人類史のなかでただ一人だけ生真面目に真っ向正面から応えようとした人物がいる

ニーチェである

ニーチェはその著作『ツァラトゥストラかく語りき』において、神の死とともに超人思想を説いている

「神は死んだ」という有名な文言によって、ニーチェは神が死んだあとの世界、神無き世界を読者に現前させる
二元論的な宗教の開祖であるツァラトゥストラ(ゾロアスター)に「神の死」を宣言させているところにポイントがある

つまり「悪の起源」に対して「二元論宗教」という便利な逃げ場使えないよ、とあらかじめくぎを刺しているのだ
ニーチェは神という安易な避難所に逃げ込むことなく、とことん思索を突き詰めようとしたのだろう

神の存在しない空疎な世界捨て置かれている
いま感じている苦痛明日も感じているだろうし、百年後の誰か同じ苦痛感じているだろう
苦難と苦痛延々人を苦しめ続け、それは救済されることなく、未来永劫終わることがない

苦痛あふれる世界が永劫に回帰する

ニーチェにおける永劫回帰とは、意味が喪失した無の深淵のなかで、苦痛に満ちた同じ「生」繰り返し生きることに他ならない

この途方に暮れるような絶望的な状況下「然り(それでよし)」と言える人間こそが「超人」である

突然だが、この超人思想こそ「ゼノブレイド2」の主人公「レックス」の基本的な思想なのである
王道物語の主人公でありながらレックスに対する批判がやや多いのは、「超人思想」というラジカルな思想、属性が付与されているためである

永劫回帰の苦悩を肯定するその姿勢はゼノギアスにおけるフェイと似通う)


マルベーニ

上でグノーシス神話における世界創造について触れた。そこで善なる神創造主かすかに繋がりがあるということも記した。当然ながら創造主に造られた人間もまた善の神と繋がりがあるということになる

善なる神・・・→ソフィア・・・→情念→創造主→世界+人間

より簡単に記すならば、上記のような系譜となる

つまり人間善なる神由来の何らかの「要素」を受け継いでいることになる
グノーシス主義おいては「本来的自己」「霊魂(プネウマ)」「火花」や「光の粒子」と呼ばれるもので、それら「神(霊)的要素」肉体(物質)という牢獄に閉じ込められている

人間が神の救済にあずかれるのはこの神的要素ゆえであり、霊魂だけが神の世界へと到達することが可能なのである。この自身の内にある神的要素を認識することがすなわちグノーシス(認識)に至る条件の一つなのだ(ほかにも反宇宙論だとか救済者とか)

さて、これらの要素をゼノブレイド2に当てはめてみると下記のようになる

神→ゲート
創造主→クラウス
神的要素→プネウマ(プネウマには「魂」という意味がある)

つまるところグノーシス神話における「神的要素」外的に表現したのがプネウマ

実際ヒカリとホムラがプネウマの形態をとった際には、彼女はゲートの力を帯びている
その瞬間彼女はゲート由来の要素そのものとなり、それをあらわす名が「霊魂(プネウマ)」なのである

ただしゲート由来の神的要素を秘めているのは天の聖杯の、しかもプネウマ形態になった時だけである
ところが、ただのコアクリスタルにも神的要素が含まれていると考えた者がいる

マルベーニである

マルベーニは、コアクリスタルに秘められた神的要素をかき集めて神の国へ行こうとしたのだ
(あるいは神的要素との合一を果たし、最終的に神との合一を目指した)

世界を滅ぼしたいほど憎んでいるにもかかわらず、世界をすぐさま滅ぼそうとせず、なぜかコアクリスタルの洗礼を500年も続けている、その理由が、この神的要素集めなのである

マルベーニとしてはもはや世界はどうでもよかったが、神の御許へはどうしても行きたかった。そのためのコアクリスタル洗礼だったのだ

ブレイド(コアクリスタル)を統べる力を与えられたのは、その内にある神的要素を抽出して神の国へ戻るためであり、神は自分にそうせよと命じている、と考えたのだ

ただしマルベーニは創造主クラウスを神だと勘違いしているし、コアクリスタルに神的要素は含まれていない
ゆえに、コアクリスタルをどれほど集めようとも、神の御許へは到達(届かない)できないのである

