まったく関連がない可能性も高い
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トーマの心臓
トーマ・ヴェルナーの自殺から始まる物語。ただしトーマの自殺はプロローグであり、いわば劇外の出来事である本筋はシュロッターベッツ高等中学(ギムナジウム)におけるユリスモール・バイハン(ユーリ)を巡る物語である
しかしながらトーマの死は劇中において絶対的な不合理として通奏低音のように流れ続け、学内に不穏な空気を醸しだし、さまざまな騒動を引き起こしていくこととなる
例えるのならば、舞台の下(奈落)に死体があることを知りつつ、舞台上で演技する俳優たちのようなものである
彼らは平然と演技をしようにもやがて破綻することは必定である
この緊張感がこの作品を名作たらしめているのであろう
そもそもなぜ、トーマの死は劇外にあるのか。
アリストテレスは悲劇について次のようにいう
しかし劇の出来事のなかにはいかなる不合理もあってはならない。それが避けられない場合には、ソポクレースの『オイディプース王』におけるように、悲劇の外におくべきである。(アリストテレース『詩学』60頁。岩波文庫)
なぜかというとあまりに大きな恐怖に襲われると、人はおそれもあわれみの感情も持てないからだ(そのため既存作品の多くでも大きな恐怖、殺人や自殺は劇外に置かれる)(参考:アリストテレース『詩学』138頁 第6章 訳注3 岩波文庫)
この『トーマの心臓』は悲劇作品の要諦を備えている物語であるといえるだろう
一方、救いの物語でもある
ただしこの救済に関して最大の疑問がある
なぜキリスト教における最大の罪である「自殺」によってユーリが救われるのか
わたしはここに宮沢賢治の思想との類似性を見いだすのである
冒頭に記されるトーマの手紙には以下のような言葉が綴られている
今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない
わたしはこれを読んだとき、銀河鉄道の夜のあるセリフを想起した
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」(『銀河鉄道の夜』)
言うなれば、自己犠牲による救済である
この思想はさらにさかのぼれば、仏陀の本生譚(ジャータカ物語)にまで通じるであろう(捨身飼虎、あるいは自らの身を火に投じ、食料として捧げたウサギの話)
ではトーマの心臓は仏教的な物語なのか、というとそうではない。新約聖書ローマの信徒への手紙には、アダムをキリストの予型として論じる節がある(5章12節)
つまりアダム=キリストであり、「アダムは死し、キリストに生きる」という構図には、「死ぬことによって生きる」という思想が包含されている
このことは、新約聖書ヨハネによる福音書にも現われている。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(新約聖書ヨハネによる福音書第12章24節)
さて、最初の疑問に戻ろう。なぜトーマが死ぬことでユーリが救われるのか
簡潔に言えば、トーマとユーリは魂を共有する同一存在として創造されている。同一と言っても完全に融合しているわけではない。彼らは光と影(金髪と黒髪)がひとつの魂を共有する双子的な存在として描かれているように思える
双子の片割れであるユーリは神を棄てたことで翼を剥ぎ取られ、魂が死にかけている。その彼に翼を与えられるのは、トーマしかいないであろう。彼は自ら命を絶つことで、その翼をユーリに与えたのだ。魂の双子であるがゆえに、それは可能だったのだ
一つの魂が「死ぬことによって生きた」のである(キリスト教においては再生、仏教においては見性という)
タイトルのトーマの心臓とは、つまりユーリの心臓のことである。心臓とは「心」であり「魂」のことである。ユーリがそれを拒絶したのは、殺したはずの自分の魂をトーマの心臓に見いだしたからであろう
ユーリの「許し」がトーマを「救った」のは、その「許し」が自分自身のものであったからである。神を棄てたことを最も許せなかったのは、ユーリ自身であった。だが、その怒りは自己への執着そのものであって、その肥大した自我の醜さに気づいたとき、ユーリは自分自身を許し、世界と和解を果たしたのだ
思春期特有の自分と世界との格闘を描いた作品と言えば『伊豆の踊子』があげられるであろうが、『トーマの心臓』もまたそれに匹敵する傑作であると断言できる
11月のギムナジウム(短編集)
『11月のギムナジウム』表題作の『11月のギムナジウム』は、トーマの心臓の原型ではなく、その後に再構成された作品。トーマの心臓が難しすぎたと思ったのか、小著ながらも分かりやすい作品となっている
物語の構造は『トーマの心臓』と同一である
やはりこの作品の背景というか、舞台の下には「悲劇的な死」が横たわっている。
物語は瓜二つの二人の少年が、「悲劇的な死」に徐々に影響を受けていく構造となっている。
よりわかりやすく、魂を共有した二人の少年は双子となり、やがて「死によって生きる」こととなる
『塔のある家』
一冊の古い本に住んでいる三人の妖精と少女の話。
少女の成長を妖精たちが見守るという形をとっているところが、デラシネと似ているかもしれない
『セーラ・ヒルの聖夜』
悲劇的な死と、双子という『トーマの心臓』『11月のギムナジウム』と類似した構造を持つ物語
こちらは男女の双子であり、舞台もギムナジウムではなく田舎の村である
ポーの一族
デラシネに登場する少女のキャラクターの参考になったのは、メリーベルかリデルではないかと推測。トーマの心臓の寄宿舎は男子校であるし、ユーリには妹がいるが登場する機会がほとんどない。その点、メリーベルは登場する場面が多いうえに、性格も火防女的なところがある(人を誘う)。リデルはキャラクターとして強い個性があるし、語り部としても適している(フロム的な語り部)
さて、ポーの一族はバンパネラと呼ばれる人の血を吸う者たちの時代を超えた物語だ
ポーの村という故郷があるが、エドガーたちは帰れない。つまり故郷喪失者(デラシネ)である
が、彼らが失ったのは地理的な故郷だけではない
彼らは時間をも失っている
成長しないために、二年と同じ土地にいられず、そうして彼らは人の世界を根無し草(デラシネ)のようにさまよい続ける
小鳥の巣と題された作品はギムナジウムが舞台で、やはりここでも一人の少年の死が学園生活に影を落としている。『トーマの心臓』や『11月のギムナジウム』と類似した構造であるが、吸血鬼物としての完成度も高いのは脱帽である
デラシネに関係ありそうな概念を抽出すると、「マザー・グース」「バラの花」「ギムナジウム」「時間」「永遠の人々」「双子」などが挙げられる
あえて共通する構造を持ち出すとするのなら、「デラシネの舞台の下には、悲劇が横たわっている」というところだろうか
何者かの死、愛された少年の死。少年の死によって生きることになった存在。妖精とは、少年が魂になったものであろうか
また花嫁にするために少女を育てているバンパネラが登場するが(それも二人も)、それをゲームにするとジャンルが変わってしまうので違うか
蛇足
デラシネと関連した話を書くはずが、萩尾望都作品の感想文のようなものになってしまったポーの一族の項から軌道修正をしたが、しなかったらおそらくポーの一族がもっとも長い記事になっていたと思われる