神の御許へ行こうとして500年も頑張るのは、ゼノギアスのカレルレンを彷彿とさせる)


イーラ

偽物の神本物の神と信じて合一を目指すマルベーニとは対照的に、イーラ(シン)はグノーシス主義的な思想に行き着いた。

この世界に悪が溢れるのは、神が悪そのものであるからだ。この世界に悪をもたらした神を殺すことでしか、この苦悩の輪廻終わらせることはできない

そう考えたイーラ(シン)は神を殺しに行く

一方、神との合一を目指すマルベーニとしては神を殺してもらっては困るのである。しかも、神を殺そうとしているのがただの狂信者ならともかくメツという本当に神を殺せそうなブレイドなのである

世界樹においてマルベーニが泡を食ってイーラを妨害したのは、マルベーニのこういった事情があるからなのだ
(正直、初プレイ時にはなぜマルベーニがイーラを妨害するのかよくわからなかったが、マルベーニ神を憎まず世界を憎んでいるのに対し、イーラ神も世界も憎んでいるために、双方がぶつかりあうこととなったのだ)

最後の場面でシンレックスに対して永劫回帰(永劫に続く苦痛の世界)を提示し、レックスはそれに対して「超人思想(たとえ世界が同じ苦しみを繰り返そうとも、それでも人は前に進んでいく)」で応える
(マルベーニとシンを合体させるとカレルレンになるか)


メツ

神を殺そうとするシン世界を滅ぼそうとするメツは似ているようで少し思想が異なる

メツはマルベーニの世界を憎悪する性質を純粋に受け継いでいる
あまりに純粋に受け継いだがゆえに、メツは世界の中にいる自己すらをも憎まざるを得ない
世界を消去する者という「役目」によりメツは世界を憎悪するが、しかしその「役目」すら憎まざるを得ないのである

自己存在の否定が極限にまで高まった存在がメツであり、彼は与えられた役目をも拒絶しようとして、神でも創造主でもない「悪の起源」へとたどり着く

それが「自由意志による悪」である
自由意志によるには、それ以上の起源は存在しない。それ以上遡ることができないからだ

役目でも命令でもなく自分自身の意志として悪を志向し、世界を消去しようとする
(与えられた役目を果たしているうちは、大嫌いな自分から逃れられない。かといって悪として造られた彼は善に転向することもできない。できるのは自らの意志として悪を行うことである)

それはもはや虚無への意志であり、究極の苦悩でもあったが、それゆえに彼自身の「生」に意味を持たせた
『生そのものは本質において、他者や弱者をわがものとして、傷つけ、制圧することである。抑圧すること、過酷になることであり、自分の形式を強要することであり、他者を自己に同化させることであり、少なくとも、穏やかに表現しても、他者を搾取することである』(『善悪の彼岸』光文社古典新訳文庫 中山元訳)
すなわち被造物の最たるものである彼は、生の根源的な部分にまで立ち返る必要があったのである。そうしなければ自由意志を持つ存在として生きることができなかったからだ

その一種ルサンチマン的な怨恨の発露は、当然ながら超人としてのレックスには通用しない
あくまで善悪の水準に止まるメツに対し、レックスは善悪の彼岸に立つからである

『こうして正午の鐘が、大いなる決定の鐘が鳴り響き、これが意志をふたたび自由にしてくれ、大地にはその目標をとりもどさせ、人間にはその希望をとりもどさせるのだ。この反キリスト者、反ニヒリスト、神と虚無を克服する者――この者はいつか訪れざるをえないのだ……。』(『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫 中山元訳)

2018年1月22日月曜日

ゼノブレイド2 考察7 エーテル

考察スレでエーテル議論が盛り上がっていたので刺激を受けて考察してみる。なお考察スレの議論には参加していない。

エーテルに関することならばエーテルの操作が可能なカムイが最適だろうということで、ヨシツネによるカムイの説明からはじめたいと思う



1.エーテルエネルギーは空間に存在する
2.ブレイドはエーテルエネルギーを武器のクリスタルへ送り込んで力を発生させている
さらに以下のドヤ解説によると、ヨシツネとカムイはエーテルエネルギーの流れを操作できるらしい

ただし、操作できるのはエーテルエネルギーの「流れ」のみなので、ヴァンダムさんの捨て身技が有効だった(とはいえ、武器へのエネルギー補充は絶たれているので、効果は限定的といえる)

ではそもそも空間に漂うエーテルの正体は何なのか? どこから来たのか?


ルクスリア王によれば、エーテルはゲンブの体内に流れているという
アルスの活動エネルギーは、アルスが雲海を摂取することで発生するらしい
その活動エネルギーの「流れ」がエーテル流であるという
それを精錬し、結晶化したものがコアチップだという

武器のクリスタル=コアチップだとすると、ブレイドはエーテルエネルギーをエーテル結晶に照射することでエーテル結晶を励起させ力を発生させている、ということになる

一般に励起状態になった結晶は高エネルギー状態となるので、原理としてはありうると思われる。

こうした原理を利用したものとして「レーザー」があり、「光励起」によって発生させた超高出力レーザーによる核融合、プラズマ物理、高エネルギー物理などが応用として挙げられる

エーテルがエネルギーとなる原理がなんとなくわかってきたところで、空間に漂うエーテルの謎も解明される

つまるところ、空間に漂うエーテルとは空気中に溶解(蒸気化した)したエーテル結晶(その元である過飽和の蒸気)である
それは条件が揃えば結晶として成長(アルスの体内のように濃度が濃く、さらに儀式により結晶化させる)し、さらにエーテルそのものによって励起され力を発生させる

エーテルそのものは、アルスが雲海を摂取し活動エネルギーに転換したものである
その活動エネルギーが希薄化し、アルスト全体に薄く漂っていると思われる
(エーテルをアルス起源に限定できるかどうかは断言できない。他に発生の仕方があるのかもしれない)

※なおナノマシン談義には踏み込まない(あくまで雲海を摂取し活動エネルギーを得ているとだけ)

2018年1月13日土曜日

ゼノブレイド2 考察6 聖杯大戦とラウラの身分

前回の考察5で、ファン・レ・ノルンとレックスの類似性を示すだけの予定が、なぜか暴走したあげく資料を検討することもなく完全に間違った考察に至ってしまったのでその訂正もかねて聖杯大戦についてまとめようと思う

聖杯大戦

事の起こりはマルベーニがメツを目覚めさせたことだった

メツは与えられた天の聖杯としての力を使い、世界を消し去ろうとする
それに対抗すべく立ち上がったのが抵抗軍だった

カラムの遺跡で決起した抵抗軍を率いていたのは、イーラの英雄アデルだった
アデルはその時、ヒカリを目覚めさせる

ラウラが合流したのはその後である(抵抗軍決起の場面にラウラの姿は確認できない)

アデルから叙勲され正式なイーラのドライバーになった時点でラウラは抵抗軍に参加したと思われる。↓のラウラの後ろに見えるのがアデル

このことから国家としてのイーラ抵抗軍の主力であったことがうかがえる

その後、抵抗軍はメツとの戦いを続けやがて決戦の時を迎える
(抵抗軍のキャンプにて、メツの狙いが王都であることが判明)


王都とはイーラの王都だと思われる

第四話のオープニングの映像に映るこの特徴的な塔は、後にイーラを語るシンの場面にも登場するからである


イーラはアルスへの信仰を持ち、人間とブレイドとの共存を目指した国だった

だが、イーラはメツとヒカリとの戦いに巻き込まれてしまう(王都を狙ったメツを迎撃しようとして王都は焦土になったと思われる)

ヒカリによれば聖杯大戦によって3つのアルスが沈んだという

そしてヒカリがイーラを去った後、マルベーニによるイーラの残党狩りが始まった

この時、すでにイーラが沈んでいたのかは定かではないが、残党というからにはイーラ軍はすでに故郷を失い各地を放浪していた状況のように思える。

こうしてイーラは滅亡した、というのが聖杯大戦を時系列順にまとめたものである

さてここで問題となるのはイーラの民である
以下は破壊される王都をなすすべなく眺めるイーラの民である

ルクスリアの民に似ているが、ラウラには似ていない(イーラの成人女性に特徴的な顔の入れ墨がラウラにはない。また瞳の色も異なる)。ついでにいうのならアデルにも似ていないのである

そもそも着用している衣服(防具)方向性からして異なっている

では全く別の国からやってきた渡来人なのかというと、そうではないと思われる
というのも、あまりにあからさまであるがゆえに、考察対象にすらならなかったことであるが、この服装、神職や巫女の服装がモデルである

それをそのまま素直に受け取るのならば、ラウラは神官階級のイーラ人である
要するにラウラの出自は神に仕える神官であり、その神とはイーラにおいては「アルス」のことだった(上記で述べたようにイーラはアルスへの信仰を持ち、人間とブレイドとの共存を目指した国だった)

イースにおいては神官はだれにでもなれるものではなかった。ある身体的特徴が必須だったと思われる。その身体的特徴こそ「黄色い瞳」である

この黄色い瞳というのは、ブレイドによく見られる特徴である
人とブレイドとの共存を目指すイーラの民において、それは人とブレイドとの特別な絆を示すであったのだろう(同様に平民に施される入れ墨は神官には許されなかった)

またアルスとのある種の交感を可能にする能力を有している証であったのかもしれない
マルベーニが恐れたのはそうしたイーラの力であり、メツがレックスの瞳の色について触れたのも、その特殊性を知っていたからだろう

話は逸れるがジークがコンタクト(カラコン)をしているのは、もしかすると黄色い瞳を隠すためなのかもしれない。彼の父であるルクスリア王ゼーリッヒの瞳は黄色で、その特徴が代々受け継がれるとしたら、ジークのもとの瞳の色は黄色なのかもしれない。ただこの親子は全然似ていない(人種すら違って見える)ので、あまり参考にならないかもしれない



以下は幼少期のラウラと彼女の母親(たぶん)の画像だが、セピア色に加工してあるために、黄色なのかそうでないのか判別がつかない。色調的に黄色もありえるかもといった程度である

さて、ラウラ=神(アルス)に仕える神職説が正しければ、レックスの出自も判明したことになる

レックスは神職(審神者)としての能力を発現させたイーラ人である(ゲーム中にみせたアルスやブレイドとの親和性を鑑みれば、レックスがそういう存在であっても不思議ではないように思える)

人とブレイド(アルス)との調和を保ち、その共存を実現する存在としてレックスは誕生したのである




2018年1月12日金曜日

ゼノブレイド2 考察5 ファン・レ・ノルンとレックス

1つのコアクリスタルの中に2つの名前(自我)が宿ったのが「ホムラ/ヒカリ」であるとするのならば、ファン・レ・ノルンは「コアクリスタルが2つに分割されることで2つの自我が芽生えた」ブレイドであるといえる

ファン・レ・ノルンは本来カスミという名でありラウラのブレイドであったが、聖杯大戦の後、マルベーニによるブレイドイーター手術によりコアクリスタルを分割されてしまった。その結果、カスミはマルベーニに喰われ、残りがファン・レ・ノルンというブレイドとして存在することとなったと思われる


ファン・レ・ノルンに関してはその外見がラウラと瓜二つとわざわざゲーム中に触れられている

カスミから言わせればそれは同じ姿なのだという

物語におけるこうした瓜二つ設定は必ず何らかのトリックやギミックとして利用されるのが通例である。放置したままというのはありえないレベルの設定なのだ

さて、上記の画像にあるとおりファン・レ・ノルンの瞳の色は黄色である
セピア色で分かりにくいが、ラウラもまた黄色の瞳のように見える

このラウラの顔を見て、誰かに似ていると感じたのは自分だけではないだろう
つんつん気味の髪質、黒い髪色、黄色の瞳、さらにどことなく東洋風の容貌・・・

そう、レックスである

作中レックスがファン・レ・ノルンに向ける眼差しについては、ニアがわざとらしいほどに触れていたが、その心情をレックスは明かすことはなかった

ただ想像でいわせてもらうのであれば、レックスは明らかにファン・レ・ノルンに憧憬を超えたものを感じていたように思えた

レックスの出自は作中では明らかにされていない
ただ、誰に似ているかといえば、アデルではなくラウラであろう

ちなみにアデル瞳の色からして違う(わかりやすいように明度を上げた画像)

髪色はもちろんのこと、輪郭も異なるように見える
これらのことからレックスはアデルの血を引いていないと考えられる

では一体レックスとは何者でどこから来たのか?

この疑問に対する一応の答えは考察6の最後に載せている


2018年1月11日木曜日

ゼノブレイド2 考察4 ネフェルと破壊されたコアクリスタル

ネフェルの自己犠牲

ネフェルの自己犠牲的行為に関しては各所で物議をかもしていたが、根本にあるのは以下の疑問である

ネフェルはなぜわざわざワダツミのバリアから飛び出たのか?

次の画像は事故現場に落ちていたワダツミのコアクリスタルのものである

コアクリスタルが破壊されているのがわかるだろう(破壊されたコアに関する考察は後述する)

つまり、あの爆発はワダツミのコアクリスタルを破壊するほどの威力があったことになる
Gサクラの外見にごまかされているが、実は相当に深刻な事態だったのである

間一髪、他の人間が助かったのはワダツミバリアのおかげである
しかもそれは、ワダツミのコアが破壊されるほどギリギリの状況だった

もしネフェルが爆発とバリアの間に飛び出し、身を挺して爆発の威力を低減していなければ、あの場で全滅していてもおかしくはない、という推察もできる

この爆発、そもそもネフェルの肉体が爆散していてもおかしくはない威力だが、おそらくそれを正確に描写するとCERO:Zとかになってしまうので(子供なのでZでも無理かも)表現上致し方ない部分でもあるのかもしれない

もっともワダツミのバリアがわずかにネフェルに届いていた、とする考え方のほうがより自然だろう(ネフェルの飛び出しにワダツミが驚いていないことからも、その存在がうかがえる
その場合、ブレイドのバリア付きの人間が爆発との間に立ちふさがることになるが、これは爆弾と味方との間に鉄板が立てられたようなもので、爆発力は格段に低くなるはずである

つまりネフェルは爆発の規模が分からないあの状況で瞬時に判断し、二段構えの防護策を講じたことになる(スイッチを押させまいとすることも考えると三段構えか)


まとめると次のようなものになる
爆発の威力はワダツミのコアクリスタルを破壊するほどの規模のものである
皇帝の捨て身により爆発が弱まったと考えるのが自然である
・ネフェルはワダツミにバリアを張らせて味方を守らせると同時に、爆発の威力を弱めるため(かつスイッチを奪うため)に身を投げ出したのである

以上のことからネフェルの自己犠牲的行為には理由が存在し、それは妥当なものであるということがわかる

これに関しては、インヴィディアのラゲルトもこう漏らしている

ラゲルト女王に恩を着せるための計算づくの行為であった、という深読みもできる(それを判断できるほどネフェル皇帝の描写がないので判断は保留する)

補足
メレフがネフェルの亡骸を置いて犯人を追ったことに関しては、彼女はそもそも情よりも職務を優先するということが描かれている。よって彼女の職務として犯人の追跡はネフェルの亡骸を守ることよりも優先されるのは当然である

また二国間の首脳会談という性質上、あの場にスペルビア軍人が入ることは禁じられていたと考えるのがふつうである。そうした様々な状況が重なって、あの場に誰もいなくなるという状況が生まれるのである

破壊されたコアクリスタル

次の画像はネフェルが助かってからのワダツミのコアの画像である

ネフェルの傷は癒えたというのに、ワダツミのコアクリスタルは亀裂が入ったままである。これはあの時点でドライバーとブレイドの絆がいったん断ち切れたことを意味する

が、ここに重要な示唆がある

コアが破壊されたのに、この後ワダツミのコアクリスタルは使用可能な状態となりそれはメレフへと受け継がれる

つまり「コアクリスタルが破壊されたとしても再び同調可能な状態に戻る」ことが示唆されている

なにが重要かというと、これによってストーリー中にコアクリスタルが破壊されたブレイドDLCにおける復活の可能性が出てくるからである

次の画像はヨシツネのブレイド「カムイのコアクリスタル」である

コアに亀裂が入っているが、ワダツミとそう変わらないように思える。この後地面が崩壊し雲海の中に消えるものの、おそらく時間が経てば同調可能な状態に修復されるのではないかと思われる

サタヒコ、ベンケイのブレイドに関してはムービー中に破壊されたコアクリスタルが登場しないので断言はできないが、同じような状態ならばやはり修復されるのではないだろうか

ちなみに次の画像はスザクのものである
光が失われる直前であるが傷は確認できない